恐れることはない、ただ信じなさい

和田一郎牧師 説教要約
2026年6月14日
詩編27編1-6節
マルコによる福音書5章21-43節

Ⅰ. 二つの出来事

マルコ福音書5章21節以下の箇所には、二つの出来事が語られています。一つは、会堂長ヤイロの娘が死にかけていた事。もう一つは、十二年間、出血の病に苦しんでいた女性の事です。この二つの出来事は、ヤイロの娘の出来事の中に、長血の病の女性の出来事が挟み込まれているのです。それは、二つの出来事を別々に読むのではなく、一つの出来事として読んでほしいという意図があると思います。しかし、一度の説教でまとめて語るには不十分と思いますので、同じ聖書箇所を二回にわたって聞きたいと思います。今日は、特に会堂長ヤイロとその娘の出来事を中心に聞いてまいります。次回の説教では、長血の病の女性を中心に扱っていきたいと思います。

Ⅱ. ヤイロの願い――地位も名誉も越えて

ヤイロは会堂長でした。会堂とは、当時のユダヤ人たちが礼拝をし、聖書を学ぶために集まる場所です。マルコ1章の箇所で、イエス様は会堂で「汚れた霊に取りつかれた男」から悪霊を追い払いました。(マルコ1:23)会堂長は、その時の様子を見ていたのではないでしょうか。会堂長は、その会堂を管理する責任ある立場の人で、人々から信頼され、尊敬されていたことでしょう。その会堂長のヤイロが、イエス様のもとに来て、その足もとにひれ伏しました。これは大変なことです。人の前で地位ある人がひれ伏すのです。しかしヤイロは、必死でした、愛する娘が死にかけていたからです。
十二歳の娘でした。まだこれから成長していくはずの子です。家族にとって、どれほど大切な存在であったことでしょうか。その娘の命が、今まさに失われようとしている。切羽詰まった父親の叫びでした「どうか助けてください」それだけです。それだけですが、この叫びは信仰の告白でもあります。信仰とは、こうして始まるのではないでしょうか。私たちは普段、自分の経験や判断を頼りにしています。けれども人生には、自分の力ではどうにもならないことがあります。その時初めて、自分が無力であるかを思い知らされます。その無力さの中で「主よ、助けてください」と祈るのです。
ヤイロは、自分の地位も名誉も、人目も切り捨てて、イエス様の前にひれ伏しました。その願いを、イエス様は退けられませんでした。
24節「そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。」ヤイロの苦しみを聞いて、すぐに共に歩み出してくださったのです。

Ⅲ. 途中で立ち止まられるイエス様

ところが、その途中で一つの出来事が起こります。十二年間、出血の病に苦しんでいた女性が、群衆の中からそっとイエス様に近づき、その服に触れたのです。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思い、後ろからそっと触れました。すると、病は癒されました。イエス様はそれに気づかれます。そして立ち止まり、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われます。
ヤイロにとっては、どれほど焦る場面だったでしょうか。娘は死にかけています。一刻も早く家に来てほしい。その途中で、イエス様が立ち止まってしまうのです。イエス様は、苦しむ一人を見過ごされません。ヤイロの娘を大切にされるイエス様は、この女性をも同じように大切にされます。
私たちは、自分の祈りが急を要する時「なぜ主はすぐに来てくださらないのか」と思うことがイエス様の歩みは、、神の時の中で歩まれます。

