聖書が教える人間関係
<春の歓迎礼拝> 松本雅弘牧師 説教要約
マタイによる福音書7章1-5節
2023年4月16日
Ⅰ.単なる処世術ではない
ここに、「人を裁くな。裁かれないためである」という言葉が出て来ますが、これはある意味で日常生活の中で、私たち自身が経験的に習得している知恵をズバリと語っている言葉のように思います。ただここでイエスさまは、人から批判されないために、人を批判しないように、単なる処世術を説いたのではありません。
聖書は初めから終わりまで、この世界の悪や人間の罪と戦いが出て来ます。また、聖書の教えに生きる人々の中に、悪や罪に対する曖昧さを許さない厳しい態度が生れていることも分かるからです。
Ⅱ.「裁くな」と教えられた背景
さて、「人を裁くな」という言葉は、当時、人々を評価し、なおかつ裁く立場に常に立たされていたファリサイ派や律法学者と呼ばれる、当時の指導者層の人々に向けて語られた言葉だと言われています。
当時、彼らは、聖書の戒めや規則に精通していて、やるべきことはしっかりとやる。それこそ、人から後ろ指を指されることなどないように、真面目に、また人々の模範となる生活をしていました。
例えば、自分が一生懸命やっているのに、他の人がいい加減にしているのを見ると、許せなくなり、腹が立ってくることはないでしょうか。彼らは、自分たちが一生懸命やっている分、周囲の人たちにもそれを要求していた。そして「いい加減に見える人/呑気そうにしている人」を許せない思いで見ていたのですね。こうしたことは、日常生活の中で、よく起こることだと思います。
「自分はこんな大変な思いをしているのに」とか。「これだけ頑張っているのに」とか。良い動機で始め、自分の意思で決めたことなのに、問題にぶつかり一杯いっぱいになって余裕がなくなって来る。そうすると必ず、人に要求し始める。それどころか、相手を攻め、相手を批判する。今日の「人を裁くな」という教えには、こうした当時の背景があったことを心に留めたいと思うのです。
Ⅲ.大きな落とし穴
ここでイエスさまは、人の裁き、悪い所を指摘する時、「あなたの目からおが屑を取らせてください」と言っているのと同じだというのです。善意であろうが親切心であろうが、「あなたの目からおが屑を取らせてください」と言った人のことを「偽善者よ」と呼んでいます。とても強い言葉です。
「偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、きょうだいの目からおが屑を取り除くことができる。」
「おが屑」とは本当にちっぽけなものです。仮に「おが屑」が目の中に入ってしまったら、本人はゴロゴロして痛いはず。涙も止まらない。鏡の前に近づけて見るのですが、ゴロゴロする違和感はあっても、目の中のどこに「おが屑」があるのか、実は本人にも見つけることが出来ない。それが「おが屑」です。
主イエスは、本人にも分からない、あるのかないのかもわからないような「おが屑」を、こちら側からしっかりと見つけ、しかも、どういう種類の「おが屑」であるのかをも言い当てるくらいの確信をもって、「あなたの目からおが屑を取らせてください」と言ってのけてしまうというのです。
ここで主イエスは、そのように言ってのけてしまう人を「偽善者」と呼ばれました。そして、「まず自分の目から梁を取り除け」と言われたのです。「梁」とは「おが屑」と対照的に大きな木のことでしょう。
よくカウンセリングで「変えることのできないものが二つある」と言われます。一つは「他人」、そしてもう一つは「自分の過去」。しかし、同じくカウンセリングの場面で「変えることのできるものも二つある」というのです。それは「自分」と「過去の意味/過去の受け取り方」です。
ここでイエスさまは、まず自分自身を理解するように。自分の梁に気づくように。そして、それを取り除くように、と勧めています。カウンセリングの言葉を使うならば、自分の課題に気づき、それと取り組み始めることです。すると不思議と、相手に対する私自身の見方が変わって来る。その結果、相手にも変化が起こって来るのです。
でも、ほんとうに不思議なんですが、片方が、自分の内側にある「梁」、言い換えれば課題に気づき始めると、そこに変化が起こってくる。私の方の出方が変わることで、いつもの会話のパターンや喧嘩のパターンが崩れ、そこに必ず変化が起こるからです。
