永遠の命に至る食べ物
河野豊神学生 奨励要約
2024年7月14日
イザヤ書55章1-3節
ヨハネによる福音書6章26-33節
Ⅰ. 私たちの「からだ」は食べたものによってできている
私が聖契神学校に入学するまで、そして入学して以降も、本当に様々な神様の導きがありました。忙しい毎日の中で主の恵みを感じる日々を送れることは、主の憐れみだと感じています。私には妻がおりますが、彼女は多くの点で私をサポートしてくれています。妻が料理をするとき、よく言っている言葉があります。『私が作ったご飯であなたの身体はできているから、きちんとしたご飯を作りたい。』 本当にありがたい言葉です。
「私のからだは、食べたものによってできている。」このフレーズは、よく聞くものかもしれません。しかし、それがとても重要であることを、私たちは意外と意識していないのではないでしょうか。私たち人間は「何を食べるか」によって、健康にも不健康にもなります。そして「何を食べるか」の選択は、「どんな『からだ』を目指しているか」によっても、違ってくるでしょう。例えば、プロのアスリートを目指すのか、モデルさんのような美しさを目指すのか。あるいは、赤ちゃんのようにまだ大人の食事が食べられない場合に何を食べるのか、病気を患っている人が健康になるために何を食べるのか。これも大切なことです。
「何を食べるか」という問題は、私たちの人生に、実は深く関係しているのかもしれません。その人が目指している「からだ」になるために、あるいは今の「からだ」が健康であるために、最も適したものを「食べる」ことが必要になってきます。それでは、主なる神様を信じるクリスチャンは、何を「食べる」ことが望ましいのでしょうか?
Ⅱ. 「朽ちるもの」と「朽ちないもの」
ヨハネによる福音書6章26~33節は、五千人に食べ物を与えた翌日の出来事を伝えています。不思議なみわざに感動した群衆は、翌日になって、イエス様を捜し始めます。この時すでにイエス様と弟子たちは湖の反対側に移動していました。そのことに気付いた群衆は、ガリラヤ湖の反対側まで舟で追いかけます。そして湖の反対側で、群衆はイエス様を発見します。
この群衆は一見すると、とても信仰熱心な人たちのように思えます。しかし実際には、それが見かけだけの行動であることが分かります。また、イエス様と群衆とのやり取りには驚くほどすれ違いが起こっていることにも気付かされます。それはなぜでしょうか?
一つには、群衆が見ていたものとイエス様が見ていたものがあまりにも違っていたから、と言えます。群衆たちが「見ていた」ものを、イエス様はよくご存じでした(26節)。群衆は、イエス様について行けばこれからもパンを食べさせてもらえると期待していました。彼らが見ていたのは、自分たちの欲望でした。27節の「朽ちる食べ物」とは、言い換えれば「目に見えるパン」「前日に群衆のお腹を満たした、あのパン」のことです。しかし、それは放っておけばすぐに朽ちていき、また、一度食べてしまえば失われます。一時は満足しても、またすぐに空腹に支配され、絶えず探し求めなければならないのです。
イエス様は、「朽ちる食べ物」ではなく、「いつまでもとどまって永遠の命に至る食べ物」を求めよ、と仰います。この「食べ物」はいつまでも「とどまって存在するもの」で、御子イエスを通して与えられる「永遠の命に至る食べ物」です。
群衆は、その「朽ちない食べ物」を知りませんでした。それはどんなに知恵のある人でも、たどり着くことができないものでした。私たちがそれを知っているのは、神の御子であられるイエス様が天から降りて来てくださり、教えてくださったからです。御子イエス・キリストを通してしか、「永遠の命に至る食べ物」を見つけることはできないのです。
Ⅲ. 「命のパン」であるイエス・キリスト
35節でイエス様は、いつまでもとどまって永遠の命に至る食べ物とは「命のパン」であり、イエス様ご自身のことを指している、と仰います。また、33節に『神のパンは、天から降(くだ)って来て、世に命を与えるものである』とある通り、イエス様は天から降って来て、人となられたお方です。そのお方が、十字架上でご自身を与えることによって、永遠に生きておられる神様と共に生きる永遠の命を、私たちに与えてくださいました。「裂かれたパン」は、私たちを養ってくださいます。その「命のパン」を食べるとき、喜びと楽しみが私たちに約束されていることを知るのです。
