大丈夫よ、神さまがおられるから
松本雅弘牧師 説教要約
マタイによる福音書6章25-34節
2023年10月1日
Ⅰ. はじめに
今日から《秋の歓迎礼拝》が始まりました。
今日始めて教会の礼拝に出席された方々もいらっしゃることでしょう。ほんとうにようこそお越しくださいました。心から歓迎いたします。
私は、よく教会でお話しするのですが、先ほど、お読みしました聖書ですが、これはたいへん不思議な書物なのです。歴史上、最も迫害を受けた書物ですが、消滅せず生き延びています。そして今日に至るまで、多くの人に親しまれてきています。
世界で一番多くの言語に翻訳されています。クリスチャンではない方のご家庭にも、必ず1冊はあると思います。読まれている、読まれていないは別としまして…。
数年前の情報で、たぶん今もあまり変わっていないと思いますが聖書の出版数がトップなのがアメリカだそうです。2番目はどこだと思われますか…?はブラジルだそうです。そして3番目が日本だそうです。クリスチャン人口がわずか1%に満たない日本が、世界で第3位だそうです。
さて、聖書は「不思議な書物」であるとお話しましたが、聖書の不思議さの1つは、その言葉に力がある、「心の糧」を与える、ということなのです。
Ⅱ. 思い煩う私たち
さて、今日の聖書の言葉はマタイ福音書6章25節から34節の御言葉です。
ここでイエスさまは、私たち、ひとはいかに思い煩う存在であるかを語っておられます。この短い、数えるとちょうど10節ですが、このところに、「思い煩う」という言葉が、25節、27節、28節、31節、そして、34節に2回と、合計6回出て来ます。つまり繰り返されています。
私もお話の原稿を作る時に、この「繰り返し」という手法を使います。ただこれは、度を越すと、聞く側からすれば、しつこい印象を与えかねません。ましてこんな短い箇所に6回も「思い煩う」という言葉が使われたということは、たとえしつこいと思われたとしても、敢えて繰り返し、「思い煩うな」ということをお語りになりたかった。主イエスの目には、それほど私たちが思い悩むことの多い存在であるか、を気づかせたかったのだと思います。
社会を見渡しますと、子どもたちの将来、日本の将来、目に飛び込む1つひとつのことを取り上げて、少し考え始めると、時として物凄い不安に襲われることがあります。思い悩ませる材料が次々に出て来ます。
Ⅲ. 思い煩いから離れ切り替えていく
ここでイエスさまは、そうした「思い煩い」との「付き合い方」を説いているように思います。いや単に付き合うだけではなく、そこから解放されるためにどうしたらよいのか、ということを教えています。
それが26節と28節にある、「空の鳥をよく見、野の花によく学ぶ」という生き方です。思い煩うことの代わりに、空の鳥をよく見、また野の花がどのように育つのかをよく学ぶ、注意深く観察しなさい、とイエスさまは教えてくださっています。
空の鳥、そして野の花を注意深く観察する時に、何が見えてくるでしょうか。
26節をもう一度、御覧ください。「空の鳥を見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」
空の鳥が種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない中で、健やかに生きている現実です。また28節で、野の花がどのように育つのか、をも注意深く観てみますと、そこに見えて来るのは、イエスさまの言葉を使うならば、「栄華を極めたソロモン王をしのぐほどに美しく飾られている様子」です。
そして、さらに、このイエスさまの教えに耳を傾けますと、空でさえずる小鳥、野原で美しく咲いている花に注がれている神さまの眼差しに私たちの心が向かいます。あるいは、鳥を養い、花を装う神さまの優しい御手に動きが見えてくるのではないでしょうか。
この教えを通して主イエスは、空の鳥をよく観察し、野の花からよく学びなさい、と勧め、そうした鳥や花を見た、そのあなたの目をもって、今度、あなた自身に注がれる神さまの眼差し、あなた自身の命を支えておられる神さまの御手に注目して御覧なさい、と教える。その言葉が26節後半、そして30節に出て来ます。
「だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。まして、あなたがたは、鳥よりも優れた者ではないか」、そして30節です。
「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」。
空の鳥、野の花が健やかに生きている、それ以上に、神さまが私たちに生きるべき命を与え、生きるようにと支えておられるのです。
よく教会に来ると耳にするかもしれません。幼稚園でもよく開かれる聖書の言葉があります。パウロという教師が、ギリシャのコリント教会に宛てて語った言葉です。
「私たちは、見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に存続するからです。」(Ⅱコリント4:18)
確かに目に見える物は過ぎ去っていきますね。
9月下旬から、教会や幼稚園の周りのフェンスに「秋の
歓迎礼拝」のポスターが掲示されました。私も横を通る時に、笑顔で写る3人の牧師たちの顔を見るのですが、どうしても自分の写真に目が行ってしまいます。そして思うことは、〈それにしても、白髪が増えたな〉ということです。
