新しくされてキリストに従う


2016年3月27日
イースター礼拝
松本雅弘牧師
詩編68編2~5節
ヨハネによる福音書21章9~25節

Ⅰ.ティベリアス湖畔にて

 人には思い出したくもない失敗が幾つかあると思います。この時のペトロもそうでした。3年間、生活を共にして導いてくださった主イエスさまを3度も否定してしまったことでした。
最初から、自他ともに認める弟子集団のリーダーとして歩んで来たペトロでしたが、この失敗によって〈もうダメ。自分はやっていけない〉、と感じていたことだと思います。
しかし、復活のイエスさまはそうしたペトロたちのために焼き魚とパンの朝食を用意し、冷たい体を温めるために火をおこし、大漁の経験へと導いて、弟子としての原点を思い出させていかれました。

Ⅱ.砕かれたペトロ

朝食を済ませた弟子たちの前で、イエスさまはペトロに対して、彼の本名、「ヨハネの子シモン」と呼びかけました。この呼びかけにペトロは不意を突かれたと思います。それは厳かな語りかけだったからです。そうした上で、「この人たち以上にわたしを愛しているか」と問われたのです。
この問いかけを、「この人たちが私のことを愛する以上に、あなたは私を愛しているか」という意味と取るならば、ペトロにとって、これは耳の痛い問いかけだったと思います。ペトロは、〈他の弟子と質がちがう。自分の方が上である〉と自信を持っていたに違いないのです。ですから、「たとえ他の者たちが主を捨てても、私は捨てません。何故なら、私は他の弟子たちのようではないからです」と信じて疑っていなかったでしょう。
でも現実はそうではありませんでした。彼は主の予告通り3度、「主を知らない」と言ってしまったのです。しかし、そうしたことをすべてご存じの上で、イエスさまは、ここで敢えて「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」とペトロに問いかけておられるのです。
問われたペトロは、心に痛いものを感じたことでしょう。でも同時に不思議と平安だったのではないかと私は思います。つまり、愛する主に隠すことなど何もない、もう全部知られている。という安心感です。いいことも悪いことも、成功も失敗も、すべて主は知り尽くしておられる。そうした上で、「ヨハネの子、シモン」と、真っ直ぐに、この者の目を見て問うておられるイエスさまです。言い換えれば、〈こんな自分をも相手にしてくださっている。だから私は、もうこのお方の前に背伸びすることも飾る必要もない。ありのままの自らを差し出していけばいい。そのままを差し出して行こう〉という平安です。
確かに主を否んだ、あの晩の出来事はペトロの高慢な鼻をへし折ったにちがいありません。ですからこの時のイエスさまの問いかけに対して、「わたしはあなたを愛します」と、はっきり言い切ることができませんでした。〈もしかしたらまた、躓くかもしれない〉という思いもあったかもしれない。そうした自分の弱さ、自信のなさが表れ、彼は、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」とだけ答えているのです。この時のペトロには、そこまでしか答えられなかったのでしょう。でも、この言葉こそが、背伸びしていない、自己卑下もしていない、そのような意味で等身大の自分の心を素直に正直に言い表した、ペトロの真実で精いっぱいの告白だったと思います。
そして私たちは、ここに試練を通して砕かれ、それ故に新しく変えられていったペトロの姿を発見するのです。自分の力ではなく、主の恵みにより頼んで行こうとするペトロの姿です。そして主は、この謙遜にさせられたペトロに、ご自分が愛する人々を託して行かれたのです。

Ⅲ.傷ついたペトロ

 復活の主とペトロのやり取りは3回繰り返されました。それは、3度ご自身を裏切ったペトロの罪を、1回ずつ丁寧に消し去って全く白くするように、交わりを回復し、彼の傷ついた心を癒していこうとされたイエスさまの愛の表れでもあります。3度否定したペトロをイエスさまは1度も否定なさらなかった。逆に3回、愛のみを確認されたのです。そして、再び牧会の務めを託し、弟子として従い続けるよう、再献身へと招かれました。私たちは、こうしたイエスさまとペトロの応答の中に、復活の主イエス・キリストの豊かな愛を発見するのではないでしょうか。
そうした上で「わたしに従いなさい」と招かれました。つまり、最後の最後に、主イエスさまがペトロに与えた命令は「従いなさい。新しくされた者として私に従いなさい」という招きの言葉だったのです。原文のギリシャ語を見ますと、この「従いなさい」とは、「従い続けなさい」とも訳すことの出来る言葉が使われています。つまり、「躓き倒れても、私はあなたを愛しているのだから。その愛は忍耐強く、情け深く、いらだたない愛、真実を喜び、忍び、信じ、望み、すべてに耐える愛、その愛をもってあなたを愛しているのだから大丈夫。私に従い続けなさい」と招かれたのです。

