主の恵みの年

和田一郎副牧師 説教要約
2024年7月7日
イザヤ書61章1-4節
ルカによる福音書4章16-30節

Ⅰ. ガリラヤ宣教の始まり

 弟子たちを呼び集めて宣教の働きをスタートしたイエス様の宣教活動は、大きく分けると神殿のある都エルサレムと、地方の田舎にあるガリラヤです。マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書では、荒れ野で試練を受けた後、宣教の公生涯をガリラヤ地方でスタートしたことが語られています。なぜ、ガリラヤという地方で宣教をされたのか?それはイザヤ書の預言の成就であることがマタイの福音書4章に記されています。そこには、「異邦人のガリラヤ 闇の中に住む民は 大いなる光を見た。死の地、死の陰に住む人々に光が昇った。」(マタイ4:15-16)とあります。かつてガリラヤはアッシリアによって強制移住されてきた異邦人の血が混ざり、民族としての純粋さが失われたからです。
イエス様が宣教を開始された場所はこのガリラヤでした。12人の弟子たちを宣教のために派遣した時、「イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」(マタイ10:6)と異邦人のガリラヤという扱いをされなかったのです。
 ガリラヤ宣教を始めると、諸会堂で称賛を受けられた。そして故郷ナザレの町に入られたのが今日の聖書箇所です。

Ⅱ.  「今日」実現したこと

 「それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとしてお立ちになった」(ルカ4:16)とあります。「いつものとおり」とは安息日に会堂で礼拝することを習慣としていたことです。この礼拝で、イエスが聖書を朗読しようとしてお立ちになると、預言者イザヤの巻物が渡されました。イエス様が朗読されたのはイザヤ書61章1-2節のみ言葉でした。
「主の霊が私に臨んだ。貧しい人に福音を告げ知らせるために 主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは 捕らわれている人に解放を 目の見えない人に視力の回復を告げ 打ちひしがれている人を自由にし 主の恵みの年を告げるためである。」
聖書の朗読が終わると、イエス様は席に座られました。人々はイザヤの預言についての解き明かしを期待していたのではないでしょうか。
会堂にいるすべての人の注目を浴びながらイエス様は「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」と語りました。これはイザヤ書の解き明かしではありませんでした。イザヤ書の預言が成就したと宣言されたのです。つまり、今日、貧しい人に福音が告げ知らされ、捕らわれている人が解放され、目の見えない人には視力の回復が告げられ、打ちひしがれている人を自由にされる時が来た。
「主の恵みの年」とは救いの預言の成就。救い主の恵みが、今日あなた方が私の言葉を耳にしたことで成就したという宣言です。イエス様がここにおられ、イエス様の口から直接、御言葉が語られた時に預言が成就したというのです。旧約の時代に預言者たちが待ち望み、世界の民が求め続けてきた救い主が、今日、目の前に立っておられ、ご自身からその恵みを宣言してくださっているのです。

Ⅲ.  驚きから軽蔑へ

 しかし、今日、この聖書の言葉が、あなたがたが耳にしたときに実現したと言われても、聞いた人たちが「ああそうだ、その通りだ」と受け止めなければ、その人にとっての恵み、解放、自由の実現とはなりません。
ナザレの人々は、どうだったでしょう。彼らは「驚いた」とあります。イエスを褒め、その口から出る言葉に驚いたのです。しかし、彼らは気づいたのです。イエスがヨセフとマリアの子で、ベツレヘムの馬小屋で生まれたことも、大工の息子として育ったことも、家族がどんな人であるかも知っているのです。けれども、まさしくその知っている事が妨げとなって、この大工の子イエスが真の救い主として、宣言されたことを分からなくしてしまっているのです。あの貧しい家の大工の倅(せがれ)が、なぜ救い主のように振る舞うのか?もし救い主だったら、今の自分たちの苦しみを解放してから言ってくれ。人々はそのように思ったのです。

Ⅳ.  預言者エリヤとエリシャ

 さらにイエス様は、旧約聖書に記されているエリヤとエリシャの話を続けます。
二人はイスラエルの預言者でした。しかし、イスラエル以外の他の国へ遣わされたり、異邦人の将軍を癒したりすることがありました。つまり、エリヤとエリシャの話は、自分たちこそ神の民であり、神の救いに与るのだと思っている人々には救いが与えられず、むしろイスラエルの人々が異邦人として蔑(さげす)んでいる人々に救いが与えられたという話なのです。
それと同じことが、今このナザレで起っていると。さらに、イエス様が故郷で受け入れられなかった事は、イエス様がやがて、イスラエルの中心地エルサレムで十字架に架かられるという形で、イスラエルに拒まれることを予見させているのです。
それは、現代を生きる私たちに向けられたメッセージでもあります。自分たちだけの救い、自分たちは特別という選民意識の隣に、救いに与っていない、人との関わりを失っている地域の人たちがいるはずです。福音というのは「キリスト」という救い主が、すべての人の救い主として来られたという「良い知らせ」のことです。救いに与れないと思われていたガリラヤの人、異邦人、そして私たちの周りにいる異質の他者にとって「良い知らせ」のことです。しかし、それを喜べないという性質が私たちの中にあるのです。

Ⅴ. 崖っぷちに立たされる

 エリヤとエリシャの話を聞いたナザレの人たちの怒りは爆発したのです。イエス様の言葉に対する驚きは殺意へと変わり、まさに崖っぷちに立たされました。
私たちは、異質の他者を受け入れられないという欠けがある一方で、異質な他者だとして受入れてもれえないという現実にも直面します。意見が違う、やり方が違う、ちょっと普通じゃないと受け入れてもらえないという現実です。
分断の時代と言われています。自国優先主義や自己中心的な考えが世界中に広がって、移民の人々をはじめとして異質の他者を排除しようとする考えが広がってしまいました。そうした中で、私たちも、イエス様のように崖っぷちに追い込まれるということがあるのではないでしょうか。
その時、イエス様は、どうされたのでしょうか。「イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた」(ルカ4:30)とあります。その場で抗(あらが)うこともなく、戦うこともなく、人々の間を通り抜けて先に行かれたのです。そして、そこからガリラヤ宣教は始まります。神様の計画は止まることなく前進していくのです。
今日の聖書箇所で、イエス様の故郷ナザレの人々は、「何だ、いつも大工仕事をしていたイエスではないか」と、イエス様のことをよく知っていることが躓(つまず)きとなりました。慣れ親しんでいるがゆえに受入れられなかったのです。
私たち信仰者は「福音」を聴くことに慣れてしまいがちです。イエス様のことを知ったつもりになっているとすれば、それが躓きとなることがあるのです。イエスを理解したつもりになりなって、「もう十分だ、崖から突き落とそう」という過ちに陥りやすいのです。
 しかし、そのような私たちの思いがあっても神様の計画は進んでいきます。イエス様は奇跡を現わし、宣教し、十字架へと進んで行かれました。こうして「福音」という主の恵みの時が与えられたのです。その恵みを受け取っていきましょう。