何をして欲しいのか、と問われたら
松本雅弘牧師 説教要約
マタイによる福音書20章20-34節
2023年10月8日
Ⅰ. 親の背を見て子は育つ
今日は、「何をして欲しいのか?と問われたら」というお話のタイトルを付けました。実は、今日、お読みした聖書の箇所に、32節ですが、「何をしてほしいのか?」と尋ねたイエスさまの言葉が出て来ます。
私たちは誰もが幸せを願っています。親でしたら子どもの幸せを願うものでしょう。そして、そうした期待の裏側に、その人の価値観、生きる上で何が大切なのか、どのようなことが幸せにつながるのかについての考え方が反映されています。今日は、「何をしてほしいのか?」というイエスさまの問いかけをもとに「幸せ」について考えてみたいと思います。
Ⅱ. 何をしてほしいのか?
イエスさまが都エルサレムに向かって旅をしていた時のことです。弟子であったゼベダイの息子たち、名前はヤコブとヨハネというのですが、その二人の母親がイエスさまのところに願い事をしにやって来たのです。それに対してイエスさまは、「何をしてほしいのか」と質問されました。
また、もう一つの話が出て来ます。29節からのところですが、ここに登場するのは二人の盲人でした。彼らは道端に座って物乞いをしていたのですが、イエスさまのお通りと聞くと急に立ち上がり「主よ、ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」と叫び始めます。その彼らに対して主イエスは「何をしてほしいのか」と問われたのです。
主イエスは、母親に対して、また二人の盲人に対して、まったく同じ問いかけをなさったのです。
ところで、この「問いかけ」って、私たちにとってとても大事だと思うのです。私たちは子どものために、あるいは家族のために、私自身のために何を願っているのか。何を求めて生きているのでしょう?イエスさまから、「何をしてほしいのか」と聞かれたら、皆さんでしたら、何と答えるでしょうか?
今日の聖書の箇所を見ますと、弟子たちの母親も、そして盲人たちも、同じことを主イエスによって問われました。ところが、興味深いことに、その結末が正反対なのです。母親の願いは退けられたのに対して、盲人たちの願いは叶えられています。
ちなみに21節を見ますと、この時の母親の願いが出て来ます。一言で表現すれば、「人よりも偉くなること」でした。この願いに対して、主イエスは、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」と22節で、そうお答えになったのです。
どの国の親も我が子の幸せを願うものです。ところが、ここでイエスさまは、「その幸せになる手段として偉くなること、偉くなることによって幸せを獲得することは、どこか違っていますよ」とお答えになりました。それが「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」という言葉です。
分かり易く言うならば、「それが本当に大切なことではない、あなたが子どものためにと思って願っていることは違っていますよ」とおっしゃったのです。
くどいようですが、盲人たちの願いは受け入れられたのですが、母親に対しては、「あなたは分かっていない」と退けられた。この違いはどこにあるのでしょう?
Ⅲ. 問われる価値観
一人の男の子がいました。お父さんは一流大学を出て一流会社に勤務し、その会社でどんどん出世していたそうです。典型的なエリートサラリーマン家庭です。母親はそうした夫を誇りに思っていましたので、息子に対して父親のようになることを期待したそうです。母親の口癖は、「勉強してお父さんのように偉くなりなさい」だったそうです。
小学生のその子はお母さんが好きでしたから、言われるがまま勉強に励みました。ところが中学生になって躓いてしまう。勉強することに意味を感じなくなりました。それだけではありません。母親にも暴力を振るうようになったのです。彼はとれも荒れました。
丁度その頃、弟が生まれることになったそうです。今度、両親は期待外れの長男に代って、この次男に期待しました。でも、その赤ちゃんは重度の障碍を持って生まれたそうです。一日中よだれを流し笑顔も見せず、ただ天井を見上げて寝ているだけでした。
母親はガッカリしました。その結果、次第に赤ん坊の存在をうとましく思うようになった。ベッドも汚れたままに放置されるようになりました。
そんなある日、母親は思いがけない光景を目にします。長男が赤ん坊のベッドのそばに居て、タオルでよだれを拭いているのです。拭いても、拭いてもよだれは出ますが、何度も何度も忍耐強く拭き続けている。
もっと驚くべきことを母親は目撃した。荒れてすぐにキレる長男が赤ちゃんに向かって微笑んであやしているのです。そして何と赤ちゃんの顔にも、母親の自分が見たこともないような微笑みがこぼれていたそうです。
お母さんは大きな衝撃を受けました。長男のためにと思って、「勉強して、偉くなれ」と言い続けてきた。でもその結果、長男の心を滅茶苦茶にしてしまった。そして全く期待外れが明らかな赤ん坊の存在自体をうとましく思ってしまっていた。その結果、子どもから微笑んでもらえない母親になっていたのです。
そういう自分の誤り、行き詰まりに気づかせてくれたのが、手におえなくなってしまったと思っていた長男でした。母親は長男に言ったそうです。
「お母さん、とっても大きな間違いをしていたね。気づかせてくれて本当にありがとう。本当にごめんなさい」。
コロナ前、高座教会ではマリッジ・コースという夫婦のための学び会をしていました。そのテキストに、子どもに対して親や家庭が提供できる良いこと、親や家庭の役割が基本的に四つあると書かれています。
一つは、「衣食住のような子どもが感じる基本的ニーズを満たすこと」、二つ目は「子どもたちに楽しみ、喜びを提供すること」、三つ目は「してもよいことと、してはいけないことのガイドラインを提供すること」、そして最後四つ目は「人間関係の築き方を教えること」とありました。
なぜ、これが親や家庭が提供できる基本となるのかと言えば、この四つが子どもの幸せな成長にとって土台となるからです。でも、「偉くなること」、「よい成績をとること」が目標となる家庭でしたら、どうでしょう?本来、家庭が子どもたちに提供しなければならない大切な四つの内の一つも十分に満たされないのではないでしょうか?!
