身代金となる方
潮田健治牧師 説教要約
マルコによる福音書10章32~45節
2026年3月22日
Ⅰ.知らないうちに
受難節の日々を歩んでいる中で、私たちは「身代金」という言葉を聞きました。
私たちのパソコンはウイルスセキュリティというアプリで外部からの攻撃から守られています。ある時、そのウイルス・セキュリティからメッセージが入りました。「身代金ウイルスに注意」と。一般に「ランサム(身代金)ウエア」と言うのですが、パソコンにある文書や写真を見ることができないようにして、身代金を要求する、というものです。最近は、大手の企業でもこの被害に遭って仕事ができない状態に追い込まれるという、深刻な事態が報道されています。パソコンは自分の部屋にあるのに、いつのまにか勝手にそのパソコンが何者かに支配されてしまうのです。
Ⅱ.いったい誰が支配されているのか
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
この身代金は、パソコンを取り戻すためではない、聖書では、人の命を救うために使われます。だからこそ、支払われるのはお金ではなく、主イエスの命なのです。そしてイエスの命によって救い出すのは、「多くの人」(すべての人)です。
主イエスが「身代金」となる、というのですが、しかしこの時、弟子たちはそのことを受け止めきれず、とんでもない話を始めたのです。
もしかしたら私たちも、同じかもしれません。「それは何の話ですか?」という感じです。主イエスは、いったい、誰の身代金となるのでしょうか。身代金になるというのは誰かが捕らえられている、ということが前提ですが、ではいったい誰が、そして誰に、捕えられているというのでしょうか。
教会に来ると、礼拝堂には十字架があります。それは、主イエス・キリストは十字架で死んだ、ということを示しています。しかし、それだけのために礼拝堂に十字架があるのではありません。主イエスが死んだ大事な意味を、十字架で伝えているのです。つまり、主イエスは、今日の言葉で言えば、「多くの人の身代金として自分の命を献げられた」ということを伝えているのです。「多くの人」というのは、直前の言葉から「すべての人」です。すべての人、私たちが、(私のパソコンは家にあるのにウイルスに感染して自由を失ってしまうように)ただ普段通り自分の生活をしているのにもかかわらず、しかしその自分の生活の中で、どういうわけか人間らしく動けなくなっている、捕らえられている、というのです。
7章を見ると、主イエスはこう言われていました。「人から出てくるもの、これが人を汚す。つまり人の心から、悪い思いが出て来る。淫行(みだらな行い)、殺人、姦淫、貪欲、悪意、欺き、放縦、妬み、冒涜、高慢、愚かさ、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」つまり、人間は神から離れた時から、的外れ、つまり罪の支配に閉じ込められている、と言っています。
それは少し考えてみれば、はっきりしているのではないでしょうか。私たちは、現実に、人間らしく考え、そして行動することができていないからです。はたして弟子にしてさえ、ここにあるように、自分を良い地位に座らせてほしいといったように、自分中心にしか、考えることができないのです。誰が上か下かということが大事になる。下になれば妬みが生じる、嫉妬するというように、人は、どうしてもそこに一番の関心が行ってしまうのです。人間、私たちは、そのように罪の支配に閉じ込められているのです。私たちは、罪の支配の中にいて、心が何かに支配されている限り、自分が優位に立とうと、国家であれば武力を手にして、自分の優位性を示そうとして、今の国際社会にあるような悲劇を繰り返すのです。
神によって極めて良いと創造されたにもかかわらず、人は、罪、的外れに捕らえられてしまっているから、人間らしく考えることが出来ない。捕らえられてしまっているから、人間らしく感じることが出来ない。人間らしく行動することができない。神を礼拝できない。そういうことを、人質に取られている、捕らえられている、拘束されている、というのです。普通の生活の中で!
Ⅲ.主が身代金となってくださるのに、人は‥
そこで、主イエスが身代金となってくださる、と言うのです。主イエスが身代金となってくださることで人は罪から解放され、人間らしく動けるようになる(してくださる)のです。主イエスが身代金になるというのは、いったい誰のためなのか。私たち、罪に支配されて自由になれない人間のためだったのです!
