キリストを愛し続けて

宮井岳彦副牧師 説教要約
イザヤ書66章10-14節
ペトロの手紙一1章5-9節
2024年7月21日

Ⅰ. 光り輝く御言葉を

聖書の中には光り輝くような御言葉がたくさんあります。その中でも今日私たちに与えられているのは、特別な光を放つ宝のようです。
「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛しており、今見てはいないのに信じており、言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れています。(8節)」
嬉しいのは、これが使徒ペトロの言葉だということです。主イエスをいちばん側近くで見た人です。主イエスの愛を誰よりも知っている人。主イエスの声を聞き、一緒に旅をして寝食を共にした人。そのペトロが私たちに言ってくれるのです。「あなたたちはキリストを見たことがないけれど愛しているね、今見なくても信じているね、言葉に尽くせないほどのすばらしい喜びに溢れているね!」ペトロは驚いたのだと思います。皆のキリストへの愛に。そして共に喜んでキリストへの愛に生きたのではないでしょうか。
6月30日に日本中会の一斉講壇交換があって、私は国立のぞみ教会に伺って礼拝を献げました。もう何年も日曜日に伺うことがなかったので、とても懐かしい再会のときになりました。国立のぞみ教会の仲間たちと共に神を礼拝して、改めて思います。私たちは普段別々の教会で神を礼拝して過ごしているにしても、やはり同じ喜びにあずかっている。同じキリストを愛している。それは、国立のぞみ教会でも高座教会でも、あるいはさがみ野教会でも一緒です。同じキリストへの愛を献げて、私たちは神を礼拝している。
国立のぞみ教会も、コロナを経て、私たちと同じ課題を覚えているのだと思います。数年前に伺ったときよりも礼拝に出席しておられる方が減っていました。しかしこの教会はそれで意気阻喪(いきそそう)していませんでした。国立のぞみ教会は教会学校がとても盛んで、たくさんの子どもが来ています。最近では若者をターゲットにした新しくて斬新な教会案内を作ったそうです。国立の地で生き生きとキリストを愛して、キリストの愛を伝道していました。

Ⅱ. 苦しみ悲しむ私たちを支えるもの

私たちはキリストを愛し、喜んで信じている。しかし他方では困難があり、試練があり、悩んでいます。6節にこのように書かれています。「それゆえ、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、さまざまな試練に悩まなければならないかもしれませんが、…。」そうなのです。私たちには困難なことがあり、試練がある。それでもなおどうして、皆さんはキリストを愛しているのでしょうか。
先日、私の牧師仲間の話を聞きました。ほんの少し私よりも年上の方ですが、数年前にお母さまを筋萎縮性側索硬化症(ALS)という難病で亡くしておられました。この病は、症状が回復することがほとんどありません。全身の筋肉が徐々に痩せて動かなくなり、やがて寝たきりになっていく。それでもずいぶん長い間ご実家で看取っておられたそうです。寝たきりのお母さまにお庭を見せて差し上げること一つをとってもたいへんなご苦労があった。病が進行するにつれ、歩くこと、起き上がること、話すこと、食べること…そういったことが徐々にできなくなる。やがて、呼吸することも。喜びや希望を失おうと思えば、いくらでも失いうる状況です。もしも周囲と比べだしたらますます辛くなるのではないかと思います。「同じくらいの年齢でもあんなに元気な人もいるのに、どうして私のお母さんだけ…」と問うても、その答は見つからなかったと思います。
しかし、この親子は知っていました。「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。」(5節)キリストが準備してくださっている救いがある。終わりの時の救いです。私たちが死ぬ時にも揺るぐことのない救いです。神さまは私たちの目を、キリストが準備してくださっている「終わりの時」に向けさせるのです。
国立のぞみ教会の唐澤牧師はマラソンがお好きです。かなり速いそうです。しかしどんなに元気な唐澤先生でも、どこにもゴールがなく、あるいは何の目標もないままに、ただただ苦しいのを我慢して走るだけとなると、きっと辛いと思います。やはり42.195キロ走ればゴールにたどり着くから走れるのではないでしょうか。
神は私たちの目を「終わりの時」に向けさせる。そこには神が私たちのために準備してくださった救いがある。私たちは神の国に迎え入れられる。だから走れるのです。だから希望を抱き、喜んで試練の中でも生きられるのです。

