喜びの歌を、共にうたおう

宮井岳彦牧師 説教要約
エレミヤ書31章10-14節
ヨハネによる福音書2章1-11節
2024年1月21日

Ⅰ. 優しい奇蹟

カナの婚礼での出来事に耳を傾けています。この時主イエスがなさったしるしは、主イエスがなさった数々のしるしの中でもとりわけ主の優しいお心がこもった出来事であったと私は思います。イエスさまは優しい御方です。その愛に満ちた優しさが伝わってくる出来事です。
私がこのカナの婚礼での出来事を読むときによく思い起こすのは、ロシアの作家ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』です。あの長大な作品のとても大事な場面にカナの婚礼が登場します。主人公アリョーシャは心優しいキリスト者であり、修道士でした。長老ゾシマという修道院の指導者がアリョーシャの信仰の師匠でした。物語の中盤で、ゾシマが亡くなります。そこで一つの事件が起こった。ゾシマの遺体があっという間に腐臭を放ち始めた。当時、ゾシマのような偉大な信仰者の遺体は聖なるものだから腐らないと人々は信じていたそうです。アリョーシャもそう信じていました。ところがゾシマの遺体は腐らないどころか普通の人よりも早く腐臭を漂わせた。アリョーシャはひどくショックを受ける。尊敬する長老ゾシマの死の姿に躓きました。彼にとっては信仰が揺らぎ、神の存在さえ疑うほどの大事件でした。
ゾシマの枕頭では、修道士たちが順番に福音書を朗読していました。ゾシマの腐臭に躓いて彷徨し疲れ果てたアリョーシャは、ゾシマの遺体の側でうずくまっていました。
彼の耳にわずかながら朗読の声が入ってきます。カナの婚礼の箇所が朗読されていました。主イエスは婚礼に来てくださった。アリョーシャは思います。「なんて優しい奇蹟なのだろう。キリストは初めての奇跡を行うために、人間の悲しみではなく喜びを訪れた。人間の喜びを助けてくださった。」そして、思い出します。「人を愛する者は、その人の喜びをも愛する。」敬愛する長老ゾシマが自分にそう教えてくれたことを。少しずつ、アリョーシャの耳に福音書の言葉が入ってくるようになりました。
私はこの場面がとても好きです。この小説の中で一番好きです。愛する人や大切な人、尊敬する人の死や別れの時を私たちも経験します。その時、思わぬ事に躓いてしまうことは私たちにもあると思います。その人の振る舞いや生き方が自分の抱いていた理想と違ったり、そこで起きた出来事を受けとめきれなかったり。自分自身の信仰までおかしくなってしまうことも、私たちには起こります。ガリラヤのカナを訪れた主イエス・キリストは、そんな私たちを訪れてくださいます。アリョーシャが福音書の御言葉を聞いたとおりに、私たちを訪ねて優しい奇蹟を始めてくださいます。キリストは私たちのための喜びの御業を始めてくださっているのです。

Ⅱ. 「最初のしるし」から始まる出来事

11節に「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された」と書いてあります。最初のしるしを主イエスがなさった。そこから全てが始まりました。
1947年1月19日に高座教会は最初の礼拝を献げました。厚木基地の米軍チャプレンであるストレート先生から手渡された一冊の聖書から、新しい教会が生まれた。この地で主イエスがなさった最初のしるしが、この日付に刻まれている。
そして、もう一つの日付も皆さんに知って頂きたいのです。1976年2月1日。この日、さがみ野教会の前身、栗原伝道所の最初の礼拝が献げられました。初代牧師の濵崎孝先生とご家族、三人の礼拝でした。ここでも主イエスの最初のしるしが現されています。
主イエス・キリストが最初のしるしを現してくださって、キリストに招かれて献げる私たちの営みが始まりました。主イエス・キリストのしるしは、喜びへの招きです。主イエスは、喜びの祝いの日にとびきり上等のワインを準備してくださいました。世話役が味見をして驚いています。どんなに美味しかったのでしょう。量もすごい。2ないし3メトレテス入りの水がめが6つあった、とあります。1メトレテスで約39リットル。5,600リットルくらいでしょうか。6つの水がめに一杯の水がすべてぶどう酒に変わったのです!そんなにたくさんあって、果たして飲みきれたのでしょうか!主イエスの喜びの御業は溢れるほど、私たちの思いを越えて大きくてすばらしい。有り余るほどの喜びを、主イエスは備えてくださっています。
先ほどの『カラマーゾフの兄弟』で、アリョーシャは福音書の朗読を聞きながら幻を見ました。ゾシマが立って、アリョーシャに言うのです。「私たちもこの宴に招かれている。さあ、一緒にぶどう酒を飲んで喜び、楽しもう。」この出来事を通して、アリョーシャは再び自分の太陽であるお方、主イエス様と出会い、立ち直っていきます。
ゾシマが言うとおり、私たちは主イエスさまの宴に招かれています。主が備えてくださる喜びのぶどう酒が差し出されている。私たちは今、もしかしたら悲しんでいるかもしれません。愛する人との別れや受けとめきれない現実のために、信仰が揺らぐようなこともあるかもしれません。そんな私たちを喜びの宴に招くために、キリストは今日もご自分のしるしを現してくださっているのです。

