荒れ野に向かう神の⼦の道
宮井岳彦副牧師 説教要約
マタイによる福⾳書4章1~11節
2026年4⽉12⽇
Ⅰ.教会の歴史・神の⺠の歴史
ペンテコステに「こもれび」が発刊される予定で、今その編集作業をしてくださっています。進⾏途中のものを先⽇頂き、さっそく読みました。胸が熱くなりました。
とても充実した内容ですので、どうぞおたのしみに。
1976 年に栗原伝道所として始まった私たちの礼拝は今年で50周年。積み上げられてきた歴史があります。教会というのは不思議な場所で、今ここで礼拝を献げる私たちは皆この50 年間の礼拝共同体の歴史を共有しています。最初の栗原伝道所の礼拝は濵崎孝先⽣ご⼀家だけで始まりました。私はその場にはいませんでした。しかし、私もその当事者の⼀⼈と⾔うことが許されていると信じています。皆さんも同じです。この群れの歴史の何年分を同伴したのかということに関わらず、今⽇ここで神を礼拝する私たちは皆この教会の歴史の当事者なのです。
50年間、私たちの教会はただおひとりの神さまを礼拝してきました。神さまは、今⽇ここにこの礼拝共同体をおくことを良しとしてくださっています。ただおひとりの神を礼拝する私たちは⼀つです。⼀つの神の⺠の⼀員。
それが「私」です。
そして、主イエス・キリストこそが神の⺠の歴史を共有し、共に歩んでくださっています。キリストは私たちの歴史を他⼈事とはなさらず、ご⾃分の歴史としてくださっているのです。今⽇の聖書の御⾔葉は「さて、イエスは悪魔から試みを受けるため、霊に導かれて荒れ野に⾏かれた。そして四⼗⽇四⼗夜、断⾷した後、空腹を覚えられた」と始まっています。主イエスは荒れ野に⾏かれ、40⽇40夜断⾷なさいました。恐らく、マタイによる福⾳書を最初に読んだヘブライ⼈たちはこう書かれているのを⾒てすぐにピンときたと思います。主イエスは私たちの歴史を共に歩んで折られるのだ、私たちの歴史に⼊ってこられたのだ、と。
かつてエジプトの国で奴隷であったヘブライ⼈たち。
神さまがモーセを遣わし、エジプトの国、奴隷の家から彼らを導き出してくださいました。その後、ヘブライ⼈たちは40 年間荒れ野を旅しました。主イエスが荒れ野に⾏かれ40⽇40夜断⾷なさったというのは、その時の出来事を彷彿とさせる事実であると思います。
荒れ野の40 年間はヘブライ⼈たちにとっては信仰の原点です。「ヘブライ⼈にとって」というのは聖書にとって、ということです。「聖書にとって」というのは、つまり、同じ神の⺠である私たちにとって、ということです。
私たちも同じ歴史を共有している。キリストは私たちの歴史の中に⼊ってきて、私たちと共に私たちの歴史を踏み直してくださっています。荒れ野を旅して、約束の地に向かったこと。神が天からのパン、マナを与えて養ってくださったこと。⽔を与えてくださったこと。神が荒れ野で何も持たない私たちを愛し、養い、導いてくださったこと。その⼀つひとつが私たちの信仰の原体験なのです。そしてその歴史を共有するために、キリストは荒れ野へ⾏かれたのです。
しかも「悪魔から試みを受けるため」に。つまり、良いときだけではない。試練のとき、悪魔の誘惑を受けるときも、キリストは私たちの歴史をご⾃分の歴史としてくださっています。荒れ野で試みを受けたヘブライ⼈たちは全然ダメでした。神さまを裏切り、他の何かを神に祭り上げ、罪を重ねてきました。ところがそんなダメなときの歴史をも、キリストはご⾃分の歴史としてくださって、私たちと共に歩んでくださるのです。そのために、キリストは荒れ野へと向かって⾏かれるのです。
Ⅱ.荒れ野の試み
そこでまず、主イエスは40⽇40夜の断⾷の後、空腹をお覚えになったところで悪魔からこのように試みられました。「神の⼦なら、これらの⽯がパンになるように命じたらどうだ。」そしてそれに対して主はお答えになります。「『⼈はパンだけで⽣きるものではなく、神の⼝から出る⼀つ⼀つの⾔葉によって⽣きる』と書いてある。」
この主イエスの答ですが、皆さんはお聞きになってどう思われるでしょうか。納得できるでしょうか?実はこれは申命記第8章3節に出てくる⾔葉です。2〜5節を読むと、前後の関係がよく分かります。荒れ野の40年間の旅をしてきた神の⺠へのモーセの説教ですが、そこでモーセは、「神がこれまでの旅路を守り、マナというパンによって養ってくださり、⾐服の⼼配までしてきてくださった。あなたたちはこのようにして神の慈しみを体験してきたではないか」という話をしています。神はあなたたちをご⾃分の⼦として養い、愛し、訓練してきてくださった。主イエスがおっしゃったのは、主の慈しみは信頼できる確かなものだ、ということであるのだと思います。私たちにはたくさんの不安があります。それこそご飯のこともそうですし、⾐服のこともそうです。このような社会情勢ですと毎⽇の⽣活のいろいろな事も不安です。そうすると⾔いたくなります。そういうことをちゃんと満たしてくだされば信じられるのに。毎⽇の⼼配がなくなれば私も安⼼して教会に⾏けるのに。ところが主イエスは⾔われます。現に今⽇まで神が私たちを養ってきてくださったではないか。毎⽇与えられてきた神の慈しみは、神さまの恵みに満ちた御⾔葉の中に響いている。
神を信頼しよう、と。