イザヤ55章1~3節では、主なる神様は「私のもとに来て、良いものを食べなさい」と呼びかけておられます。その「良いもの」は、代価を払うのに十分な価値のあるものです。しかし主は、それを無償で与えてくださいました。主のみもとで「良いもの」を食べるとき、私たちの魂は生きるのです。それは、単に内面的な心の問題だけにとどまらない、人間存在の全てが満たされることを意味しており、神とともに生きる「永遠の命」の喜びに満ちあふれています。
イエス様ご自身とともに生き、イエス様のみことばに聞き従って生きること。それが「命のパン」によって養われる生き方であり、それは私たちの「からだ」を造り上げる糧となり、命となります。「食べるものによって、私たちのからだがつくられる」。だからこそ、私たちは「何を食べるのか」にこだわる必要があります。それは、「神のかたち」としての人間の生き方であり、目に見えるもの、朽ちて過ぎ去ってしまうものに執着するのではなく、ただひたすらに、イエス様ご自身を追い求めていく生き方です。
それを実現するのは、難しいことのように聞こえるかもしれません。でも、私たちのうちに、そして教会のただ中に聖霊なる神様が臨在し、絶えず導いてくださることによって、私たちはみことばに聞き従う生き方ができるよう、変えられていきます。必要なすべてのものは、すでに与えられています。私たちが支払うべき代価なしに、すでに「命のパン」は用意されています。私たちはそのパンを求め続けることが、できるのです。
Ⅳ. 永遠の命に至る食べ物のために働く
しかし、私たちはしばしば、目に見えるものに心奪われてしまいます。物質的なもの、神様につながらないものすべてが悪である、と言いたいわけではありません。問題は、「それらとどう向き合うか」なのです。問題は、私たちが「朽ちていくもの」「目に見えるもの」ばかりを見つめ、追い求める生き方をしていないだろうか、ということです。「朽ちるもの」によって私たちの「からだ」が形づくられるとしたら、それは人間の本来の健康な「からだ」ではなく、不健康な「からだ」を生み出してしまいます。そのような生き方をしている限り、私たちは多くの悩みや誘惑に縛られてしまいます。
イエス様は、「不健康なからだ」ではなく、主とともに生きる「健康なからだ」を目指すようにと、招いておられます。「朽ちるもの」ではなく、「いつまでもとどまって永遠の命に至る食べ物」を、私の目の前に置く。「世に命を与えるパン」であるイエス様を絶えず求め続け、養われ続ける。それこそ、人間本来の「健康なからだ」になるために必要なことではないでしょうか。そうしていくとき、私たちの飢え渇きは、すべて満たされます。
父なる神様は、「命のパン」であるイエス様を通して、この世に命を与えようとしておられます。イエス様に聞くことなしには、「永遠の命に至る食べ物」を受けることはできないのです。「命のパン」によって養われるためには、イエス様のみことばに聞き従う信仰が必要となります。しかし、その信仰さえも、神様は導いておられることを、忘れないようにしたいのです。29節には『神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である』とあります。信じること自体においても、主は私たちの内に働いておられます。だからこそ、私たちは、私たちのうちに働いてくださる神様のみわざによって、神様と一緒になって働くことができます。27節の『いつまでもとどまって永遠の命に至る食べ物のために働きなさい』とは、私たちの内に働いてくださる神様とともに生きることであり、神様とともに働くことです。その働きの焦点は、イエス様ご自身に向けられます。まさにそれは、「神のかたち」「キリストのからだ」である私たちにこそ、ふさわしい働きなのです。
Ⅴ. 神様とともに生きる健康なからだのために
イエス様は、「朽ちてしまうパン」に目を奪われる私たちを憐れんでくださいます。この世に命を与えようとしておられる父なる神様は、御子であるイエス様を天から贈ってくださいました。そして私たちは、御子であるイエス様を通して、永遠の命にあずかっています。私たちが目指しているものは、神様とともに生きる「健康なからだ」であり、そのために「命のパン」を求め続ける必要があります。「命のパン」に絶えず養われていく中で、私たちは永遠の命にふさわしい「からだ」へと変えられていきます。絶えずイエス様を見つめ続け、追い求める人生を送るために、祈り続けていきたいと思います。
