神の力強い御手の下で
宮井岳彦副牧師 説教要約
2026年3月15日
出エジプト記15章11-16節
ペトロの手紙一5章6-14節
Ⅰ. 永遠の神の招きにあずかって
私がこの場所に立つとき、これまでご一緒にペトロの手紙一の御言葉に耳を傾けて礼拝を献げてきました。2024年4月からのことでしたので、今月でちょうど丸二年ということになります。それが今朝で終わります。遅々とした歩みでしたが、ペトロ牧師から私たちへの手紙を今日で読み終えます。
この手紙は「ペトロの手紙」と呼ばれています。2年前にも申し上げましたが、今日この手紙はペトロ自身が筆を執って書いたものとは殆ど考えられていません。ペトロの言葉を聞き書きしたのか、あるいはペトロの影響を強く受けた人が書いたのか。いずれにしても、やはりこの手紙にはペトロの信仰が色濃く表れていることは確かであろうと私は思っています。
この手紙にはいくつもの心に残る言葉がありました。例えば、第2章9節です。「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある顕現を、あなたがたが広く伝えるためです」。ほかにもいくらでも挙げられるでしょう。
ここに「驚くべき光の中へと招き入れてくださった」とあります。すばらしい言葉です。主なる神さまが私たちを驚くべき光の中に招き入れるために、驚くべき御業をなしてくださった。まさに「驚くべき」出来事です。神の驚くべき御業のお陰で、私は今ここにいる。その事実を改めて覚えます。
本日私たちに与えられている第5章10節にはこのように書かれています。「あらゆる恵みの源である神、キリストを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神ご自身が…」。ここでは、先ほどの第2章9節で「驚くべき光の中へと招き入れてくださった」と言っていた事を「永遠の栄光へ招いてくださった」と表現しています。神はあらゆる恵みの源です。その方が私たちをご自分の永遠の栄光という驚くべき光の中へ招いてくださった。この招きが実って、今あなたはここにいるのです。
Ⅱ. 私たちは永遠ではない
「永遠の栄光」です。神の栄光は永遠です。私たちはそうではない。私たちのすることも、私たちの命そのものも永遠ではありません。私たちは人間に過ぎない。私たちは限りある存在です。
水曜日は3月11日でした。15年前の3月11日を皆さんはどのようにお過ごしになっておられたでしょうか。あの日のことも、あの日からの日々のことも、決してひと言で言ってしまうことはできません。あの出来事によって人生が変わった人もたくさんおられると思います。今振り返れば結果として好い変わり方をしたという方もおられますが、そうではなく、今でも受け入れることのできない変化を強いられたという方も大勢おられます。
あの震災、特に原発事故は、私たちの営みが決して永遠ではないという事実を突きつけました。私たちのすることには限りがあります。知恵も考えも及ばないし、人間として力が及ばないことがたくさんあります。私たちには地震が起こらないようにすることはできないし、どんなに慎重になったつもりでも想定外の災害は起こる。それどころか自分たちが造った原子力発電所が生み出しているゴミすらままならない。私たち人間は甚だ不完全です。
数年前に浪江町を訪れました。今でも帰宅し、居住することのできない地域にある教会堂を見ました。あの会堂でかつて神を礼拝した人々は今どうしておられるのか。一つの教会の歴史でさえも、永遠ではないのです。厳しいことです。
しかし、私たちは知っています。神さまはそうではない。神さまは人間ではありません。永遠のお方です。「しかし、あらゆる恵みの源である神、キリストを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神ご自身が…」。神は永遠のお方。私たちが今賛美することを許されているのは、神の永遠の栄光です。
私たちの救いも希望も、私たち自身にはありません。人間のしていることも、私たちの知恵も、最後の最後に私たち自身を救う力がありません。神とキリストの驚くべき光だけが、限りある存在で限りある知恵と力しか持ち合わせない私たちの望みなのです。
だから私たちは神の永遠の栄光を賛美します。「力が世々限りなく神にありますように、アーメン」(5:11)。私たちも心を合わせ、声を合わせて神を賛美します。それが、この世がもたらす繁栄ではなく神の力を信じる私たちの礼拝です。
Ⅲ. ペトロの思い煩い
先ほど、この手紙にはペトロの信仰が見えてくると申しました。例えば7節です。「一切の思い煩いを神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」。
