イエスは止まり イエスは進む

荒瀬牧彦牧師 説教要約
哀歌3章22-33節
マルコによる福音書5章21-43節
2024年6月30日

Ⅰ. 進むイエス

主イエスが進んでいきます。会堂長のヤイロが、足元にひれ伏して「私の幼い娘が死にそうです。どうか、お出でになって手を置いてください」とすがってきたのです。会堂長という公的な立場を考えれば、ファリサイ派や律法学者たちの嫌悪する放浪説教者を家に呼ぶなんて、ためらわれることです。でも、愛する娘のいのちがかかっている今、メンツなんてどうでもよい。本当に頼れる存在に頼るしかない。だからひれ伏したのです。イエス様は群衆に囲まれているという状況でしたが、このような切実な求めを放置できる方ではありません。だから道を急ぎます。
その足が急に止まりました。何かが起こったようです。立ち止まり、振り返り、「私の衣に触れたのは誰か」と問うのです。弟子たちはあきれます。「いやいや、これだけ大勢の人が押し寄せているのに誰が触れたかなんて無茶なことを!」というわけです。しかし足は止まったままです。自分のうちから力が出ていったことに気付いたからです。うちにある力が誰かのところへ向かっていった・・・。おそらくそのような感覚は、神の国の福音を人々に告げる時や、誰かに手を置いて癒される時、悪霊から人を解き放つ時などに経験しておられたことでしょう。それが今、イエス様の意志を越えて起こった。誰かがそれを引き出したのです。だからイエスは足を止めます。
突然現われた誰かの厄介な頼みごとに巻き込まれ、自分の計画が妨げられそうになったらあなたはどうしますか。苛立つ。怒る。無視する。私は、牧師という人に関わる仕事をしていながら、そんな反応をしばしば取ってきたなと思います。でもどうなのか。そのような態度で、急いで道を進み、予定通り業務が遂行できたとして、それで福音の働きができたと言えるのか。「我々は神によって我々の仕事を中断させられる用意がなければならない。神は我々に、要求と願いをもった人びとを送り給うことによって、常に繰り返して、日毎に、我々の計画を妨げ給う。」(ボンヘッファー『共に生きる生活』)。イエス様はまさにそのようにして、この中断を受け止めたのです。我らの救い主は、そういう方なのです。

Ⅱ. 止まるイエス

イエスの足を止めた人がいた!その人へと目を向けましょう。その人は、「汚れ」とされる病気になって12年苦しんできた人でした。しかも、出血のある病気で「陰部からの漏出による汚れ」を帯びている人とされて、社会の隅に追いやられてきたのです。レビ記15章に、「女が月経でもないのに、幾日も血の漏出があり、月経が済んでも漏出するなら、その漏出の汚れの間は、月経と同じように汚れる。彼女は汚れている。・・・彼女が腰かけるものはすべて、月経の汚れと同じく汚れる。それに触れた者も汚れる。・・・その者は夕方まで汚れる」とあります。もともとは女性を守る人道的理由から定められたのでしょう。しかし、「あなたは今日も汚れている」、「あなたに触れたら私も汚れる」と12年言われ続けたらどうでしょう。
元々は財産を持っていた人でした。しかし「多くの医者からひどい目に遭わされ」たというのです。むしり取られただけでした。もはやお金はない。何もない。誰も自分に近寄ってはこない。
自分がそういう立場に置かれたらどうか。自分には他の人と同じように生きる資格はないのだ。人としての尊厳などもうない。自分なんか生きても死んでも同じだ。そう人生を投げてしまうのでは?