Ⅲ. キリストの下さる救いを信じよう

4月に私が高座教会に赴任してから今日まで、高座教会では既に何件もの葬儀が和田牧師の司式によって行われています。愛する人が最期を迎えるというのは、ご本人にとっても残された人にとっても大きな試練です。
改革者カルヴァンは、一人の牧師として、臨終の看取りを大切にしていました。フランスからジュネーブに亡命してきたノルマンディ夫人という女性が亡命後しばらくして亡くなったときにもカルヴァンは臨終の看取りをした。その臨終の様子を彼女の友人に伝える手紙が残されています。
臨終を迎えるとき、ノルマンディ夫人は言ったそうです。「最後の時が近づいています。私は世を去らなければなりません。体が溶けてしまいそうです。しかし、私は、私の神がみ国に連れ帰らせてくださることを確信しています。私自身が、どれほど貧しい罪人であるかを、私はよく承知しております。しかし、神の憐れみに信頼し、御子の死と苦しみに信頼を寄せています。私は自分の救いを疑ってはおりません。神が私を確信させてくださったのです。私は神を信頼しています。私の父でいてくださると信じています。」
神が「終わりの時」に準備してくださっている救いを信じて試練を生き抜いた一人の信仰者がここにいます。そして彼女がこのように最期を迎えたという報告は、友人にとっても大きな慰めになったのではないでしょうか。私たちにもよく分かることです。
「今しばらくの間、さまざまな試練に悩まなければならないかもしれませんが、あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊く、イエス・キリストが現れるときに、称賛と栄光と誉れとをもたらすのです。(6b-7節)」
試練は私たちを練り清める、と言います。それは、私たちをして他の何でもなくただキリストとその救いだけを信じることに習熟させるということです。
先ほどのALSで亡くなったお母さまと私の友人が、もしも長生きや悠々自適な老後を望みとしていたら、病の中で耐えられなかったと思います。もしもノルマンディ夫人がジュネーブでの安心した生活を望みとしていたら、あのように最期を迎えることはできなかったと思います。
もちろん、これまでの人生の中でそういうさまざまな人間としての望みが大切な彩りになってきたと思います。しかし試練の中、望みが精錬されていく。純化されていく。終わりの時の救いを備えてくださるキリストへの愛に、私たちの望みを磨き上げる。彼女たちは試練の中でキリストへの愛において磨かれて、キリストのくださる救いを望みとして、それだけを望みとして生きることに習熟した。だから、平安に最期を迎えたのではないでしょうか。

Ⅳ. 本当の試練

そうしたときに、私たちは気付きます。私たちにとっての本当の試練とは一体何なのか。
「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛しており、今見てはいないのに信じており、言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れています。(8節)」私たちは、キリストにお目にかかったことがありません。キリストを今見てはいません。私たちの喜びは、ただ「言葉」だけによって与えられます。これこそ、私たちにとっていちばん過酷な事実ではないでしょうか。もしも私の苦しみの日にキリストが目の前にいてくださったら!もしも私が悲しみのどん底にいる日にキリストがここに来て私の手を取ってくださったら!
だからこそ、試練によって私たちのキリストへの愛が成長することが欠かせないのではないでしょうか。私たちにとっての本当の幸いは、ますますキリストを愛する者となることです。主イエス・キリストを愛し続けて生きることです。なぜなら、私たちの希望はキリストが復活したことにかかっているからです。キリストは死者の中から復活して、私たちに生ける希望を与えてくださった。キリストは確かに今生きておられ、私たちは愛するこの方の御手の中にいる。この事実を喜んで信じることに修練しましょう。そこには永遠の価値があるのですから。