ペトロが主イエスと共に旅をしていたときの出来事です。主イエスは「空の鳥を見なさい」「野の花がどのように育つのか、よく学びなさい」とおっしゃって、御言葉を語ってくださいました。「あなたがたは、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い煩ってはならない」と主は言われます(マタイ6:25〜34)。ペトロは群衆の一番前に座ってこの話に耳を傾けたに違いありません。
主は、他の何よりも大切な自分の命のことを思い煩うな、とおっしゃいました。驚いたと思います。自分の命、食べるもの、着るもののことで思い煩うな。いや、それこそが何をおいても一番大事なものです。ところが主イエスは神がそれらを備えてくださる、とおっしゃった。ペトロには忘れられない言葉になったでしょう。やがて主の言葉を思い出しては教会の仲間に話したに違いありません。「一切の思い煩いを神にお任せしなさい」と。
やがて主イエスがペトロらを伴ってエルサレムへ行かれました。主は弟子たちと一緒に晩餐の席につかれた。そこでペトロに向かって言われたのです。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願い出た。しかし、私は信仰がなくならないように、あなたのために祈った。だから、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:31,32)。シモン・ペトロ、お前は悪魔に負ける、と主は言われました。ペトロはそれを聞いて、心外だとばかりに言いました。「主よ、ご一緒になら、牢であろうと死であろうと覚悟しております」(ルカ22:33,34)。
ところが、実際には、ペトロは食事の後に逮捕された主イエスのことを、その夜のうちに三度も繰り返して「知らない」と言いました。ペトロは、自分の命のことを思い煩ったのです。自分の命は自分で守らなければどうしようもないと思ったのです。自分の命は他人には任せられない。まして神になんて!ペトロは自分の命を握りしめたのです。そうやって自分の命を思い煩ったとき、ペトロは主がおっしゃったとおり、サタンに負けたのです。自分の命を握りしめたとき、ペトロは実のところ悪魔に服従したのです。
Ⅳ. 悪魔に抵抗せよ!
ペトロは、あの夜の主の言葉を思い出しながら言っているに違いありません。「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと歩き回っています。信仰をしっかりと保ち、悪魔に立ち向かいなさい」(5:8b〜9a)。
ここで「悪魔に立ち向かいなさい」と言っています。「立ち向かいなさい」。この命令形は、緊急の命令を表す言い回しになっています。「赤信号では横断歩道を渡ってはいけません」という標語ではなく、「車だ、止まれ!」というような言い方です。悪魔があなたたちをライオンのように食い尽くそうとしている。立ち向かえ、抵抗せよ!
一体どうやって悪魔に立ち向かったら良いのでしょうか?そのことについて、ペトロはこのように言うのです。「ですから、神の力強い御手の下でへりくだりなさい」(5:6)。この表現ですが、ギリシア語に詳しい人の解説によると、方向を表す表現が使われているそうです。「神の力強い御手の下に潜り込め」。へりくだって、神の手の下に潜り込むことによって、私たちは悪魔に抵抗する。
ペトロは、主イエスの言葉を思い起こし、この手紙を読む私たちに「一切の思い煩いを神にお任せしなさい」と言います。この「お任せする」は直訳すると「投げる」という字です。「一切の思い煩いを神に投げてしまいなさい」。思い煩いを握りしめるのではありません。自分で自分の心配をしなければどうにもならないとがんばるのではなく、それをキリストに投げたら良い。
ペトロは、あの晩餐の席上で主イエスに「牢であろうと死であろうと覚悟しています」と言いました。自分で自分の心配をし、強い決心によって信仰を守りぬくと言い切りました。自力で生きようとしました。
それは実はとても傲慢(ごうまん)なことです。立派な信仰の決心に見えますが、驕(おご)っていると思います。自分の命を思い煩う心から生まれた言葉です。
そうではなく神の力強い御手の下に潜り込むことができる。私たちの人間としての営みは永遠ではないし、限界があります。知恵も力も、命にも。私たちの最上の業すらも永遠ではない。しかし、私たちには逃れ場があります。神の力強い御手の下に潜り込むことができる。神の手の力は、私たちを押しつぶし、やっつける力ではありません。私たちを悪魔の力から守る力です。
私たちには世で苦難がある。しかし、あなたは神のものです。どのような力も、あなたを神の愛から引き離すことはできません。私たち高座教会は、この神の力を賛美する共同体です。「力が世々限りなく神にありますように、アーメン」(11節)。