続けて⼆番⽬の試みです。「次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて⾏き、神殿の端に⽴たせて、⾔った。『神の⼦なら、⾶び降りたらどうだ。「神があなたのために天使たちに命じると、彼らはあなたを両⼿で⽀え、あなたの⾜が⽯に打ち当たらないようにする」と書いてある。』悪魔は⾔います。もし神の⼦なら…こんな奇跡を起こしてみせたらどうだ?皆が、これこそ神の⼦だと納得するような、みんなが「イエスこそ神の⼦」と信じるような奇蹟を⾒せてやれば良いじゃないか、と。
主イエスはこの試みに「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」とお答えになります。もとは申命記の⾔葉です。申命記では「あなたがたはマサで試したように、あなたがたの神、主を試してはならない」(6:16)とあります。マサでの事は出エジプト記17:1〜7 に書いてありますが、荒れ野を旅し始めた⺠が「⽔がない」と不平を⾔い、神が⽔を与えてくださった、という出来事です。「⽔がない」という⺠の不平は、荒れ野を旅する上ではそのとおりとも⾔えそうですが、他⽅からすると⾃分たちの安⼼安全便利快適を確保して⾃分たちが納得できる保障を与えるように、⾃分たちのやり⽅を神に押しつける、ということだと思います。
実は主イエスは、もし神の⼦なら…もっとみんなが納得できるやり⽅をすれば良いじゃないかと、このとき悪魔の⾔ったような⾔葉をやがて再び浴びせかけられることになります。⼗字架にかけられたときです。イエスが⼗字架にかけられているのを⾒た⼈が侮辱して⾔ったのです。「神の⼦なら、⾃分を救ってみろ。そして⼗字架から降りて来い」(27:40)。実は私たちの考えも似たり寄ったりなのではないか。もしイエス様が神の⼦なら、もっと救い主らしく私を救ってくれればいいのに。私の願いをしっかり叶えてくれて、信じた私をちゃんと成功されてくれて、私が望むような幸せをくれればいいのに。そんな神の⼦ならもっと信じやすいのに。
しかし、主は、それは神を試みることだ、とおっしゃいます。私の願ったとおりの神でいてほしいというのは神を試みることです。主は私たちの願いのとおりにはなさいませんでした。主は罵倒されても嘲られても⼗字架から降りてきません。⾼い所から⾶び降りてみせて、「どうだすごいだろう」とはおっしゃらないのです。そうではなくて、⼗字架の上で、無⼒になり、傷つき、罵倒され、嘲られた。そしてそこから降りませんでした。
最後に悪魔は主イエスにこの世の栄光を⾒せつけて⾔いました。「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これを全部与えよう。」この⾔葉ですが、原⽂を読むと少し語順が違っています。もとの順序に従うと「これを全部与えよう。
もし、ひれ伏して私を拝むなら」です。ネットに氾濫している誇⼤広告みたいだと思います。「この薬を飲めば必ず痩せます・絶対健康になります。」その後に⼩さな字で書いてある。「但し、効果には個⼈差があります。」悪魔は⾔うのです。「この世の栄光のすべてをあなたに与えよう、あなたこそそれに相応しいではないですか。すべてはあなたものだ。ぜひ⼿に⼊れてください。」その後、⼩さな声で⾔います。「但し、私を拝んでね。」
悪魔は私たちに⾔うのです。無⼒にも⼗字架にかけられ、そこから降りようともせず、お前たちの願いも安⼼も確かにしてくれないイエスよりも、私の⽅がずっと神の⼦らしいではないか!私ならお前にこの世の成功や栄光を与え、欲しいものを満たし、お前の投資に確実にリターンを与えることを保証する。私を拝めばいい!
Ⅲ.キリストの歴史に巻き込まれる
イエスは⾔われます。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ。」これも申命記(6:13)に書かれている御⾔葉です。荒れ野の40 年は、神の⺠にとっては問でした。主なる神さまだけを神と信じ礼拝するのか。それとも悪魔を信じて礼拝するのか。悪魔は時代に合わせて常識とか空気とか成功とか、いろいろな仮⾯を巧みにかぶります。私たちは決断しなければなりません。この世の栄光を与えてくれる「何か」にひれ伏すのか、⼗字架で罵倒される嘲られる神の⼦を礼拝するのか。荒れ野の試みは私たちに問います。「あなたの神は誰なのか」と。
この荒れ野が私たちの原点です。何も持たず、ただ神の前に⽴つ神の⺠。荒れ野には、神の⺠の弱さや失敗や罪の歴史が埋まっています。その歴史をキリストが踏み直してくださっているのです。
いや、もっと精確に⾔わなければなりません。キリストは私たちの歴史をご⾃分の歴史としてくださった。しかしそれだけではない。もっとちゃんと⾔えば、私たちをご⾃分の歴史に巻き込んでくださったのです。私たちの歴史は失敗や弱さや罪ばかり。しかしキリストは⼀つひとつの試みで御⾔葉に従い、打ち勝たれた。⼗字架に向かう神の⼦として、私たちの救いとなられた。このキリストの歴史が私たちの歴史になったのです。
へりくだり、罵倒され、嘲られて⼗字架に向かうキリストというお⽅によって、神は私たちと出会ってくださいます。福⾳は、私たちが幸福になったり、安⼼安全を享受したり、成功したり、平和になったりするための⼿段ではありません。もっと別のことです。福⾳は、⼗字架にかけられたキリストと、私たちにキリストをお与えになった神との出会いそのものです。キリストは、今⽇ここで、ご⾃分を礼拝する私たちに出会ってくださっています。それが礼拝の出来事です。

