生ける希望、ここにあり

宮井岳彦副牧師 説教要約
詩編139編7-12
ペトロの手紙一1章3,4節
2024年6月16日

Ⅰ.溢れる賛美の心を、私たちも

私は礼拝が好きです。神さまを礼拝することは私にとっては喜びです。聖書朗読の前に「心を高くあげよ!」という讃美歌18番を歌いました。第二節でこのように歌います。「霧のような憂いも 闇のような恐れも、みな後ろに投げ捨て 心を高くあげよう。」本当にそうだなと思います。神を礼拝し、神に賛美を献げると、心を高く引き上げられます。私は毎日の暮らしのために右顧左眄(うこさべん)し、心はすぐに怒りや不安でいっぱいになってしまいます。思い煩いで占められてしまう。しかし、神を礼拝するとき、心があげられる。見るべきものに目を注ぐことができる。そうやって、私は初めてあるべき私になれると信じています。神を礼拝するとき、私は新しくされる。
私たちは礼拝を献げるときに必ず賛美の歌をうたいます。神を賛美します。礼拝でうたう讃美歌が好きで教会に来ているというかたもおられるのではないでしょうか。今日私たちに与えられている聖書の御言葉は、「賛美」から始まっています。「私たちの主イエス・キリストの父なる神が、ほめたたえられますように。」(3節a)学者たちがペトロの手紙を研究した報告を読んでみると、口をそろえて同じように言っていました。賛美から始まるペトロのこの言葉は、当時の手紙の始まり方としては定型表現だ。しかし、ペトロの手紙のこの部分は単なる定型表現を超えている、というのです。単に決まり文句として、私たちが時候の挨拶から手紙を始めるように書いたわけではない。ペトロの溢れるような賛美の心が、この手紙の言葉から聞こえてくる、というのです。
それは私たちも同じではないでしょうか。私たちも神さまからの招きの言葉を頂いて礼拝に出席しています。神が私をここに招待してくださった。その神さまの招きに応えて、私たちは神に賛美を献げて礼拝する。その賛美の歌は、単なる決まり切った歌ではない。私たちは心から賛美を献げている。今朝も、私たちはペトロと同じようにそういう経験をしながら神を礼拝する喜びにあずかっているのではないでしょうか。

Ⅱ. 教会はどのようなときにも神を賛美し続ける

キリスト教会は神を賛美することで神を礼拝し続けて来ました。2000年間、どのようなときにも神を礼拝し続けてきました。私たちもそうです。コロナのときにも神を賛美しました。集まって声を出すことが難しい日もありました。しかしキリスト者達が神に賛美を献げることそのものをやめたわけではありません。或いは今年の1月に能登半島で地震がありました。私の神学校時代の友人が石川県小松市で牧師として仕えています。あの地震の後、輪島や珠洲のために支援の活動をしています。彼が地震の後10日ほど経ったところでこのような報告をしていました。輪島教会は会堂が倒壊した。牧師や数名の信徒が避難所で生活している。1月7日、日曜日、この輪島教会の牧師と信徒が数名集まって、避難所で一緒に詩編を読み、賛美と祈りを献げた。地震にも賛美を止めさせることはできませんでした。
ペトロ自身も、この手紙を最初に受け取った教会の人々も、平穏無事な毎日を送っていただけではありません。6節を見ると、今しばらくの間、あなたたちはさまざまな試練に悩まなければならないと言っています。試練に遭っていた。時代を考えても、キリスト教会に対する迫害がどんどんひどくなっていました。仲間たちが命を落としている。しかし、そのようなときにも彼らは神をたたえました。「私たちの主イエス・キリストの父なる神が、ほめたたえられますように。」
私たちも同じです。私たちも、病床にある仲間、兄弟姉妹を見舞って、一緒に神を賛美します。病院で歌うことができない状況であっても、詩編を読んで神への賛美の心を合わせます。それどころか、キリストの教会は葬式のときにも神を賛美します。悲しみの淵にいても神を賛美する。それは、主イエス・キリストの父なる神が私たちに生ける希望を与えてくださったからです。

