愛は決して滅びない
<中会一斉講壇交換>
饒平名丈牧師 説教要約
2026年5月31日
詩編103編1-13節
コリントの信徒への手紙一13章1-13節
Ⅰ. 按手から1年の振り返り
昨年3月に按手を受けてから一年が過ぎました。振り返ると、どうにか生き長らえてきたというのが正直な実感です。外様(とざま)であり、会社員からの転身でもある私が、歴史あるカンバーランドの群れの中でどのように受け止められるのか、緊張を伴う日々でもありました。しかしその一方で、み言葉を取り次ぐ恵みを通して、神様との対話の中で「ああ、そうだった」と慰(なぐさ)められ、癒(いや)されることが何度もありました。だからこそ今日まで続けてこられたのだと思います。しかし自分自身を振り返ると、人生の終盤に差しかかっているにも関わらず、幼子のような思いや考え方が顔を出すことに驚かされます。短気で怒りやすく、思い込みが強く、攻撃的な性格が、むしろ年齢を重ねるごとに見えてくるのです。
Ⅱ. 「愛」と「大切」のエピソード
昨年春、按手(あんしゅ)式に参加してくれた高校時代の同級生と食事をしました。彼は教育の仕事を続けていますが、こんな質問をしました。「小中学生に聖書を話すとき、『愛』という言葉を『大切』と言い換えてもよいだろうか」と。実は彼とは高校時代、互いに批判し合う関係でした。そして驚いたことに、学生時代にも同じ問いを受けていたのです。四十年以上経っても、私の答えは変わりませんでした。「もちろん、いいと思うよ」と。
伝道する時、相手によって言葉を変えることは自然なことです。しかし、学生時代の自分と、半世紀近く経った今の自分が同じ答えしか持たないことに、成長のなさを感じもしました。けれども考えさせられたのです。中高生に「愛」とは何かを十分説明できる機会は、実際にはそれほど多くありません。十代の若者にとって「愛」はまず恋愛を意味します。しかし人生を歩む中で、兄弟愛や神の愛、さらには「敵を愛しなさい」という主イエスの言葉に出会います。そして、「そんなこと自分には無理だ」と教会を離れていく人を見ることもあります。
Ⅲ. 「今」と「その時」
本日の説教題は「愛は決して滅びない」としました。これはコリントの信徒への手紙一13章8節の言葉です。そして4節から7節には、愛とは何かが記されています。「愛は忍耐強い。情け深い。妬まない。高ぶらない。怒らない。悪をたくらまない。」読むたびに、「自分はこんなふうに愛せていただろうか」と問われます。「もっと優しくすればよかった」と後悔することも少なくありません。人生には、思い通りにならないことが増えていきます。病気、大切な人との別れ、失敗、そして避けられない老い。「神様、なぜですか」と問うこともあります。だからこそ、静まり、振り返る時間が大切です。しかし「主の恵みを数えましょう」と簡単には言えません。辛(つら)さのただ中にいる時、恵みなど見えないこともあるからです。「休みたいのに休めない」と感じる人に、励(はげ)ましの言葉がかえって重荷になることもあります。
けれども、そのような時にも神様は思いがけない形で安息を与えてくださいます。祈ることもできない時に、鳥の声や花の色、空の青さに心が動かされることがあります。そして後になって「あの時、神様は最善を備えてくださっていた」と気づくことがあります。若い頃には分からなかったことが、振り返る中で恵みとして見えてくるのです。
そこで本日の11節と12節です。パウロは「幼子だったとき、幼子のように話し、考えていた。しかし大人になった時、幼子のような在り方をやめた」と語ります。続く12節では、「今は鏡におぼろに映ったものを見ているが、その時には顔と顔を合わせて見る」とあります。当時の鏡はぼんやり映る金属製でした。つまり私たちは今、神様の御心を完全には理解できないのです。
ここで大切なのは、「今」と「その時」の対比です。「その時」とは、主イエス・キリストによる救いが完成する時、主の再臨の時です。その時、私たちは主と顔と顔を合わせて会い、今は分からないこともはっきり知るようになります。愛についても同じです。私たちの愛は未熟で不完全です。感情に左右され、忍耐できず、思うように愛せません。しかし聖書は約束します。「その時」が来ると。私たちは本当の愛を知り、愛する者とされるのです。
そして何より大切なのは、私たちが今すでに神様にはっきり知られているということです。私たちを限りなく愛し、忍耐し、信じ続けてくださる方がおられます。そのお方こそ、主イエス・キリストの父なる神様であり、その愛を十字架によって示された主イエスです。
Ⅳ. 神の愛と終末的希望
ですから最後にパウロは言います。「信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である」。信仰はやがて現実となり、希望は実現します。しかし愛は永遠に残ります。神様の完全な愛に支えられているからこそ、私たちも不完全ながら隣人を愛し、希望をもって歩むことができるのです。アーメン。


