貧弱な宝物
<棕櫚の主日・春の歓迎礼拝> 松本雅弘牧師 説教要約
申命記7章6-8節
イザヤ書46章3、4節
2023年4月2日
Ⅰ. 『たからものくらべ』
『たからものくらべ』という絵本があります。トモコとタカシという六歳と四歳の姉弟が宝物の比べっこをするお話です。
姉のトモコの宝物は、本に挟まっていた「お姫さまのしおり」、貝殻、クリスマスケーキのサンタさんの人形、それから落ちていた「豆まきの豆」、「まめじ」、「まるきち」「ぽんころり」と名前までつけ大事にしています。一方、弟のタカシの宝物は、本に挟まっていた「愛読者カードのはがき」、海で拾ったビンのキャップ、自転車の鍵、クリスマスに使った「クラッカー」、匂いをかぐと火薬の臭いがするものだそうです。それから姉から貰った「豆撒きの豆」二粒と豆の皮。姉同様、「ももたろう」、「きんたろう」、「かわじ」と名付けています。二人の説明を聞き、一つひとつを眺めてみると「ガラクタ」なのに何とも輝いて見えてくる。不思議です。二人の様子を見ながら、子どもの頃を思い出しました。
Ⅱ. 宝物って何?
今日は「貧弱な宝物」という説教題にしました。
一般に「宝物」と言えば高価なものを思い浮かべます。でも全部が全部、高価なものではなく、絵本にあるように、その人にしか「価値」を見出せないものも宝物になり得るのだと思うのです。「豆の皮」なんて面白いですよね!
そのもの自体にほとんど値打ちがない。でも先ほどのタカシは「豆の皮」を手に入れるのに一生懸命頑張りやっとお姉ちゃんから譲り受けたのです。そして「かわじ」と名前をつけ大事にしています。宝物の価値とは、それに込められた、その人の心にあるのだと思います。
Ⅲ. 宝物としてくださる理由-誓いと神さまの愛によって
さて、今日の聖書の言葉は、神が「地上にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分の“宝の民”とされた」と書かれています。イスラエルの民は神にとって「“宝物”/掛け替えのない大切な存在だ」と言われています。
当時、イスラエルの民は元奴隷の集団で、エジプトから脱失して以来、四十年も荒野をさ迷い歩く人々でしたので、決して強く立派な民族ではありませんでした。「あなたがたがどの民よりも数が多かったから、主があなたがたに心引かれて選んだのではない。むしろ、あなたがたは、どの民よりも少なかった」と書かれている通りです。この「少なかった」(申命記7:7)という言葉を新共同訳聖書は「貧弱だった」と表現しています。
そうです。「貧弱なのに宝物だ」と神はおっしゃっている。それは、「あなたがたに対する主の愛のゆえに、あなたがたの先祖に誓われた誓いを守るために宝物にしたのだ。いや、宝物だったので、導き出したのだ」というのです。「先祖に誓われた誓い」とは、どんなことがあっても守り祝福するという神ご自身の誓いのことです。
この「愛の誓い」を聖書は神と民との結婚の誓いになぞらえています。その誓い故に、他の民族と比較したら見劣りするような貧弱なあなたたちを、私は奴隷状態から解放し、救い出した。それはあなたと結婚の誓約を結んだからだ、と神が言われている、ということなのです。
ところで、よく「恋愛と結婚は違う」と言われます。その「違い」はパートタイムとフルタイムの違いだ、と言った人がいました。〈うまい言い方するな〉と思いました。
パートタイムの関係だったら、自分のいい所で勝負できる。でも、フルタイムの関係となると、そうは行かない。まさに「フルタイム」ですから、見られたくないところも見えてしまう。全部を見せ合い、共有する関係です。互いをあるがままで受け入れ合うことが求められる。実は、その決意こそが、宝を生み出す源でもあるというのが、今日の聖書の教えなのです。
Ⅳ. 私たちは貧弱でも宝物
ところで、今日の言葉は第一義的にはイスラエルの民に語りかけられています。
イスラエルは人類を代表して「神の民」と呼ばれていますが、実は、全ての人は神の眼からご覧になって、この時のイスラエルの民のように、愛されている存在なのだ、と言うのが聖書のメッセージです。ですから、聖書を読む時は自分に当てはめて読むということが基本的な読み方となります。
そうした上で今日の箇所は、あなたがたもイスラエルの人々と同じように、比べあったら「貧弱」かもしれませんね、とまず語り掛けているということなのです。