Ⅳ. 絶望の知らせと、少女への呼びかけ

ところが、ヤイロの家から人々が来て言いました。「お嬢さんは亡くなりました。」ヤイロが最も恐れていた知らせです。娘は死んでしまった。間に合わなかった。しかし、その絶望の知らせを聞いた時、イエス様は言われました。
36節「恐れることはない。ただ信じなさい」
これは、今日の中心の御言葉です。イエス様は、「悲しむな」とも「泣くな」と言われませんでした。現実を見なくてよいと言われたのでもありません。そうではなく、「神に信頼しなさい」と言われたのです。何を信じるのでしょうか。それは、イエス様が共におられるなら、絶望で終わらないということです。死が最後の支配者ではないということです。人間には終わりに見えても、イエス様はなお命の道を開いてくださるということです。そして39節「なぜ、泣き騒ぐのか。子どもは死んだのではない。眠っているのだ」と言われた。人々はイエス様をあざ笑いました。少女が本当に死んでいることを知っていたからです。イエス様は人々を外に出し、少女の父と母、そして三人の弟子たちだけを連れて中に入り、少女の手を取り言われた。
40節「タリタ、クム。」それは、「少女よ、起きなさい」という意味です。優しい言葉です。眠っている子どもを起こすように呼びかけられると。少女はすぐに起き上がり、歩き出しました。イエス様は、死の力に捕らえられた者を、手を取って起こしてくださる方なのです。私たちは、自分の力だけで立ち上がるのではありません。イエス様に起こされて立つのです。イエス様の声に支えられて、もう一度歩き出すのです。

Ⅴ. 十字架と復活を指し示す出来事

この少女の復活は、やがてイエス様ご自身が十字架と復活によって成し遂げられる救いを指し示しています。少女は確かに生き返りました。しかし、この後の地上の命には限りがあります。彼女もいつかは再び死を迎えたことでしょう。では、この出来事は何を示しているのでしょうか。それは、死が最後の言葉ではないということです。イエス様は、十字架の上で死なれました。墓に葬られました。しかし三日目によみがえられました。死の力を打ち破られたのです。だからこそイエス様は、「恐れることはない。ただ信じなさい」と言うことがおできになります。これは、気休めではありません。「何とかなる」という曖昧な励ましでもありません。イエス様ご自身が、死と絶望の力を引き受け、それを打ち破られたからこそ語ることのできる、確かな御言葉です。
私たちの人生にも恐れがあります。病の恐れ、老いの恐れ、家族を失う恐れ、将来への恐れ、自分自身がどうなっていくのか分からない恐れがあります。しかし、その恐れのただ中で、イエス様は共に歩んでくださいます。ヤイロの家へ向かわれたイエス様は、途中で立ち止まることがありました。しかしヤイロを見捨てられたのではありませんでした。同じように、私たちの祈りも、すぐに答えが見えない時があります。遠回りに見える時があります。しかしイエス様は、私たちを忘れておられません。私たちの道を共に歩み続けてくださいます。
今日、イエス様は私たちにも語っておられます。「恐れることはない。ただ信じなさい。」この御言葉は、恐れのない人に語られた言葉ではありません。むしろ、恐れのただ中にいる人に語られた言葉です。娘を失ったと思った父親に、絶望の知らせを聞いたヤイロに、イエス様はこの言葉を語られました。私たちも、礼拝を終えると、それぞれの生活の場へ帰っていきます。そこには喜びもあります。しかし同時に、不安もあります。課題もあります。病もあります。別れもあります。思い通りにならない現実もあります。しかし、私たちは一人で歩むのではありません。イエス様が共にいてくださいます。荒れ野を行く時も、嵐が吹く時も、先の見えない道を歩む時も、イエス様は私たちのゆく道を守り、日ごとの糧をもって支え、み翼の陰に私たちをはぐくんでくださいます。
これから歌う讃美歌は、こう歌います。
「神ともにいまして、ゆく道をまもり、日ごとの糧もて、つねに支えたまえ。」
この賛美の言葉は、今日の御言葉への応答でもあります。イエス様が共にいてくださるから、私たちは恐れの中でも信じて歩むことができます。死をも打ち破られた復活の主が共にいてくださるから、私たちは絶望を最後の言葉にしなくてよいのです。また会う日まで、その神の恵みが絶えず共にありますように。そして、み国に入る日まで、主の広いいつくしみの翼の陰に守られて歩むことができますように。
「恐れることはない。ただ信じなさい。」このイエス様の御声を聞きながら、共に歩んでまいりましょう。
お祈りをいたします。