問題は、主イエスが、今のように人の中に罪のための破滅的な姿を見ているのに、だからこそ、はらわたをねじらせるような痛みをもって、ご自身が身代金となってくださっているのに、にもかかわらず、いまだに人は、それを知らない、ということです。
自由に生きることが出来ていないと言われれば、そうかもしれない。でも、まあ、人間、こんなものではないかと思っている。主イエスの痛みを知らないのです。だから、こんなものでいいのではないかと。そして、弟子たちのような議論を繰り返すのです。
以前も灰谷健次郎の作品『兎の眼』の話をしました。先生がハンガーストライキをしている、そこに訪ねてきた子どもたちと会話をします。そこで、「あの晩」の話をします。ドロボーした晩だというのです。今みたいに腹がへって死にそうな時に、先生はドロボーした。恐ろしくて、だから、四、五回でやめてしまった。しかし先生のお兄ちゃんはドロボーが平気だった。何回も何回もドロボーした。「兄弟が七人もいたから、ツバメが餌を運ぶように何回も何回もドロボーしたんやな」とうとう捕まって少年院に送られることになって、死んだという話になって、こう言うのです。ドロボーして平気な人間はいない。先生は一生、後悔するような勘違いをしていたんだ。先生はお兄ちゃんの命を食べて、大きくなったんだと。
自分のために死んだ、兄のことを話すのです。自分は、ドロボーができない、しない。でも兄は平気だった、ドロボーが、平気でできるんだ。兄は、そういう人なんだ。あんな人なんだ。自分とは違うんだ、そう思っていた。しかし、泥棒して平気な人間なんていない。泥棒を繰り返したのは、自分たちのためだったのだ!ドロボーして平気な人間はいない。先生は一生、後悔するような勘違いをしていたんだ。先生はお兄ちゃんの命を食べて、大きくなったんだと、ここで、そのように気づくのです。一生、後悔するような勘違いをしていたと。
必死で自分たちと向き合い、養おうとしていた兄なのに、しかし、勘違いをしていた。ドロボーできるお兄ちゃんを、「見下して」いた。聖書から言えば、普通に生きていた自分が、しかし兄を見下すような自分が、聖書の言葉で言えば、罪、自分の中にこそ的はずれ、罪があったのです。その自分が、命に招かれていたというわけです。
私たちは、自分をこっち側、正しい側に置いて、そういう椅子に座っていないだろうか。とんでもない勘違いをしていないだろうか。
しているのです。私たちは、かなり自己中心で、自分をいい位置に置きたい。すると、今日の、ほかの弟子たちのように、人をねたみ、嫉妬を持ち、敵意や怒りを抱いています。人間としては、危篤なのです。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と主が言われたことがあります。この方のところに、危篤の私はすぐにも飛んで行かなければならない時に、しかし、行かないのです。あの小説の言葉を借りれば、一生、後悔するような勘違いをしたままなのです。
Ⅳ.必死で叫べ
「ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。『先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。』」
それと読み合わせたいのは、今日の聖書個所の先に、バルティマイという人が出てきます。比べてみると明らかなことがあります。このバルティマイという人が、「ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください』と叫び始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、『ダビデの子よ、わたしを憐れんでください』と叫び続けた。」
この二つ、セットのように書かれている書き方を比べてみると、バルティマイは、主イエスが町に来たと分かると、必死で叫び続けています。恥も外聞もありません。そういう必要がある自分を自覚しているのです。
それに対して、今日のところですが、「進み出て」この二人の弟子は何か、周到な準備をして、いかにもよく考えたというような感じで主イエスのところに来たという印象です。良く考えている。自分たちの行く先のことをよく考えている。他の弟子たちも、また、自分たちのことを良く考えている。自分たちのことは、だれも、よく考えているのです。
しかし、自ら身代金となってくださる方のことは、考えられない。いえ、主イエスが、あなたのためにそうしなければならないと言っているにもかかわらず、その自分を見つめられない、自分を考えられない。自分の中に致命的なものがある、というところが、分からないのです。「とんでもない勘違い」をしている。
自分は大丈夫、正しいとか、自分を中心にものを考えるのをやめて、そういう私たちをじっと見つめて、ご自身「身代金」となった主イエス・キリスト、人間を回復してくれる主イエス・キリストのもとに、一日も早く私たちの荷を降ろさなければならないのです。バルティマイのように、がむしゃらに。
Ⅳ.とんでもない勘違いをするな
私たちは何者かというと、主イエスによって身代金を支払われて、罪の支配から解放された者なのです。身代金という犠牲の上に生かされている者なのです。その私たちは、「年老いる日まで、‥白髪になるまで」背負われ、担われ、神に背負われ、救い出される者だったのです。
とんでもない勘違いをしてはならないのです。私たち、身代金という犠牲の上に、今日も、人間らしく生かされているのです。

