キリストという土台

和田一郎副牧師 説教要約
詩編118編13-25節 
ルカによる福音書20章9-19節
2023年3月26日

Ⅰ. 「憧れを捨てる」

先週は、野球のWBCで日本が優勝するという歓喜を味わいましたが、私は日本選手の相手チームへ敬意を示す姿勢が印象的でした。相手へのリスペクトが、自分の驕り高ぶりを抑えてベストパフォーマンスを引き出しているようです。大谷選手が試合前に述べた「きょう一日だけは彼らへの憧れを捨てて、勝つことだけ考えていきましょう」との言葉も相手に敬意を持っているからこそ、出てきた言葉だと思いました。今日の聖書の話は、神様へのリスペクトを捨ててしまった人達に、イエス様が語った話です。

Ⅱ. 十字架に向かっていく

今年のイースターは4月9日、二日前の4月7日金曜日が十字架に架かられたイエス様の苦難を覚える受難日です。ですから、私たちは今日から2週間先にある十字架の受難日と、復活のイースターに心を向けるという日々を送っているわけです。今日の聖書箇所もそれに合わせた箇所で、イエス様がエルサレムに入城されて、十字架に架かるまでの日々を過ごしている中で起こった出来事です。イエス様の心の中には、これから迎える十字架の出来事への意識があったのです。その十字架の意味を、人々に教えていたのです。しかし、この時点でそれを理解する人はいなかったでしょう。十字架の出来事の後に、その意味を知ることができるように教えていたのです。

Ⅲ. 悪い農夫たち

このたとえ話は、ある人がぶどう園を作り、それを農夫たちに貸して長い旅に出たという話です。農夫たちはこのぶどう園で収穫した利益からその一部を地主である主人に支払うことになっていました。ところが収穫の時期がきて、主人の取り分を受け取らせるために遣わした僕(しもべ)を、農夫たちは袋叩きにして返してしまいました。別の僕を遣わしましたが、その僕も袋叩きにし、侮辱して追い返したのです。さらに三人目の僕も同じようにして放り出した。そこで主人は「どうしようか。私の愛する息子を送ろう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。」と考えました。しかし、農夫たちは、「これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、財産はこちらのものだ」と殺してしまったという話です。
イエス様の話を聞いていた人たちはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。「そんなこと」とは、僕を袋だたきにしたうえで、息子を殺してしまったことです。生きていくために仕事を与えてくれたのは主人です。生きる自由を与えられているのに、いつの間にか自分のぶどう園のように振る舞い、恩知らずなことをしている農夫たちを「そんなことがあってはなりません」と、誰しもが思うことでしょう。
この譬え話は、ぶどう園の主人は神様、主人が遣わした僕は旧約聖書の預言者たち、ぶどう園はイスラエルの国、そこで働く農夫はユダヤ人を表しています。つまり、神様はイスラエルという国をユダヤ人たちのために与えて下さり、そこに派遣された預言者を用いて、神を礼拝するように伝え続けたのに、聞く耳を持たずに預言者を侮辱したり放り出してきた。そこで、愛する独り子であるキリストを地上に送れば、敬ってくれるだろうと思ったのです。
ぶどう園はイスラエルを象徴する言葉ですが、広く解釈すれば「この世」のことを指しています。神様は「この世」を愛された、息子を遣わすほど「この世」を愛されたのです。それにもかかわらず「この世」を自分の所有物のように振る舞っている。私たちが手にしているものは、すべて神様から預けられているものです。何一つ私たちは、本当の意味で所有はしていない。それなのに、ぶどう園で働く農夫たちは、主人からの預かりものだという意識がまったくない。リスペクトする心がないのです。
そのような思い違いをし続けていたのが、イエス様の話を聞いていた律法学者や祭司長たちでした。イエス様はぶどう園の主人は「戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園を、ほかの人たちに与えるに違いない」。ユダヤ人だけでなく「ほかの人」つまり異邦人にも、この豊かなぶどう園という「神の国」を与えることになると述べたのです。

Ⅳ. 隅の親石

 イエス様は続けて言いました。「それでは、こう書いてあるのは、何のことか。『家を建てる者の捨てた石 これが隅の親石となった』」。イエス様は詩編の言葉を引用しました。「捨てた石」というのは、大工が家を建てるのに、こんな石では役に立たないなと思って捨ててしまった、その石が、別の所で大事な石として役立ったというのです。
この「隅の親石」の話をする時、建物の土台に据えられた角にある石「コーナーストーン」なのか、石を積んでアーチを造る時に、てっぺんに据えられる「キーストーン」だと説明する時もあります。「捨てる(ピナー)」というへブル語は「隅」とか「角」とも訳されますが、一部でリーダーや、チーフといった上長を表す意味に訳されます。「コーナーストーン」でも「キーストーン」と解釈されても間違いではないようです。どちらにしても建物を造るときに大切な役割を果たしている石のことです。イエス様はその石をご自分に譬えたのです。この石は、十字架につけられ殺された捨てられた石だが、復活して救い主となり、なくてはならない要の石となる、イエス様ご自身をあきらかにされたのです。

Ⅴ. キリストという土台に生きる

イエス様は私たちの模範です。ですから今度は、私たち自身がその石になるようにと、使徒ペトロは言いました。「主は、人々からは捨てられましたが、神によって選ばれた、尊い、生ける石です。あなたがた自身も生ける石として、霊の家に造り上げられるようにしなさい」(1ペトロ2:4-5)。私たち自身も、生きた石として用いられるようにと勧めるのです。石は一つでは要石になりません。他の石と積み重なって要になる訳です。隅の親石ですから、他の石の支えとなったり楔(くさび)となるのです。そんな大事な役割などできるのだろうか?もちろん私たちを支える要石はイエス・キリストです。キリストという生きた要石があればこそ、私たちも生きた石となって用いられるのです。
 今日は、十字架の出来事を前にしたイエス様の言葉を分ち合ってきました。野球やスポーツの世界は勝負事ですから、相手に勝つために相手を超える必要がある。しかし、私たちの模範とするイエス・キリストは越える必要がない。リスペクトすべき方、模範となる隅の親石、私たちの救い主です。イエス様に憧れをもって、模範とすれば、そこに勝利があります。そのように成り得たのは十字架の出来事があったからです。
イエス様は十字架に架けた者たちを恨んだり、抵抗することがありませんでした。相手に対抗するのではなく、その人を赦す時、人の目には「なんだ抵抗しないのか」と弱い人のように映ります。しかし、それこそが本当の強さです。叩かれた者が叩いた相手を赦す時、叩かれた者は敗者ではない、本当の勝利者となるのです。叩いた相手に対して勝利するのではなく、叩いた相手のために勝利した者となるのです。赦しは弱さではなく逆説的な効果を発揮して勝利者と成す、それが十字架の出来事です。
私たちクリスチャンは、死や悪に打ち勝ったイエス様に憧れをもち模範としています。しかし、イエス様はただ見習ったり模範とするだけに留まりません。イエス様こそ私たちが生きる力、隅の親石となって今も生きて私たちの、生きる土台となる方なのです。イエス様は無力な私たちのために、私たちができなかったことを代わりにしてくださいました。それが十字架の意味です。十字架こそが、私たちの勝利のシンボルです。
お祈りをいたします。