よく礼拝でもお話するのですが、若い頃、髪の毛が白くなることを願っていました。当時、若いことがマイナスに作用しているように思っていましたので、せめて髪の毛でも、と言った思いがありました。神さまは、その願いに応えてくださって、今、白髪の方が多くなってしまいましたが…。
それはともかくとして、確かに見える物は年を追うごとに変化する。パウロの言葉遣えば、「見えるものは過ぎさ」るのです。そしてそれが真理であるように、実は、「見えないものは永遠に存続する」のだ、と聖書は語るのです。
そうです。空の鳥、野の花、そしてイエスさまがおっしゃったように、私たちの上に注がれている神さまの愛の眼差し、神さまの温かな御手の働きは、すぐには目に見えない。心の目をもってよく観察してみないと見えてこないものですが、そうした「見えないもの」は決して過ぎ去ることがないというのです。そこにフォーカスし、そこに焦点を合わせる作業が、聖書を読み、賛美歌を歌うこと。日曜日ごとの礼拝の時なのです。
以前、鎌倉の修道院で祈りの指導を受けたことがあります。指導してくださった先生が、こんな話をされました。ちょうど震災のあった2011年の頃でしたが、その先生が震災後、50日くらいして、被災地にボランティアに行ったそうです。
そこは津波で流されたところですので、当然、人は住んでいません。住めない状況でした。でも小さな花が咲いていたそうです。そして空を見上げますと、普段と同じように鳥がさえずり、舞っていたというのです。
実は、その先生、地震の4日後、3月15日に同じ場所を訪れていました。そのた時は勿論、花は咲いてなかったのですし、空に鳥すらいなかったそうです。鳥のさえずりが途絶え、花が姿を消していた。その状況は、今日のイエスさまの教えからすれば、ある種の危機的な状況です。
主イエスの教えからすれば、鳥がさえずり、花が咲いているということは、神さまがそれらを養い、装ってくださっていることの証拠、神さまが生きて働いておられることの動かぬ証拠だからです。鳥がさえずり、花が咲いていたら、そこに希望がある、ということだからです。
私たち、共同の祈りで被災地のことを、今も祈祷課題に挙げてお祈りをしています。その課題を見る時、現在も多くの被災地域では普通に暮らせる状況が完全に整ったか、と言えば、そうは言えません。特に原発に近い福島の地域はそうです。でもひと足さきに、そこに花が咲き始め、鳥のさえずりが聞こえ始める。実は、そこに私たちの希望がある。なぜなら、その鳥や花の背後に、それらを養い育てておられるお方がいらっしゃるからです。
聖書に戻りますが、ここで主イエスは、「明日のことを思い煩ってはならない」と言われ、「空の鳥、野の花をよく観察するように」と言われた後、今日の最後のところですが、34節で、「その日の苦労は、その日だけで十分である」とおっしゃいました。
決して、「苦労などない」と、非現実的なことを言われているのではありません。はっきりと、「その日の苦労はある」とおっしゃる。確かに、毎日、苦労が絶えません。生きていく上では様々な責任がつきものですから。家庭での責任は勿論、幼稚園や学校でのお役もあるかもしれません。お仕事をしている人でしたら職場での責任もあるでしょう。誰にでも「その日の苦労」は必ずあるものでしょう。
今日、取り上げた、このイエスさまの教えは、マタイ福音書5章から始まる、「山上の説教」と呼ばれている一連の教えの一部なのです。今日の説教のアウトラインに、その説教の語り始めの部分を印刷していただきました。こういうイエスさまの言葉で始まっています。
「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。 悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。へりくだった人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。…」と「8つの幸い」の教えを説かれるところから始まっている教えです。
実は、これは励ましの言葉なのですね。この説教が誰に向かって話されたかと言えば、病人や貧しい人や、様々な重荷を抱えていた人たち、勿論、そこには弟子たちもいましたが、主にそうした弱い立場の人たちに向かって語られた説教でした。今日のイエスさまの言葉を使うならば、思い悩みや思い煩いで心が一杯一杯の人たちです。その人たちを前に、この「8つの幸い」を説かれたのです。
たくさんの苦労で一杯になっている人に向かって、「あなたたちは、幸いですよ」とおっしゃったのです。少し表現が堅いですが、意味は、「大丈夫!」という意味です。
「天の国はみんなのものなのだから、大丈夫!」。
重荷を負って悲しんでいる人も幸いですよ、とイエスさまは言われます。「今、悲しんでいるけど、あなたを慰める神さまがおられ、必ず涙をぬぐってくださるから、大丈夫!」と言ってくださっているのです。そういうことです。
あなたは独りぼっちだと思っているかもしれないけれど、神さまの温かい優しい眼差しがあなたに注がれている。その眼差しを感じながらやっていきましょう、と主イエスさまは言われるのです。
Ⅳ. 明日を主に委ねて生きる
何か壁にぶち当たるような時、今日のイエスさまの御言葉を思い出しましょう。イエスさまが言われるように、顔を上げ、空を見上げ、空を飛ぶ小鳥たちを見つけましょう。道端に咲いている花を見つけましょう。神さまがおられるから、そうした鳥は養われ、小さな草も花でもって装われている。その神さまが、私を養い、装ってくださる。私や、私の家族を守ってくださるから、「大丈夫です!」。その主イエスさまの御声に心の耳を澄ませていきたいと思います。
お祈りします。