そして、もう一つ、例えば、明らかに相手に問題がある場合があります。確かに、今日の聖書の箇所でイエスさまは、相手を裁く前に、自分自身を振り返るように教えています。でも、相手の人が明らかに難しい人である場合もあるでしょう。それこそ「敵」のように思える人もいるかもしれません。
同じ山上の説教の5章43節から45節に次のような御言葉があります。もし聖書をお持ちの方は、新約聖書の8ページをお開き下さい。
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と言われている。しかし、私は言っておく。敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子となるためである。父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」
イエスさまは、「敵を愛しなさい」とも言われるのです。今日は、「聖書の教える人間関係」というテーマでもあるので、これについても少しだけ触れたいと思います。
ある方がこんなことを語っていました。「人間をレタスに置き換えて考えなさい」というのです。
例えば、レタスを育てているとします。肥料をやり、雑草を抜き、水をやって育てるのですが、なかなかうまく育たなかった。収穫はしたものの、出来の良いレタスではなかった時に、あなたはどうするかを考えて御覧なさいというのです。
そんな時、誰もレタスに向かって「何でうまく育たなかったのか!」と言って責めるだろうか。あるいは「何でお前は出来そこないなの!?」と言って裁くだろうか。むしろ、「なぜ、こうなったのだろうか」とそのレタスを理解しようするのではないだろうか、と。レタスを問題にする代わりに、私自身が出来ることを見つけようとするのではないだろうか、と。
つまり、課題のある人を迎えた時に、どうしても最初は指摘してしまうかもしれませんが、どこかでそうするのを一旦やめにして、レタスを見る時のように、その人が育った背景、受けてきた教育、家庭環境などを理解しようとする。すると不思議なのですが、今まで難しいと思ったその人に対しての見方が変わるということが起こる。その人に対して優しくなれる。
Ⅳ.十字架の赦しの前に生かされる
今日は、「聖書が教える人間関係」というタイトルでお話をさせていただいていますが、まとめますと、まず私たちがすべきことは、他人のことではなく、自分を理解する、ということ。そして次に相手を理解する、ということです。
相手を変えることはできません。自分の過去も変えることはできません。でもできることがあります。それは自分の梁、すなわち自分の課題と向き合うことです。忍耐を持って取り組み始める。すると、必ず、日常の人間関係のパターンに変化が起こり、本当に不思議なことに相手の出方も変わってくる。
そして何よりも大切なことは、神さまがこの私をどのように見ていてくださっているか。それと同じように、神さまが、私の隣人をどのように思っていてくださるのかに思いを寄せる、ということでしょう。
教会に来ると必ず目にするものがあります。それは十字架です。この十字架は、今ではネックレスやペンダントになっていて、クリスチャンでない方もアクセサリーとして身につけていますが、元はと言えば処刑する時の道具です。
ところが、2千年のキリスト教の歴史において、教会は、この十字架をキリスト教のシンボルとして本当に大切にしてきました。そのことを表したのが、今日も礼拝の最初に読ませていただいた、「聖書の聖書」と呼ばれるヨハネ福音書3章16節です。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
つまり、私たちは生きることが許されている者同士です。神さまは、「あなたは大切な人です」と、神さまは、キリストの十字架を通して、私たちに宣言しておられる。それも、私だけではなく、隣に居るその人に向かっても同様に語りかけておられます。
そのことを知る時に、周囲の人を見る私の見方は必ず変わって来るはずです。私も赦され、私も愛されている者として生かされているのだから、という優しい見方が与えられてくるはず。そうした中で、本当の意味での豊かな人間関係が与えられていくのです。お祈りいたします。