あなたに始まる神の出来事
ペンテコステ礼拝
宮井岳彦副牧師 説教要約
詩編84編11節
ペトロの手紙一1章1,2節
2024年5月19日
Ⅰ. 「聖霊は私にも与えられています。」
今日の9時礼拝で言い表した信仰告白は、ペンテコステということで特別にハイデルベルク信仰問答の第53問からとったものです。
「聖霊は私にも与えられています。聖霊はまことの信仰によって私をキリストとそのすべての恵みにあずからせ、私を慰め、永遠に私と共にいてくださいます。」
聖霊は神ご自身でいらっしゃって、父と子と共に礼拝される方。聖霊はこの私にも与えられている、と告白しています。これが聖霊への信仰を考えるときにとても大切なことです。この私にも、聖霊は与えられている!
今日はペンテコステ礼拝ということで、皆さんに赤い物を身につけてくださるように呼びかけられていました。赤は聖霊を象徴する色です。赤い物を身につけてペンテコステの礼拝を献げている。それは、礼拝の気分を盛り上げるためのアクセサリーではありません。聖霊が私たち一人ひとりに与えられているという事実を象徴的に表すシンボルです。聖霊はこの私にも与えられている。
それは特別な人たちだけのことではありません。すごく信仰深い人、聖書のことなら何でも知っている人、清らかなたたずまいの人…だけには特別に聖霊が降っている、ということではない。聖霊は私にも与えられています。そして、私にキリストへの信仰を与えてくださる。キリストの恵みにあずからせてくださる。私を慰め、聖霊は私たちと永遠に共にいてくださいます。聖霊なる神さまの出来事は、他でもなく私たちに起きています。あなたにも、私にも、聖霊の出来事が始まっているのです。
Ⅱ. シモン・ペトロの旅
今日から私が高座教会で主日共同の礼拝の説教を担当するときは、基本的にはペトロの手紙一の御言葉に耳を傾けます。先日の小会会議でそのように決定してくださいました。この手紙には主イエスの使徒であるシモン・ペトロの名前が冠されています。5章12節によると、実際にはシルワノという人物の助けを得てこの手紙が書かれたとあります。シルワノは教養溢れた人だったのでしょう。この手紙のギリシア語は非常に美しいと言われています。一方ペトロはイスラエルの田舎のガリラヤで漁師をしていました。恐らくペトロが話したのは母語アラム語だけで、ギリシア語は話せなかった。ペトロの福音宣教の旅には、通訳者として福音書記者マルコが同行したとも言われています。やがてそんなペトロの語る福音をシルワノがギリシア語に翻訳してこの手紙をしたためたのでしょう。
かつてシモン・ペトロはガリラヤ湖の漁師でした。ある日そこに主イエスが来て、ペトロと出会ってくださった。彼はすぐに舟も網も捨ててイエスに従いました。旅する仲間にはいろいろな人がいました。漁師の仲間もいれば、嫌われ者の徴税人もいる。そうかと思えば過激思想の持ち主までいる。バラエティに富んだ人達が、ただ一つ、主イエスにあって結ばれていた。キリストだけが絆の仲間たちです。
彼らはいつも主イエスと一緒にいました。主と共に歩む旅でした。しかしやがて、主イエスはご自分の弟子の一人に裏切られて逮捕された。その夜のうちに裁判にかけられた。ペトロは、お前もイエスの仲間だろうと言われて、「そんな男のことは知らない」と言ってイエスを見捨てました。イエスは十字架にかけられ、死んで、墓に葬られた。ペトロの旅は終わった。彼はガリラヤに帰りました。
ところが、イエスは死者の中から復活させられました。イエスはあの日と同じように、シモン・ペトロと、ガリラヤ湖で再び出会ってくださいました。ペトロの旅がもう一度始まりました。キリストの復活の知らせを福音として宣べ伝える旅へ出発した。そのためにペトロにも聖霊が与えられた。
今日のところに、ペトロはこう書いています。2節です。「霊により聖なる者とされ」。私たちは聖霊によって聖なる者とされている。ペトロは、他の誰よりも自分の薄汚れた罪深さをよく知っていた人です。聖なる者だなんて、自分といちばん遠い言葉だと、誰よりも身に染みて知っていました。しかし、ペトロは言うのです。あなたのことも、私のことも、神はご自分の霊によって聖なる者としてくださっている。聖霊は私にも与えられている。