Ⅳ. 「偉さ」とは逆方向の「尊さ」
子育てを例に挙げるとするならば、子育てにとって本当に大事なことって何でしょう?大事なことは、幼児の内から色々なことが良く出来ることであり、学校に行ったら良い成績で良い学校に進むことであり、名前の通った会社に就職し、安定した生活ができることでしょうか?勿論、そうしたことも大切なことです。経済的な安定も、とても大切なことです。
ただ、たとえそうした一つひとつのことを獲得したとしても、先程ご紹介した、あの年の離れた2人兄弟の家庭は本当の意味で幸せだったのだろうか?あるいは、あの家庭の父親は、母親が言うのように、本当に「偉い」のでしょうか?!
先日、ある本を読んでいましたら、このような言葉に出会いました。
「今、あなたが子育てでしていることや、その中で考えていることは、あなたが老後を迎えた時に、そっくりそのまま、あなたが、我が子からどう扱われるかという形になって返って来るものなのです。自分の老後をどのように扱ってもらいたいかの答え作りを、実は今、している。それが子育てというものなのです。」
子育て真っ最中の方たちにとっては、自分の老後以前に、今、実際に目の前にいる子どもとのかかわりで、精一杯でしょう。
ただ、子どもに対して色々なものを買い与え、色々な習い事で明け暮れし、友だち同士、また人との心の通い合いもないような子ども時代を過ごせば、たぶんその子は老後を迎えた親に対しても、お金で色々と買い整えてあげることこそ、親孝行の最良の方法だと思うことでしょう。そのためにもお金が必要。そのためには偉くならなくては、と忙しい毎日を送ることになることでしょう。それが本当の幸せなのだろうかと思います。
今日のイエスさまの問いかけ、そして先ほどの家族の話は人の価値、子どもの価値って何なのかを、もう一度、私たちに考えさせてくれます。
先ほどの父親と母親にとっての「偉さ」の基準は、人の上に行くことでした。勉強の成績も、学校も、勤め先も、役職も、全て人よりも上であることが価値あること、「偉い」ことでした。でも、その偉いことで、この家庭は幸せだっただろうか?そうではなかったと思います。逆に、あの中学生の長男は、彼の両親に別の「偉さ」、「別の尊さ」があるということを教えてくれたように思います。
重い身体障碍の弟のベッドのそばで、繰り返しよだれを拭き続ける。これは人の上に行くこととはまったく逆方向にある「尊さ」を示しているように思うのです。
聖書に戻りますが、先ほどの弟子たちの母親に対してイエスさまは何と言われたでしょうか?聖書をお持ちの方は、マタイ福音書20章25節をご覧ください。このような言葉が出て来ます。
「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。『あなたがたも知っているように、諸民族の支配者たちはその上に君臨し、また、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、あなたがたの中で頭になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。』」
このイエスさまの言葉は、上に行く「偉さ」とは別に、下に行く「偉さ」があること、しかもその下に行く「偉さ」の方がずっと価値が高いことを私たちに教えています。先ほどのお母さんが知ったのはこのことでした。
上に行く「偉さ」はみんなをダメにするかもしれません。でも下に行く「偉さ」はみんなを生かすことになる。
イエスさまは、私たちに「何をしてほしいのか?」と訊ねられます。この問いかけに、一度、立ちどまり、私たちが求めているものの先に、本当の幸せがあるのかどうか、神さまの前に吟味させていただきたいと思うのです。
お祈りいたします。