Ⅲ. 「私の時」とは?

私たちが神様の御前で献げている礼拝。これこそがカナで主イエスがぶどう酒を整えてくださったあの宴そのものです。神に礼拝を献げる今、私たちはキリストが備えてくださった喜びのぶどう酒にあずかっていると私は信じています。
このカナの婚礼はとても豊かな出来事で、いろいろな角度からこの出来事が語る福音に耳を傾けることができると思います。今日は特に4節に集中したいと思います。「イエスは母に言われた。『女よ、私とどんな関わりがあるのです。私の時はまだ来ていません。』」読んでみると、とてもいろいろなことが気になってしまいます。なぜ、マリアという名前ではなく「母」と書いてあるのでしょうか。なぜ、母に向かって「女よ」などと、あまり普通とは思えない呼び方をなさったのでしょうか。主イエスの言葉は冷たすぎないか。主イエスがおっしゃる「私の時」というのは一体何のことなのか。疑問は尽きない。
これらの中で、問題の急所になるのは「私の時」です。主イエスの時というのは、何を意味しているのか?
ヨハネによる福音書12:27,28にこのようにあります。「今、私は心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、私をこの時から救ってください』と言おうか。しかし、私はまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」主イエスの祈りのお言葉です。「私はまさにこの時のために来た」とおっしゃっています。これは第12章にでてくる言葉ですが、第13章まで進むと、最後の晩餐が始まります。即ち、これは十字架を目前にした主イエスの祈りなのです。主イエスの時、それは十字架の時です。十字架の時のために私は来た。イエスはそのようにおっしゃるのです。
更にこのヨハネによる福音書を読み進めて、遂にいよいよ主イエスが十字架にかけられるその時。イエスが十字架にかけられているご様子を、聖書はこのように報告しています。「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『女よ、見なさい。あなたの子です』と言われた(19:26)。」ここではマリアが「母」と言われており、主は母を「女よ」と呼んでおられます。あのカナの婚礼の時と同じです。主イエスがご自分の時、十字架の時をお迎えになったご様子を見て、私たちは気付くのです。あのカナの婚礼の出来事は、十字架の時の先取りだったのだ、と。主イエスがガリラヤのカナでなさったしるしで現された栄光、それは十字架にかけられたお姿から輝く栄光です。ですから主イエスがカナでぶどう酒を準備して整えてくださった宴は、主の十字架によって初めて始まる宴会です。私たちはイエスの十字架の下で始まる喜びの宴に招かれているのです。

Ⅳ. あなたも招かれている

私は主イエス・キリストは本当にお優しい方だと思います。この婚礼のカップルは、宴の最中にワインを切らしてしまいました。準備不足だったのでしょうか。貧しくて人数分準備できなかったのでしょうか。この小さな若い夫婦の喜びの日に、主イエスは最初のしるしを現してくださいました。
主イエスの優しさが生み出す喜びの宴に、私たちは今招かれています。「最初のしるし」を主イエスは現してくださった。大和の地でも、座間の地でも、主イエスはカナで示したのと同じしるしを現してくださった。喜びの宴を始めてくださいました。私たちは今日も喜びの宴である礼拝に招かれています。私たちは今日も主イエスの喜びのぶどう酒を頂く礼拝に招かれて、神の御前にやって来たのです。主イエスはあなたのための喜びの宴を開いてくださいました。
イエスの十字架によって初めて成り立つ宴、主の日の礼拝にようこそいらっしゃいました。心からあなたを歓迎します。
お祈りします。