私は、自分自身を顧みますと、ちょっとしたことで、痛んだり、傷ついたり、そして簡単に体調不良になる。実に「弱い者だ」と思うことがよくあります。いや、体だけではありません。人のちょっとした言葉が、私の頭の中をグルグル回ってしまう。言葉だけではありません。人のちょっとした視線でグサッと来てしまう。それで元気が急になくなっていくこともあります。本当に些細なことで、簡単に痛み、傷つき、場合によっては、それが原因で病気になったりもしてしまう。
そう考えますと、私たちは本当に弱く、一人で生きていくのに必要な力は、実は私の中に備わっていないように感じるのです。そのような意味で「貧弱」という言葉を使わせていただきたいのです。
ところが、今日の聖書の言葉は、そのように貧弱だからこそ、神さまの愛がそうした私に強く働くのだ、ということを伝えています。そして私たちの側からしますと、そのように弱いからこそ、信頼できる絶対者である神さまが大切となってくる。一人で生きるに必要な十分な備えがないからこそ、友を求め伴侶を求め、人生を共に旅する存在を求めるのではないでしょうか。
神さまは、貧弱な私たちを「宝物」としてくださる。宝物って何でしょう。それは希少価値、つまり稀にしかなく貴重で大切なものということです。
神さまというお方は、私たち一人ひとりを「稀にしかない存在で、掛け替えのない貴重で大切なもの」と見てくださっている。強さや立派さや偉大さや業績などの価値によるのではなくて、むしろ価値がないと思われるような貧弱さによって、神はその愛を注いでくれる。価値なき者を価値ありとしてくれるお方が、聖書の神さまなのです。
よく親に言われたことがあります。「出来の悪い子ほど可愛い」って。子どもの頃の私は、その言葉が好きではありませんでした。でも大人になり、子どもや孫が生まれてみて、この言葉の真意が少しずつ分ってきたように思います。
実は、神さまにとってイスラエルの民は、この「出来の悪い子」だったのではないかと思います。神さまは優秀な人を喜んで受け入れてくださる、と人は思います。でもそうではないのです。神さまは人間を愛し、その輝きを一人ひとりの中に見つけ出してくださる。付加価値ではなく、そのものを愛してくださる。愛をもって、私たちも、それぞれ愛され受け入れられているのです。
幼稚園が終わった後、お迎えに来られたお母さんたちが、虹の部屋の横にある長椅子に腰掛けてお話をしておられます。そして子どもたちは、と言うと、教会の庭で元気よく遊んでいます。でも、時々、お母さんの姿が見えなくなると、急に不安な顔になり、お母さんを捜しに戻って来る子どもがいます。そして見つかると、また元気よく友だちと遊び始めます。
私たちも、目に見ることはできませんが、神がおられ、そのお方がいつも目を離さずに、この私を見ていてくださる。いや見ていてくださるだけではなく、様々なよきものをもって私たちの人生を祝福し、備え、守っていてくださる。そのことを知るならば、私たちの生き方はどういう風に変わるでしょうか。
子どもたちは、お母さんの眼差しを感じる時に、自分を発揮することができます。少し離れた所まで行って冒険をすることができます。同様に、私を宝物のように大事にしてくださるお方がおられることを知る時に、私たちは本当の意味で安心し、自分に与えられたものをもって、自分らしく、生きることが出来るのではないでしょうか。
主イエス・キリストは「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つひとつの言葉で生きる」(マタイ4:4)と言われました。体の健康のためにパンやごはんが必要なように、私たちの心にも糧が必要である。その心の糧/心のごはんこそが、聖書の言葉なのだ、ということでしょう。
今月は今日を入れて5回にわたって、和田先生と私とで、御一緒に「心のごはんである聖書の言葉」を味わってみたいと思います。
最後に、同じ旧約聖書からイザヤという人が書いた言葉をお読みして、今日のお話を終わりにしたいと思います。
「聞け、ヤコブの家よ/またイスラエルの家のすべての残りの者よ/母の胎を出た時から私に担われている者たちよ/腹を出た時から私に運ばれている者たちよ。あなたがたが年老いるまで、私は神。/あなたがたが白髪になるまで、私は背負う。/私が造った。私が担おう。/私が背負って、救い出そう。」(イザヤ46:3-4)
お祈りいたします。


