突風を静める

和田一郎牧師 説教要約
2024年7月28日
詩編27編1-6節
マルコによる福音書4章35-41節

Ⅰ.  ガリラヤ宣教

前回の説教で、イエス様が故郷ナザレの会堂で宣教を始めた話をしました。しかし故郷で受入れてもらえなかったので、湖の近くにあるカファルナウムという町を拠点にしたガリラヤ宣教が始まりました。「ガリラヤの春」と呼ばれるこの時期はイエス様にとっても弟子たちにとっても満たされた日々であったでしょう。

Ⅱ.  船を漕ぎだす

イエス様は弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言い、弟子たちは「イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した」のです。「向こう岸」というのは異邦人の土地でした。そこに向けて船を出したのです。ところが、突然、激しい突風が吹きつけてきました。舟は水をかぶって、水浸しになるほどでした。漁師であったペトロたちさえも怖くなる突風でした。ところがイエス様は「艫(とも)の方で枕をして眠っておられた」のです。
「先生、私たちが溺れ死んでも、かまわないのですか」と弟子たちは言いました。ところが イエス様は、この嵐を全く恐れてはいません。嵐を静めようと思えば静められる力があったからです。ですから慌てることもなく、艫の方で枕をして眠っておられたのです。疲れたとか、鈍感だったという事ではありません。しかし、弟子たちの声に従って「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。湖はすっかり穏やかになったのです。
イエスさまは驚く弟子たちに「なぜ怖がるのか。まだ信仰がないのか。」と言われた。それを聞いた弟子たちは非常に恐れて、「一体この方はどなたなのだろう。風も湖さえも従うではないか」と互いに言ったのです。

Ⅲ.  突風を恐れる

イエス様は、嵐を神の子としての権威によって静めたのです。この地上を治めておられる神の権威を示すことによって、神様のご支配が到来したことを、このガリラヤで示したのです。
イエス様は風や湖に「黙れ、静まれ」と言いました。自然に対して言ったのです。しかし、同時に、船の上で恐れをなしていた弟子達にも言われているのです。「恐れるな、黙れ、静まれ」と。
さらに私たちに向けても言っておられるのではないでしょうか。日々の生活の中で、様々なものに翻弄(ほんろう)されている私たちに向けて「恐れるな、黙れ、静まれ」と。弟子達の恐れとはイエス様を信じないことから来る恐れです。イエス様が舟に乗っているのに信じられないという恐れなのです。
突風はいつ吹くか分かりません。私にとっての突風は、母が召されたことでした。
その時は姉からの電話で母の病気を知りました。その晩ボロボロと泣いてしまったことを覚えています。翌日、実家の家に帰りました。病気のことで母は落ち込んでいるだろうと思いました。しかし、母は父と笑って話をしていました。結婚する前のエピソードを話していたそうです。父も母の病気が分かって思う所があったのでしょう。普段はそんな話をする人ではありませんでした。その後は、母を失ってしまうかも知れないという恐れに翻弄されていました。平凡な家族に突風が吹いたのです。
しかし、母はいつも穏やかでした。なぜ母は平安なのだろうと、自分が置いて行かれているような淋しささえ感じていました。信仰のない私には恐れがあったのですが、信仰によって平安の中で天に召されていった母の信仰が私の心に深く刻まれて、やがて私は洗礼に導かれたのです。
人生、いつどこで突風が吹くのか分かりません。私の場合は、吹き荒れる突風に、恐れを抱いた自分と、突風の中でも心穏やかであった母との違いが、その後の生き方を考える転機となりました。イエス・キリストとは、どのような方なのだろうと求め続けました。

Ⅳ.  この方はどなたなのだろう

弟子達も同じでした。「一体、この方はどなたなのだろう。風や、湖さえも従うではないか。」と互いに言い合ったのです。
イエス様が寝ていたことに、文句を言った弟子達が、いざ嵐を静められると、そのことを恐れて、「この方はどなたなのだろう」と話し合うのです。確かにイエス様に助けを求めたのですけれど、まさか嵐を静められるとは考えていなかったのではないでしょうか。せいぜい「大丈夫だ」と嵐の中でも励ましてくださって、沈没することなく、岸にたどりつくことぐらいを期待していたのではないでしょうか。ところが、嵐を止めてしまったのです。自然の力を従わせたのです。
それを目の当たりにして「弟子たちは非常に恐れ」た、とあります。嵐に対する恐れとは別の恐れです。自分達の思いをはるかに超えた力に畏れを抱いて、「この方はどなたなのか」という思いが起こるのです。突風が吹いた時、イエス様は、自分たちが想像もできない方法で、それを治めてくださいます。私たちも、万事を益としてくださる、神の不思議を見る事になるのです。

Ⅴ.  「向こう岸に渡ろう」とは?

イエス様は、弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」と言われました。「向こう岸」は異邦人の住む地でした。慣れ親しんだガリラヤではなくて、馴染のない人たちが住んでいる町だったかも知れません。しかし、神様のみ心に従って、自分のすべきことのために向かったのです。弟子たちはそうではなかったのかも知れません。38節「先生、私たちが溺れ死んでも、かまわないのですか」という弟子たちの言葉は「本当は行きたくないのにイエス様が言ったから、こんなことになったのだ!」という不満とも聞こえます。
イエス様と同じように、私たちにとって行かなければならない「向こう岸」があるはずです。居心地のいい所とは違う行くべきところ、やるべき事があるということです。私たちにとって「向う岸」とは何でしょうか。どのような「向う岸」であっても、主が共におられます。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」と、励ましてくださいます。
いつやって来るか分からない突風に備えて、信仰を確かなものにしていきましょう。
お祈りをいたします。