身内の無理解を超えて
和田一郎牧師 説教要約
2026年2月22日
イザヤ書 63章7-14節
マルコによる福音書3章20-30節
Ⅰ. イエス様の「家」
今日の聖書箇所の冒頭には「イエスが家に帰られると」と書かれています。イエス様の「家」とはどこだったでしょうか。
イエス様がガリラヤ地方の町々を宣教している時に「イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられる・・・」(マルコ2:1)とあります。ここから、イエス様がガリラヤ湖のほとりにあるカファルナウムという町の家に滞在しておられたことが分かります。
しかしその家は、生まれ育った家ではなく、最初の弟子であるシモン(ペトロ)とアンデレの家だったのです。ガリラヤで伝道するための拠点として用いたようです。今日の箇所を理解するうえで大切な言葉は「家」です。家とは、家族がいる場所です。この箇所は、イエス様にとっての家とはどこか、また家族とは誰なのか、そして私たちにとって家とは、家族とはどのような存在なのかを問いかけているのです。
イエス様は、各地で神の国を宣べ伝え、久しぶりに「家」に戻って来られました。ほっと一息つく場所であったはずです。しかし人々はイエスを休ませません。「群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった」とあります。イエスは、「今日は休みです」と言って人々を断ることはなさいませんでした。イエス様は、私たちを徹底的に受け止めてくださるお方であることが伝わってきます。さらに20節の「一同は食事をする暇もない」とありますが、「一同」とは弟子たちもまた、忙しくなったのです。それは弟子たちがイエスの働きを肩代わりしたわけではありません。働いておられるのはイエス様ご自身です。しかし、そのもとに集い、従っていく者たちは、自然とその働きの中にあります。信仰に生きるとは、居場所の問題です。イエス様が示された「神の国」という愛のただ中に身を置くことです。そこでは時に忙しさや大変さも生まれます。しかし、押しつけとしてやらされる働きではありません。「イエス様の働かれる中で起こること」なのです。家とは、ただ休む場所ではなく、イエス様の愛があふれ出し、人々が集まり、私たちもその愛に巻き込まれていく場所なのです。
Ⅱ. 家族の来訪
ここで、イエス様の「身内の人たち」が登場します。この人たちについては、少し後の31節以下にも語られ、「イエスの母と兄弟たち」と記されています。つまり、イエスの家族です。その家族が、21節にあるように「イエスを取り押さえに来た」のです。家族は「食事をする暇もなく働いて「気が変になっている」という噂を本当だと思い、連れ戻そしに来たのです。
ここで「気が変になっている」と訳されている言葉は、新約聖書では心に対してのみ適用されていますが、もともと「外に立っている」という意味を持っています。自分の外に立ってしまっている、つまり本来の自分を失い、別人のようになってしまっている、ということです。故郷のナザレの家族たちや人々は、イエス様をそのように見ていたのでしょう。「あの大工の息子、イエスは自分を失っている」と。考えてみれば、無理もないことでした。三十歳まで、大工の子として普通に暮らしていたイエスが、ある日突然家を出て村を離れ、各地で「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と語り始め、病を癒やし、悪霊を追い出している・・・そんな話が伝わってきたのです。家族が「このままではいけない、連れ帰らなければ」と思ったのは、むしろ自然なことでした。彼らはイエス様を憎んでいたのではありません。愛しているからこそ心配したのです。
しかし、興味深いのは、一方には、イエス様を連れ戻そうとする家族がいます。もう一方には、「家」に集まりイエス様と寝食を共にして宣教の働きをして忙しい日々を過ごしています。
いったい誰が「身内」なのでしょうか。本当に「家の人」「家族」であるとは、どういうことなのでしょうか。この場面は、家族とは血縁だけで決まるのか?それとも別の結びつきがあるのか?そんな問いを私たちに投げかけています。
Ⅲ. 誰との闘いなのか
22節から場面は少し変わります。今度は、エルサレムから来た律法学者たちが登場します。
彼らは、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」という判断を下しました。ベルゼブルとは悪霊の頭、つまりサタンのことです。彼らは、イエスが悪霊を追い出している事実そのものは否定できませんでした。確かに霊的な力が働いている。しかしそれは神の力ではなく「悪魔の力だ」と説明したのです。これはもっともらしく聞こえます。イエスの働きを認めながらも、イエスを信じ従う必要はないという理屈です。
そこでイエス様は、彼らを呼び寄せて語られました。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。」というのです。そうです、イエス様は悪霊を追い出していました。悪霊が悪霊を追い出すだろうか?悪霊と悪霊の内輪争いなら、悪霊の家は立ち行かないではないかと言うのです。
イエス様が悪霊を追い出せているのは、悪霊の仲間だからではありません。主イエスが悪霊の親玉(サタン)をすでに圧倒し、縛り上げているからこそ、その支配下にある人々を救い出せているのです。
さらにイエス様は、たとえを語られます。「まず強い人を縛り上げなければ、その家に入って家財を奪うことはできない」。ここでいう「強い人」とはサタンのことです。そして「家」とは、私たち人間のことです。私たちは罪や自己中心に縛られてしまうことがあります。まるで家が占拠されているような状態です。
イエス様は、その家に踏み込み、支配している「強い者」を縛り上げ、私たちを解放しようとしておられます。このように、この箇所は「家」をめぐる出来事として語られています。家族が心配して連れ戻そうとする家、群衆が集まる家、そしてサタンが支配している私たち自身という家。イエス様はその家に来て、本当の自由へと導こうとしておられるのです。
Ⅳ. 聖霊を冒涜する者は
イエス様は29節で、「聖霊を冒涜する者は永遠に赦されない」と語られました。律法学者たちにとっても厳しい言葉として受け取ったでしょう。イエス様は律法学者を「敵」として戦っていたのでしょうか?律法学者たちは悪意からではなく「正しい信仰を守ろう」としてイエス様を否定しています。ところが人間の中にある偏見、自己中心など、それこそがサタンの働きなのです。イエス様と律法学者との論争は、単なる宗教論争ではありません。「イエスは彼らを呼び寄せて」(23節)とあるように、これはイエス様の「裁き」ではなく「招き」なのです。
律法学者をも解放するために、彼らを縛っている力(サタン)と戦っておられるのです。この箇所は「誰が悪いか」を語っているのではありません。むしろ私たちに問いかけています。
私たちは、神の働きを神の働きとして受け取っているだろうか。それとも、自分の理解に合わないために退けてしまっていないだろうか。
この違いはどこから生まれるのでしょうか。それは、主イエスを神から遣わされた救い主として信じるかどうかです。主を受け入れるなら、主が家の主人となり、私たちはその家族になります。悪霊から解放される道は、イエス様を家の主人として迎えることです。イエス様は十字架と復活によってサタンに勝利された方です。その方が私たちの内に来てくださるとき、私たちは神に造られ、生かされている本来の自分を取り戻し、喜びをもって神に従う者へと変えられていきます。
イエス様の十字架の苦しみと勝利の恵みを共に受け取り、イエス様と共に生きる「神の家族」として、その結びつきを大切にしていきましょう。
お祈りをいたします。