Ⅲ. 彼女の尊厳

しかし彼女は、そう思いませんでした。すごいことです。イエスのことを聞いた時、そこに自分の未来をかけようと決心するのです。「汚れ」の規定に縛られていますから、ヤイロのようにその方の前に出て願うことなどできない。できることは何か。群衆の中に紛れ込むのだ。人ごみにまぎれて後ろから手を伸ばしてその人の衣に触れるのだ。それが自分のできる最大限のこと。
この方は私を救うことができる。その一念です。その一念から衣に手を伸ばした女性のタッチが、イエス様から神の力を引き出します。イエス様とはそのように「力を引き出される」方であり、ある意味、引き出す人間を求めているのです。あの女性はそれをしました。そして神の国がそこに現出したのです。
イエス様は振り向きます。見回します。誰がそれをしたのか特定しようとします。その人と出会いたいのです。語りたいのです。でも彼女はうろたえます。規定を逸脱したのです。私だったら、雑踏にまぎれて逃げてしまったかもしれないと思います。でも彼女は逃げませんでした。震えながらも進み出ました。ひれ伏しました。すべてをありのままに話しました。彼女は逃げない人なのです。
イエス様はそんな彼女に言われます。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と。「娘よ」という呼びかけが胸に響きます。「神さまに愛されている大切な娘だ」と言ってくれているのです。そして「あなたの信仰」があなたを救ったと。主は彼女のうちに信仰を見たのです。これは、いわゆる神の教理的理解ということではないでしょう。ご自分にすべてを掛けてきたその信頼、その信実、その本気。周りの人たちは、これが信仰かと心の中で非難したかもしれません。しかし、イエスがそれを信仰として受け止められたのです。
主イエスは足を止め、彼女に向き合いました。彼女の尊厳がかかっていたからです。この箇所を理解するのに、尊厳という言葉を使いたいと思います。彼女は自分の尊厳を捨てていなかった。社会は彼女の尊厳を損なっていた。認めていなかった。しかしイエスは足を止め、神の娘としての尊厳を取り戻し、祝福して送り出した。それがここで起きた出来事です。
アルノ・グリューンというドイツ生まれのユダヤ人の精神分析医が『従順という心の病い』という本の中で、「従順」の破壊的、否定的な面を論じています。従順とは我々の文化に内在する問題だ、と彼は論じます。「不従順な人間だ」という不安が、自分を抑圧者に従わせようとするのです。その結果、我々は抑圧者と結びつき、抑圧者の暴力や侮辱を、愛と取り違えてしまう・・・。我々の文化は、固定化された慣習がそれを反映する従順へと私たちをそそのかし、権威に疑いを持たないように仕向け、あらかじめ方向づけられた計画や思考に献身するよう誘導し、最終的に、自分で考え、自分で判断することを不可能にする、と彼は言うのです。キリスト教という宗教も、そのような意味での従順を信徒に強いてきたのではないか、と考えさせられます。
その本をふまえて今日の箇所を読むとこう思わずにおれないのです。12年間「汚れている」とされてきたあの人が、当時の「従順」を守っていたらどうなったのか。社会が求め、親に仕込まれ、宗教の枠が強いてきた「従順」。それを守れば、イエス様に接近する、その衣に触れることなど想像することさえできなかったのではないか。あんな出来事は起こり得なかったのは確かです。しかし彼女はそんな心の病いにかかっていなかったのです。しかし、彼女という人間に尊厳を与えてくださった神様のご意志には従順であった、ということができます。足を止め、振り返るイエス様には従順だったのです。そしてイエス様はそれをこそ「信仰」と呼ばれたのです。そして彼女の尊厳を守ってくれたのです。

Ⅳ. ヤイロ

そして、イエス様は再び道を進んでいきます。実はストップの圧力がかかっていたのです。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及びませんよ」とヤイロの家の人が言いに来ていました。言葉は丁寧ですが、「もう死んでしまったのだから終わりだ。来るのが遅い!」という非難が感じられますし、「ヤイロさまは娘のことだからと血迷って、こんな変な奴を家に連れ込もうとしていたけれど、そんな恥辱を避けられた」という思いもあったかもしれません。要するに「来るな」ということです。
しかしイエスは進みます。冷笑があろうと嘲り(あざけり)があろうと、イエスを止めることはできません。12年長血を患った女性の尊厳を守るイエスは、12歳の少女を立ち上がらせるイエスです。「タリタ、クム。少女よ、さあ、起きなさい!」。主がいのちへと少女を呼び戻します。復活の主の力が12歳の少女に注がれます。そこには、自分の社会的立場をかなぐり捨てて主イエスにひれ伏したヤイロの尊厳もかかっていたのです。一人の尊厳のために立ち止まるイエスは、いのちと尊厳のために進むイエスとなるのです。
旧約聖書・哀歌の言葉(3:31以下)が主イエスを通して聞こえてきます。
主はとこしえに拒まれることはない。たとえ苦しみを与えても、豊かな慈しみによって憐れんでくださる。人の子らを辱め、苦しめるのは御心ではないのだから。
主は見ておられないとでも言うのか!地のすべての捕らわれ人をその足の下に踏みにじり、いと高き方の御顔の前で人の権利を奪うのを、その訴えを不当に扱うのを!