Ⅳ.新しくされてキリストに従う

 さて、これで終わるならばハッピーエンドなのですが、現実はもっと複雑です。ペトロが後ろを振り返ると、そこに、自発的にイエスに従い始めていた「イエスの愛しておられた弟子」、すなわちヨハネの姿がペトロの目に飛び込んで来たのです。
残念ながら、私たちも人の生き方が気になることがあります。その人の暮らしの様子。教会へのコミットの様子。その人たちの仕事や家族関係のことなど。気にし始めると、もうありとあらゆることが気になってしまうものです。そうした気になる人の歩みの中に、喜ばしいこと、キリストに従う姿を見れば、それをそのまま喜び、また自分にとって、信仰の模範とすればよいのですが、ここでペトロは、ヨハネのことを素直な気持ちで喜べなかったのです。
洗礼者ヨハネから洗礼を受けた直後のイエスさまが、荒野においてサタンの試みを受けたと同じように、新しくされたペトロが、再献身へと歩みを進めようとした途端に、サタンはペトロを誘惑してきたのです。
ヨハネの姿を見て、ぺトロの心の中に暗い思いが湧きあがって来たのです。そう言えば数週間前、ペトロはヨハネに出し抜かれた経験をしました。それは、イエスさまがエルサレム行きを決意し、表明された直後、ヨハネが兄弟ヤコブとひそかにイエスさまの所に行って、自分たち2人だけの出世の約束を取ろうとしたのです。あの時は、他の弟子たちと一緒になってペトロも怒りを露わにしました。自分も同じことを願っていたからです。
このようにイエスさまの弟子として、ずっとライバル的存在であったヨハネが、この時、また自分の後から、キリストに従ってやって来る。そうしたヨハネの姿が、ペトロの心を不自由にしたのです。
ペトロはほんの少し前に、イエスさまから、わが身に起こる殉教の預言の言葉を聞かされていました。「あなたは…、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(21: 18)。神さまの栄光のための殉教の死を遂げるまで従うようにと、イエスさまに命じられているのです。そのことが心にあったのでしょう。ペトロは、「主よ、この人はどうなのですか」と尋ね、ヨハネも殉教するかどうかを知りたかったのかもしれません。
 ところが、復活の主イエスさまは、弟子としての分をわきまえることを説かれます。「あなたは、わたしに従いなさい」と。原文を見ますと、「あなた」という言葉が強調されています。「わたしがヨハネのためにどんな計画を持っていようが、その計画を知ることは、ペトロ、あなたの仕事ではない。あなたがすべきこと、それはヨハネと競争し合うのではなく、またヨハネに託されたことを羨ましく思うのでもなく、私があなたに与えた務めを引き受け、私を愛し、私に従って来なさい」と語られたのです。
 後に、ペトロは殉教の死を遂げます。そしてヨハネは、福音書、手紙、そして黙示録を記し、最後にパトモスに島流しになって召されて行きました。興味深いことにギリシャ語の「マルテュス」は「殉教者」とも「証人」とも訳せる言葉です。歴史の教会は、「ペトロは赤い殉教を遂げ、ヨハネは白い殉教を遂げた」と語りました。
ペトロとヨハネ、おのおの託された働きは異なりました。でも主の栄光を表わすために、主を愛し、従い通す歩み、すなわち、マルテュスとしての生涯を共に全うしたのです。
そして今も、ペトロとヨハネがお仕えした復活の主は、私たちと共に生きてくださり、私たちを通して、ご自分の栄光を現してくださいます。
神さまは、一人ひとりそれぞれに生きるべき命を与え、競争し合うことでなく、互いを認め合い、主を愛し、主に従うことを願っておられます。
今日はイースターの記念の礼拝です。私たちの罪を十字架の死で贖い、そして一方的な愛をもって愛し続けてくださる復活の主を、私たちも愛し続け、主に従い続ける歩みをさせていただきたいと願います。お祈りします。

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