Ⅲ. 洗礼の恵みに生かされて

生ける希望とは一体何か?聖書は言います。「神は、豊かな憐れみにより、死者の中からのイエス・キリストの復活を通して、私たちを新たに生まれさせ、生ける希望を与えてくださいました。」(3節b)キリストの復活を通して、神が私たちを新たに生まれさせてくださった。それが神の下さる生ける希望です。生ける希望、それは朽ちず、汚れず、消えることがない。
改革者マルティン・ルターが自分の最期を迎えるにあたって、このような祈りの言葉を遺しています。
「わたしたちの愛する主イエス・キリストの父、永遠の、憐れみ深い全能の主なる神よ。あなたは言われたことはすべて実行し、また実行できるとわたしは確信しております。なぜならあなたは嘘を吐きません。あなたのみ言は真理だからです。最初にわたしにあなたの愛する永遠の御子イエス・キリストを与えてくださった。キリストは来て、悪魔、死、地獄、罪からわたしを解放してくださった。御心から洗礼と祭壇のサクラメント〔引用者注:聖餐のこと〕を贈ってくださり、大いなる確信を与え、それにより罪の赦し、永遠の命、天のすべての財を提供してくださった。あなたの提供されたこれらを用い、信仰においてみ言にしっかりと寄り縋(すが)り、受け入れた。それゆえ悪魔、死、地獄、罪に対して確信し、満足していることをいささかも疑わない。今、わたしの最後の時に、それが御心ならば、あなたのみ言を喜んで受け入れ、この世から従容(しょうよう)として去って行きたい。」(『卓上語録』より)
すごい祈りです。死を前にして、静かにそれを受けとめています。キリストが悪魔と死と地獄と罪から私を救ってくださったことを信じています。そのことをルターが信じているのは、洗礼と聖餐というしるしを与えられているからです。罪の赦しと永遠の命への確信を、洗礼と聖餐によって確かにされたのです。
なぜなら、キリストはただご自分のために復活したのではなくて、私たちのために復活なさったからです。夜の闇が徐々に白み始めるように、新しい時が訪れた兆候として、キリストが復活した。だから、キリストの復活が私たちの誕生日になったのです。神が私たちをキリストの復活によって新しく生まれさせた。
「神は、豊かな憐れみにより、死者の中からのイエス・キリストの復活を通して、私たちを新たに生まれさせ、生ける希望を与えてくださいました。」この「新たに生まれさせ」という言葉は、洗礼を指しているようです。キリストの復活によって私たちに神が与えてくださった命のしるしとして、洗礼が授けられた。洗礼を受けた者は、実はもう既にキリストの下さった命に生きはじめている。ですから私たちも、自分の心に語りかけてよいのです。「私は洗礼を受けている、洗礼を受けているではないか」と。私たちは不確かです。試練の時、ゆれ動いてしまいます。苦しみや悲しみの中で確かに居続けることはなかなかできません。しかし私が不確かでも、洗礼というキリストがくださったしるしは確かなのです。

Ⅳ. 神は生きておられます

キリストは死者の中から復活しました。神は生きておられます。私たちは神の御手の内にあります。これ以上に確かで、絶対に揺らぐことのない希望があるでしょうか。
私たちがこれまで生きてきて積み上げてきたものや、私たちの愛する人との尊い関係も、私たちにとってはかけがえのない希望であるかもしれません。しかし同時に、私たちはときにそれらの無力さにも直面させられます。どんなに深い愛にも及ばないことは起こる。しかし、キリストは今生きておられます。洗礼を受けた人は、このキリストの復活の命にあずかっているものとして、自分の死を見つめることができます。平安の内にこの世から去ることができる。
私たちはまだ旅の途上にありますから、揺らぎます。不安や悲しみに覆われてしまうこともあります。しかしそれでもキリストが今生きておられるという福音は絶対に揺らぐことがありません。だから、大丈夫です。これまで私たちが礼拝の度に耳にしてきた福音の言葉は、この一事をひたすら語るものでした。「神は生きておられる!私たちは神の御手の内にある。」キリストの復活の福音に支えられて、今日の私たちも確かにされています。生きているときにも、死ぬときにも、私たちはキリストのもの。この希望を確かなものとしてくださる神に賛美を献げるために、私たちは今神を礼拝しているのです。