空しい⾔葉と本物の⾔葉
宮井岳彦副牧師 説教要約
マタイによる福⾳書5章33~37節
2026年8⽉9⽇
Ⅰ.⼀切誓うな、と⾔うけれど
今日の主イエスの言葉は大変な言葉だと思います。33節の「偽りの誓いを立てるな。誓ったことは主に果たせ」というのは、分かりやすいし至極もっともな言葉です。嘘をついたり、いい加減な誓いを立てたりするな。誓いを簡単に破ってはならないし、誓ったことにはしっかり責任をもって果たせ。その通りです。常識的な言葉です。ところが主イエスは「その通りだ」とは言われません。それどころか「一切誓ってはならない」と主は言われるのです。
「誓い」というと少し遠い言葉であるかもしれません。そうであれば「約束」と言い換えることもできるのではないかと思います。一切約束なんてするな、と主イエスはおっしゃっている。普通は「約束したことは必ず果たせ」とか「守れない約束はするな」と教えるところでしょう。ところが主イエスは、そもそも約束なんてするなとおっしゃっている。非常識きわまりない言葉だと思います。
私たちの社会生活は約束で成り立っています。明日は何時に待ち合わせようというような小さな約束から、秘密を守るというもっと大切な約束もある。約束が社会を結んでいるといったら言いすぎでしょうか?
もっと別のことも考えてしまいます。例えば、結婚式です。結婚する二人に、教会は「誓約」を求めます。もしも二人が「イエスさまが誓うなとおっしゃったので、私たちは誓約なんてできません」と言ったとしたら、結婚式は成立するのでしょうか?他にも、洗礼の時にも「誓約」があります。私が牧師になったときにも、按手式での「誓約」がありました。もしかしたら、教会に通っていると、そうではない人よりも「誓約」する機会は多いかも知れない。教会になんて行っているものだから、却ってイエスさまのご命令に逆らって誓いを立てる機会が増えている、ということになってしまうのでしょうか?どう考えたら良いのでしょう。
Ⅱ.ペトロと誓い
聖書を開いてみると「誓い」がテーマになっている話は案外たくさんあります。そのひとつを今日は考えたいと思います。
主イエスの弟子の一人、シモン・ペトロです。この人はイエスさまの弟子の中でも一番弟子でした。自分でもそう思っていましたし、周りの弟子たちからもそう見られていたようです。
ある夜、イエスさまはペトロを含む弟子たちと一緒に晩餐の食卓についておられました。その席でイエスさまが弟子たちに言われたのです。
「今夜、あなたがたは皆、私につまずく。
『私は羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからだ。」(マタイ26:31)
イエスに躓くというのは、要するにイエスを裏切るという意味です。お前たちは今夜私を裏切るだろう、と主イエスは弟子たちに言われたのです。ペトロにとってこの言葉は心外でした。他の弟子たちはともかくとして、この私が主を裏切る事なんて絶対にあり得ない。そう思い、彼はイエスに言ったのです。「たとえ、皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません」。すると主は彼に言いました。「よく言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うだろう。」それを聞いたペトロは「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と言ったのです。ペトロのこの言葉は、殆ど、誓いの言葉だと思います。ペトロは主イエスに誓った。例えそのためにあなたと一緒に死ぬことになったとしても、私はあなたを愛します、と。
ところが、実際にはイエスさまがおっしゃったとおりになりました。その夜のうちにイエスは逮捕され、十字架にかけられるために裁判の席に引っ張り出されます。それを遠目に見ていたペトロに対して、ある女中が言いました。「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた(26:69)。ペトロは「何を言っているのか分からない」と否定しました。しばらくして別の女中がペトロに言いました。「この人はナザレのイエスと一緒にいました。」 ペトロは再び「そんな人は知らない」と言いました。しばらくして、別の人が言いました。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉のなまりで分かる。」それに対してペトロは何と答えたのか?聖書は報告します。「その時、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、『そんな人は知らない』と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。」ペトロは誓いました。「イエスなんて私は知らない」と。イエスを愛するために誓ったのではない。イエスを呪い、捨てる誓いです。しかもこのときペトロは誰にも「誓え」だなんて言われてもいなかった。それなのに彼は進んでイエスを捨てることを誓ったのです。
