たとえそうでなくとも

<春の歓迎礼拝> 和田一郎副牧師 説教要約
ダニエル書3章14-26節 
2023年4月23日

Ⅰ. ご利益スポット

先日、家族で鎌倉に行くことがありました。境内を一回りすると縁結び、厄除け、交通安全、などなどご利益スポットがあります。大銀杏の大木もご利益があるそうです。日本はご利益スポットに囲まれていますが、今日の聖書の話はご利益を求めない人たちの話です。

Ⅱ. 3人のユダヤ人

今日、お読みしましたダニエル書の話は、紀元前6世紀、バビロン帝国での出来事です。圧倒的な権力を獲得したネブカドネツァル王が、自分が立てた金の像に向かって拝むことを求めました。もし「ひれ伏して拝まない者は誰でも、火の燃える炉の中に直ちに投げ込まれる。」という厳しいものでした。ユダヤ人のシャドラク、メシャク、アベド・ネゴの3人は、祖国ユダヤの国を滅ぼされて、バビロンに連れて来られていました。しかし、彼らは優秀で忠実に働いていた功績よってバビロンの高官に任命されていたのです。しかし、信仰においては聖書の神様を唯一の神として信じていましたから「金の像を拝め」という命令を受け入れることはできませんでした。そのことがネブカドネツァル王に通達され、王は怒り狂って言いました。15節「今、もしお前たちが・・ひれ伏して、私が造った像を拝むなら、それでよい。しかし、もし拝まないならば、直ちに火の燃える炉の中に投げ込まれる」と命じたのです。まるで「踏み絵」のようです。
彼らの答えは何と、16節「このことについて、私たちがあなたに言葉を返す必要はありません。もしそうなれば、私たちが仕える神は、私たちを救い出すことができます」。彼らは神様が救い出す力があり、自分達を救ってくださることを少しも疑わなかったのです。さらに18節「たとえそうでなくとも、王様、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えることも、あなたが立てた金の像を拝むこともいたしません」。
たとえこの状況において助かる事がなくても、私たちの行動には何の変化もない。神の御心によって、この時死ぬ必要があるなら死ぬことができるというのです。こうして、三人は縛られたまま、燃える炉の中に投げ込まれました。
投げ込まれた炉の中を見ていた王は、驚いて立ち上がります。24節「あの三人は、縛ったまま火の中に投げ込んだのではなかったか・・しかし私には、四人の者が縄目を解かれ、火の中を歩いているのが見える。しかも何の害も受けていない。四人目の者の姿は神の子のようだ」。三人に神の守りがあったのです。王の命令によって炉から出たときには、この第四の人は消えていました。こうして、ネブカドネツァルはまことの神について認識を新たにしたのです。
今日の聖書箇所で18節「たとえそうでなくても」という御言葉に注目しました。
彼ら三人は、火の燃える炉に入れられても、神様は救い出すことができるお方ですから、と信じていました。信じていましたが「たとえそうでなくとも・・・金の像を拝むこともいたしません」。つまり、たとえ助からなくても、投げ込まれることに躊躇はない、神の摂理の中で、今が死ぬ時ならば、そのようにすると言うのです。助かったら神を信じる、助からなかったら信じられないのであれば、それではご利益信仰です。しかし、そうではなくて助かろうとも、助からなくても「自分の在り方は揺るがない」というのが、聖書を神の言葉と信じるクリスチャンの信仰です。

Ⅲ. ダンケルクの戦い

この言葉は、海外の英語圏での方が浸透している言葉かも知れません。1940年5月、第二次世界大戦においてヒトラー率いるドイツ軍がフランスへと侵攻していました。そこで戦っていたイギリス・フランス連合軍はフランス北部にある小さな港町ダンケルクに追い詰められて包囲されていました。ダンケルクの海岸は遠浅だったので、駆逐艦が迎えに行くこともできません。つまり、孤立する40万人に軍事的支援を送ることができなかった、ダンケルクの連合軍が全滅することが確実に見えたのです。その時ダンケルクの軍隊から、たった3 語のメッセージが送信されました。”But if not”「たとえそうでなくとも」という言葉です。
イギリス国民は、このたった3つのフレーズから「ヒトラーの軍隊から救出されなくても、力強く立ち向かう。たとえ助かることがなくても、最期まであきらめない。」というメッセージの意味を即座に認識しました。シャドラク、メシャク、アベド・ネゴが神様に信頼を置いてネブカドネツァルに屈しなかったダニエル書の言葉を知っていたのです。
”But if not” は欽定訳聖書(King James Version1611年出版)を使用していた英語圏のクリスチャンに浸透している言葉でした。” But if not” 「たとえそうでなくても」とは、「たとえ報われなくても、やり抜く」という意味で知られているそうです。包囲されたダンケルクからの、このメッセージはイギリス国民に刺激を与えました。
残された手段は、遠浅の海岸にも乗り入れできる民間の漁船やヨット、遊覧船など、あらゆる小型船舶を総動員した撤退作戦でした。参加した数はおよそ900隻といわれています。民間人たちが自らドイツ軍が待ち受けるダンケルクに向かって、兵士たちの救出に向かったのです。結果として、連合軍40万人中、約36万人のイギリスとフランスの兵士がイギリス本土にたどり着きました。現在でも“ダンケルクスピリット”という言葉が使われるそうです。
今日お読みしたダニエル書では、神の主権的支配が強調されています。この世のすべては、古代の時代も現在も、神様のご支配の中に置かれています。圧倒的な権力を持っていたネブカドネツァルでさえ支配し、神様は地上の支配者たちのすべては勿論、全世界と全歴史を支配している方であることが強調されています。「しかし、もしそうでなくても」というフレーズは、神様の主権に対する揺るぎない信頼を表す言葉なのです。

Ⅳ. 「すべきことをしたにすぎません」

今日、はじめに、日本はご利益スポットに囲まれていると話しました。私たちは神社にお参りに行ったり、善い行いをすればご利益があるという文化の中にいます。しかし、聖書の神様を信じる者は、ご利益を得るために礼拝したり、善い行いに務めるのではないのです。信仰をもつことで、ご利益はもうすでに十分頂いています。信仰をもつことで、神様と家族のような良い関係ができたという感謝に満たされた応答として、善い行いに務めるのです。ですから礼拝したり、善い行いをすることは、ただ、やるべきことをしたまでです。
イエス様は言いました、「自分に命じられたことを、みな果たしたら『すべきことをしたにすぎません』と言いなさい。」(ルカ17章10節)。そればかりか「よくやった、よい僕だ」と褒められたとしても、「いつそれをしましたか?」と尋ね返すほどに、報いを求めない生き方が望まれるのです。
”But if not”「たとえそうでなくても」という短い聖書の御言葉は、私たちに励ましを与えてくださる力強い言葉です。決して報いを当てにして信じる信仰ではないことを言い表しています。
報いがあろうとも、無かろうとも、神を信頼するところに、信仰者の在り方を見ることができます。この一週間、報いを求めずに、自分の在り方を生活の場であらわしていきましょう。
お祈りをいたします。