ガリラヤで会おう

<イースター礼拝・春の歓迎礼拝> 松本雅弘牧師 説教要約
マルコによる福音書16章1-8節 
2023年4月9日

Ⅰ. イースター、おめでとう!

「あの方は復活なさった」。御使いがマグダラのマリヤたちに告げたこの《知らせ》を、私たちも今日、新たな気持ちで受けとり、主イエスをよみがえらされた神を共にほめたたえたいと思います。

Ⅱ. 復活の朝

先週、私たちは朝に夕に受難週祈祷会を守ってまいりました。その祈祷会も金曜日で終わりました。土曜日はガールスカウト、ボーイスカウトの入団式が行われました。ですから、金曜日で一区切り、土曜日はどちらかと言えば、少しホッとして、気持ちを切り替えて、今日のイースターの礼拝に向けての準備を始めたことでした。
しかし、二千年前のイースターの前日の土曜日、それは十字架上の翌日の出来事です。瞼を閉じれば、あの鮮烈な十字架の場面、体全体で苦痛に耐えておられる主の表情がはっきりと映し出されたことだと思います。何故なら、イエスさまの死刑が執り行われた日の翌日でしたから…。弟子たちは一体、どのような時を過ごしていたのだろうか、と思うのです。
一番弟子のペトロは主イエスの予告通り、三回も主イエスを否定しました。三度目に「知らない」と言った時、振り向いて見つめておられた主の眼差しが瞼の裏側に焼き付いています。〈もうイエスさまに会わせる顔などない〉。ペトロにとっての土曜日は、深い絶望と自分を責める思いが心の中でグルグル回り、決して日曜日がやってきそうもないような、そんな一日だったのではないでしょうか。
ペトロ以外の弟子たち、あるいはガリラヤからずっとお供をしてきた女性たちも同様でしょう。生きる望みであったお方が死んでしまったのですから…。今はもう暗い墓の中なのです。「絶望」とは、この土曜日の彼女たちのための言葉だったと思います。これが、弟子や女弟子たちの土曜日でした。
そのような長いながい土曜日が過ぎた週の初めの日、つまり日曜日。彼女たちは、冷たくなった遺体の前で泣くだけ泣くために墓までやって来たのです。〈墓の入り口を塞ぐ大きな石をどうしたらどかせるだろうか〉と心配しながらやって来ますと、その石は脇に転がしてありました。中へ入ってみました。あるはずの遺体がありません。すると、白い長い衣を着た若者が座っていて、その白い衣を着た若者によって「復活した事実」が知らされていきました。
ところが、そのメッセージを聴いた彼女たちは喜んだか、と言いますと、その逆です。ただただ恐怖に震えるだけだったのです。
皮肉なことに、イースターの朝、復活を期待していた人は一人もいなかったのです。「見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、悟らない」とイエスさまが言われましたが、これが復活を取り巻く弟子たちの現実です。そんな彼らに対して改めて復活が伝えられたのです。

Ⅲ. 「弟子たちとペトロに」

「驚くことはない。十字架につけられたナザレのイエスを捜しているのだろうが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。』」(マルコ16:6、7)
ここで御使いは、「弟子たちとペトロに告げなさい」と言いました。ギリシャ語で見てみますと、「弟子たちとそしてペトロに」となっていました。「弟子たちと、そして特にペトロに」という意味です。主イエスとの関係を三度も否定したペトロに、です。
この時のペトロは〈自分はもうダメだ。口が裂けても主の弟子だなって言えない〉と深い挫折感の中にあったことでしょう。しかし父なる神さまは、御使いを通し、「弟子たちに、そして特にペトロに告げなさい」と言われた。〈おこがましくて自分を弟子だなんて言えない。いや、自分は失格者だ〉と思っていたことでしょう。でも主イエスはそのようには見ておられなかった。その証拠に「特に弟子のペトロに!」と主は言われた。これが神の選び、召命です。
このメッセージを預かりながら、最初は口を開くことの出来なかった彼女たちです。ですから、ペトロがこれを聞かされたのは、少ししてからだったに違いない。でも、それを聞かされた時のペトロは本当に嬉しかったに違いない。名指しで声をかけてくださる。〈裏切ってしまったこの私を、主は、お見捨てにならならなかった!〉。
思うに、クリスチャン生活の喜びは二つの側面があって、一つは「イエスさまに愛されている喜び」、そしてもう一つは、そのお方に「用いていただける喜び」でしょう。私たちは幾つになっても、「愛されたい/大切にされたい」と思うと同時に、「主のお役に立ちたい」と思うものでしょう。そして幸いにも、その二つの切なる求めが、私たち、復活の主と出会う時に初めて一つとなっていく。その願いが叶えられ、心に深い満足をいただくのです。ここにおいてペトロは温かく力強いメッセージをいただいた。赦しをいただいた。もったいない程の恵みを経験したのではないでしょうか!