聖なる者とは一体いかなる意味か。それを考える一つのヒントと出会いました。柳生直行というキリスト者の、英文学の先生がおられます。この先生がご自身で翻訳をなさった新約聖書が出版されています。この柳生訳聖書では、先ほどの2節のところはこのように翻訳されています。「御霊によって聖なる民にせられた」。聖なる者とは、聖なる民のことだ、と言います。意訳とも言えますが、ペトロの真意をくみ取った翻訳のように思います。自分のことしか考えず、愛する主イエスを知らないと言ってしまえる自分の汚れた有様。しかしなお神は聖霊によって私を聖なる民の一人にしてくださった。聖なる民、それは、キリストの血を注いで頂いた者たちのことです(2節)。キリストを捨てて、しかしなおキリストがもう一度出会ってくださって、再びキリストと共なる旅に連れ出して頂いた者たちのことです。キリストと共に旅をする弟子たちの群れです。この私のことも、聖霊は神の民にしてくださった。
Ⅲ. 佐々木三雄長老の旅
2014年と2015年のこと。私は米国そしてコロンビア共和国で開催されたカンバーランド長老教会の総会(GA)に出席しました。それぞれの会議後、少し足を伸ばしてブラジルを訪問しました。サルバドールから車で二時間ほど移動したところにジョタカ入植地という日系人が開拓した土地がある。そこに、マッタ・デ・サン・ジョアン教会という私たちの姉妹教会があります。私たち高座教会にとっては「ブラジル12地区」として同じ教会の枝でした。
この教会は、現在はカルロス・サントス先生というブラジル人の牧師が仕えておられます。私が訪問した当時は石塚惠司牧師が仕えておられました。初めて伺ったときか二度目のときか、石塚先生が私に、どこか行きたいところはあるかと尋ねてくださいました。それで私は先生にお願いして、佐々木三雄長老のお墓に連れて行っていただきました。
佐々木三雄長老。かつて、高座教会で洗礼を受け、信仰生活を送り、ブラジル東北部へ移住して行かれた方です。入植したジョタカという土地はたいへん痩せていて、苦労に苦労を重ねるような日々であったそうです。そんな中で、同じ日系人の子どものための日本語教育を始められた。家族で日々祈り、その祈りは周囲の人々に広まっていった。佐々木長老ご一家の祈りは、やがて、この地に新しい教会を生み出すものとなっていきました。私が伺ったマッタ・デ・サン・ジョアン教会の教会堂は、かつての佐々木家の隣に建てられています。すぐ横にかつて佐々木長老ご一家が生活しておられた家屋が残っていました。その家を拠点として、たくさんの人にキリストの福音を証しし、多くの人が佐々木長老ご一家のお働きによって信仰へ導かれました。聖霊のお働きによって、聖なる神の民がこの地に生まれたのです。
佐々木三雄長老はサルバドールの墓地に埋葬されました。佐々木長老がどのような思いで生きてこられたのか、どのような労苦があり、痛みがあったのか、私には計り知れません。一つ確実なことは、佐々木長老ご一家があの地へ旅をし、その場所でもなお信仰の旅を続けたからこそ、たくさんの人が聖なる神の民に加わっていった、ということです。キリストの血を注がれたたくさんの人々は、佐々木長老の主イエスと共に歩む旅に神が与えてくださった実りです。そうやって旅を全うされた方がブラジルの地に葬られているのです。この地で主と共に歩む旅を全うなさってのことです。
Ⅳ. 旅人は、仮住まいの滞在者
1節に「滞在してる」と書いてあります。新共同訳聖書では「仮住まい」と翻訳していました。どちらもよい翻訳だと思います。私たちは、この地では仮住まいの身、滞在中に過ぎません。それは、ペトロだけのことではありません。佐々木長老だけの話でもありません。主イエス・キリストと出会って、このお方を信じる人は、誰もがこの地では仮住まいの滞在者。私たちは旅する聖なる民の一員です。私たちはキリストと共に旅をしているのです。
そうであるからこそ、こうして集まって神を礼拝するというのは大切なことです。神が私たちを礼拝する民、ご自分の聖なる民にしてくださいました。そのためにキリストの血を注いでくださいました。
この旅には、一緒に歩むたくさんの同伴者がいます。共にキリストとの旅を歩んでいる仲間です。神が私たちをこうして聖なるご自分の民の一員にしてくださったのです。共に生きること。共にキリストの恵みを味わうこと。共にキリストの平和を喜ぶこと。それが大事ではないでしょうか。私たちは聖霊のお働きによって、共に一つの聖なる民だからです。
そのために、神はご自分の霊を与えてくださっています。あなたも、私も、主イエス・キリストと共に歩む旅へ、今、招かれています。