イエスの友 ニコデモ
和田一郎牧師 説教要約
2024年6月23日
民数記21章4-9節
ヨハネによる福音書3章1-15節
Ⅰ.はじめに
イエス様の最初の弟子たちは漁師や徴税人など無学な普通の人たちでした。ところがある日の夜、12人の弟子たちとは趣きの違う男がイエス様のところへやって来ました。ニコデモというファリサイ派に属する人でした。ファリサイ派は、当時のユダヤ人にとっての聖書(旧約聖書)に精通していた人たちで、宗教的な指導者でした。彼は議員であったとも語られています。宗教的にも政治的にも高い地位にいた人だったわけです。イエス様の弟子たちとは随分違う立場の人でした。そのニコデモがある日、イエス様を訪ねて来たのです。それは夜でした。目立たないようにこっそりと来たのです。そしてイエス様に「先生」と呼びかけました。「先生」とは律法の教師のことです。イエス様を律法の教師の一人として尊敬をもって呼びかけたのです。それは、イエス様のなさったしるしを知っていたからです。過越の祭りの期間、イエス様がなさったしるしを多くの人が見ていてニコデモはまさにその一人だったのです。ところがニコデモが所属するファリサイ派の人々は、そうではありませんでした。イエス様の「宮清め」の出来事がありその騒ぎを見ていたファリサイ派の人々はイエス様を、危険人物とみなしていました。そのイエス様に会って話をしたいとニコデモは思ったのです。
Ⅱ . やって来たのは「夜」だった
イエス様はニコデモに「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と話されました。しかし、その意味がニコデモには分かりませんでした。「もう一度、母の胎に入って生まれることができるでしょうか」と返すようにまったく分りません。なぜ分からなかったのでしょう。そのヒントはイエス様の言葉にあります。7節「『あなたがたは新たに生まれなければならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。」という言葉です。
人々から尊敬を集め、権威と、聖書解釈にたけていたニコデモはイエス様の言葉に驚いたのです。驚いて理解できなかったのです。「新しく生まれる」ということが、ファリサイ派であり、権威ある議員である自分に必要であるということに驚いたのです。「新たに生まれ変わる」必要があるのは、ユダヤ人以外の異邦人。ギリシャ人などの外国人は、神様に受け入れられるためにユダヤ人に生れ変わる必要があり、割礼を受けて、律法を守ってユダヤ人になる必要があるとは思っていました。しかし、それが自分に求められるとは思っていなかったのです。
Ⅲ . 水と霊によって
そして、イエス様は言いました「誰でも水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(5節)。「水」と「霊」つまり洗礼を意味しています。水によって罪を洗い清められ、神の霊によって新たに造りかえられる出来事、それが洗礼の意味です。
さらに6節「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」
「肉から生まれたもの」とは、元々の生まれつきの人間です。生まれつきの、人間はどこまで行っても肉なのであって「水」と「霊」による洗礼によって新しく生まれた者だけが、聖霊のことが分かるのです。石や木で作った彫刻やお守りではなくて、目には見えない霊である神様を神と信じることができるのです。その聖霊とは風に例えられるのです。風というのは吹いていることは分っていても目に見えません。それに風というのは人間がコントロールできないものです。その主導権は神様にあります。イエス様とニコデモが語り合っていたこの夜も、きっと風が吹いていたのだと思います。夜風を感じながら話していたのではないでしょうか。この「風」という言葉には、息とか霊という意味があります。また音という言葉には声という意味もあります。目には見えないし、予測できない、また私たちの努力とも関係なく、確かに生きて働いておられる神の霊が、風のように私たちに語りかけて下さり、私たちを新しく生まれ変わらせて下さるのです。
Ⅳ . 青銅の蛇と十字架
それでもまだ、ニコデモは「どうして、そんなことがありえましょうか」(9節)と問い返します。イエス様は、やがてニコデモが見ることになる、十字架の意味について語ります。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」と。
かつて出エジプトの出来事で、イスラエルの民は荒れ野の中で神に対して不満をつぶやきました。すると炎の蛇にかまれ、多くの死者を出しました。モーセは青銅で炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げました。蛇にかまれても、この青銅の蛇を仰いだ人は命を得たと言われています。イスラエルの人々にとってあの青銅の蛇は、それを見ることによって裁きを免れ、新しく命を得ることができたという恵みのしるしなのです。高く上げられた蛇は、イエスが十字架に高く上げられることを現わしているのです。
こうして、イエス様と語り合っていくうちに、ニコデモは身の前にいる方がメシアであると確信していきました。この時にすべてを理解したということではないでしょう。イエス様をメシアと信じるには、弟子たちよりも時間がかかりました。時間がかかってもいいのです。
ニコデモは、「夜」に来ました。それは昼間に来るほどの信仰と勇気がなかったからです。ところがこの同じニコデモが、後には白昼堂々とユダヤ人の議会において、イエス様のことを弁護したのです。さらに、イエス様のなきがらを葬るために勇気を出してアリマタヤのヨセフを助けたのです。
Ⅴ . 信仰の足かせ
1節に「ニコデモと言う人がいた。ユダヤ人たちの指導者であった。」と書かれています。あえてニコデモが「指導者であった」と記しているのは意味があることだと思います。それはニコデモの名誉というよりも、むしろそれが彼には足かせとなっているということです。指導者、議員という役職が、一信仰者としてキリストのところに行くことを妨げてしまったのです。昼間に行けなくて、夜になってこっそり行った。こっそりでも会いに行ったのですから、この人は謙虚な人だといえるのです。しかし、それだけではなく、「新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」という言葉を、自分に当てはめることができなかった。それは他人がすることであって、自分はきちんとしているのだから、神の国に入る資格があるだろう。その思いが、イエス様の言葉の意味を受け入れる足かせとなっていたのです。真理を理解する妨げになっていたのは、指導者、議員、そしてファリサイ派の一員だという誇りです。聖書は、そのことを警告しているのです。そこから私たちは、学ぶべきことがあるのです。この世で権威をもつ人は、何かに所属する者は、サタンの罠に巻き込まれないように警告しているのです。
おそらく、このニコデモも12人の弟子とは違う方法ですが、主イエス・キリストを証しする人となったのではないでしょうか。最初の弟子たちは無学な普通の人たちでした。しかし、ニコデモのような知恵と権威のある人もイエス様に従ったのです。しかし、知恵のある人、自分は人より優っているという自覚のある人は注意しなければいけません。
「主は言われた。「行って、この民に語りなさい。『よく聞け、しかし、悟ってはならない。よく見よ、しかし、理解してはならない』と」(イザヤ 6:9)
聖霊なる神がその自由なお働きによって、私たちを新しく生かして下さいます。私たちは悟らず、理解せず、主のみ言葉をよく聞き、理解しなければいけません。風のような聖霊に、満たされ、委ねて、私たちを新しく生かしていただきましょう。
お祈りをいたします。