Ⅳ.「ガリラヤで会おう」

復活の主との出会いを経験する新しい歩みを「ガリラヤに行きなさい」という言葉をもって主は語っておられます。なぜ、「ガリラヤ」なのでしょう?
「ガリラヤ」、それは弟子たちの故郷です。彼らの生活と働きの場。泣いたり笑ったりしたところです。イエスさまと出会い、イエスさまの御言葉に養われ、イエスさまと一緒に歩んだガリラヤです。思い出がぎっしり詰まった懐かしい場所です。ただ同時に、「ガリラヤ」という地名には「周辺・辺境」という意味があります。「異邦人のガリラヤ」という言葉が出て来るくらいに、異邦人が多く住む場所。エルサレムに代表される「中心」から遠く離れ、それ故、疎外され軽蔑されてきた土地でもありました。
当時、一般的なユダヤ人は、結婚相手をガリラヤから選ぶことがなかったそうです。律法を学ぶ権利さえ大胆に主張することもできなかった人々が住む土地、ですから「ガリラヤからは何の良いものも出てこない」とさえ言われていました。
でも面白いと思いませんか?イエスさまはそのガリラヤのナザレ出身でした。そして公の生涯の大部分をガリラヤで活動された。当時の「物差し」で見たら、貧しく、軽蔑され、それ故、一般のユダヤ人から見向きもされない人々が暮らしていたガリラヤで「神の国が近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」。主は宣教の第一声をあげるのに、敢えてこの地を選ばれたのです。
弟子たちもこのガリラヤの人の中からお選びになりました。そして「交わると汚れる」と言って、忌み嫌われた「罪人」と呼ばれた人たちと共に食卓を囲み、「罪ゆえに」といわれた病人や体の不自由な人たちと共に居ることで、彼らを癒されたのもみな、このガリラヤでの出来事でした。ガリラヤ、それは中心ではない。周辺です。人の注目から外れた片隅です。でも真の神さま、本当の神さまは、当時、スポットライトが当たる、表舞台のエルサレムではなく、その裏のような「ガリラヤ。そこで会おう」と言われたのです。
日常生活にはつまらない雑用があります。それは中心からはずれている。だから雑用と呼ばれるのでしょう。でも神の御前で、そのつまらない雑用も生きる、というのです。
私たちは、無駄と思える努力をします。空しく時間を過ごしたと思うこともあります。神さまの為に、家族や友人の為に、役に立たなかったと思える準備をします。でも、それも主の前で生きるというのです。報われないと思えるような忍耐も、復活の主と共にある時、皆生きる、と主は教えてくださった。それどころか、無駄とも思える私自身が、復活の主に出会って、キリストの命に生かされるのだ、というのです。「ガリラヤに行って、そこで会おう」とは、何と素晴らしい恵みのメッセージなのではないでしょうか!
今日は、イースターです。主イエス・キリストはこうしたガリラヤで生活し、十字架に死に、そしてガリラヤに復活された。特別な場所ではありません。むしろ普段着の場所です。注目を浴びるような表舞台でもありません。誰も見ていない、誰からも分かってもらえないようにして、多くの時間を費やす生活の片隅かもしれません。でも復活の主はそこにおられ、私たちと出会ってくださると約束しておられるのです。
「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」と約束してくださる。
私たちは、これから「それぞれのガリラヤ」に派遣されていきます。そこに主は私たちより先に行って待っていてくださる。そして、そこにおいて私たちと出会ってくださるのです。
「ガリラヤで会おう」。この恵みを信じ、「私たちのガリラヤ」で共に歩んでくださる復活の主と共に生きる者でありたいと願います。
お祈りします。