ペトロの誓いは、却ってペトロの不真実を暴露してしまいました。ペトロの言葉が、いや言葉だけではなくその存在そのものが真実ではなく、誠実でもないことを。
イエスの愛を裏切る自分だ、ということを暴いてしまったのです。ペトロが勝手に立てた誓いが、彼の不真実を白日の下にさらしたのです。
ボンヘッファーという牧師がこのように言っています。「誓いは、この世の中に嘘があることの証明である」。私たちも知っているのではないでしょうか。自分の言葉にも実は嘘が隠されていることを。
私は、今日の聖書の御言葉を読んで、本当に聖書は私のことを良く知っている、と思いました。今日の誓いの話は、先週ご一緒に読んだ夫婦の話の次に登場します。そのことひとつを考えても、ぐうの音も出ない思いになります。
先ほど、結婚式でも誓約があると申しました。どういうことを誓約するのか?私たちの教会が使っている式文では結婚に際して三つの誓約が求められます。その内の1つでこのように問われます。「あなは、聖書から教えられることを心に留め、常にキリストに対する畏れをもって、キリストが結んでくださったパートナーに仕え、その健やかな時も、病む時も、( )を自分自身のように愛しますか。」この誓いの言葉を今改めて思うとき、自分がどれだけ不真実な人間なのか、ということはごまかし得ない事実なのです。
それでは一体どうしたら良いのか?人間は考えたのです。自分の言葉には嘘が含まれている。どうしたら信じてもらえるのか?これ以上ない最高の存在である神にかけて誓えばいい。神様を引っ張り出して自分の言葉が本物だということを保証してもらえば良い。しかし、神様を引っ張り出しておいて万が一守れなかったらたいへんなことです。そこで、天にかけて、地にかけて、エルサレムにかけてと他のものにかけて誓うということになった。最後には自分の頭にかけて誓いだす。そうやって、何とかして自分の誓いは本物だ、嘘ではないと言い張るのです。
ところが主イエスは言われます。「一切誓ってはならない」。なぜか。私たちに真実がかけらほどもないからです。
言葉だけではない。存在そのものが不真実だからです。
神様も、天も地もエルサレムも私の言葉の嘘を覆い隠す道具ではない。自分の言葉は信頼に足ると保証してみせるための道具ではない。
私たちには自分の頭に生えている髪の毛一本ですら、黒くすることも白くすることもできません。私たちは無力です。この説教の準備をする中で、この時代にすでに白髪染めがあったとある人がおっしゃっていたのを目にしました。私たちにできるのはごまかすことでしかないのです。私たちは無力です。髪の毛一本だってどうすることもできないのです。そんな弱い者が強情にも自分の誓いは真実だと言い張っている。それは、自分の言葉に潜んでいる嘘を覆い隠しているからなのではないでしょうか。「誓いは、この世の中に嘘があることの証明である」のです。
Ⅲ.私たちが真実でなくても
ペトロは主イエスがおっしゃったとおり、イエスを裏切りました。イエスなど知らないと誓い、イエスを呪い、イエスを捨てた。そして、イエスは十字架につけられたのです。
ところが、十字架につけられたイエスを神は復活させたのです。イエスは再びシモン・ペトロのところへ来てくださいました。主は彼に三度尋ねました。「ヨハネの子シモン、あなたはこの人たち以上に私を愛しているか。」そう問われる度に、彼は答えました。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです。」ペトロには、もう「はい、私は誓ってあなたを愛します」とは言いませんでした。もう、そのようなことは誓えなかったのです。ただ、「あなたが知っていてくださる」としか言えませんでした。主イエスがご存じだということだけに頼るしかありませんでした。
洗礼の時の誓約は、もしかしたら「告白」と言い換えても良いのかもしれません。もちろん、結婚式でも按手式でも同じです。主は、すべてを知っておられます。何もかもご存じです。私が不真実なことも。私が不誠実なことも。私の愛が破綻していることも。私が嘘つきであることも、主はご存じです。それでも愛してくださっています。私の小さな愛、愛したいという小さな心をご存じでいてくださるのは主イエスさまです。私たちにあるのは、その事実だけなのです。
このような言葉が聖書にあります。
「私たちが真実でなくてもこの方は常に真実であられる。この方にはご自身を否むことはできないからである。」 (二テモテ2:13)
ですから私たちは、自分の言葉を強くして見せたり、もっともらしい理屈を並べたりするのではなくて、つまりそうやって自分の嘘を覆い隠すのではなくて、イエス・キリストが真実でいらっしゃることに頼っていいのです。結婚式の誓いは、二人が向き合って、互いに対して誓うのではありません。二人で神様の前に並んで、主イエスに告白するのです。「主よ、あなたは何もかもご存じです」と。私は不真実ですがあなたは真実です。私が不誠実であってもあなたは誠実です。私たちがどんなに不真実であっても、真実な方イエス・キリストは私たちを新しくしてくださる。私たちを真実なものにしてくださる。
だから、キリストを信じましょう。「あなたを信じます」とキリストの真実に寄りかかって告白するところに、私たちを新しくするキリストの御業は始まっているのです。

