地の塩 世の光

和田一郎牧師 説教要約
2024年8月4日
イザヤ書60章1-5節
マタイによる福音書5章13-16節

Ⅰ. 山上の説教

高座教会にはボーイスカウトとガールスカウトがあります。ボーイスカウトの創設者は、イギリスのベーデン・パウエルという、牧師を父にもつ人物でした。ガールスカウトはその妹が創設しました。牧師を親にもつ二人は、スカウト活動で信仰をもつことを奨励しています。高座教会では教会学校で聖書を学んで、スカウト活動で聖書の言葉を実践するという事を大切にしています。スカウト活動の中で特に大切にしてきた聖書の言葉が「地の塩・世の光」です。スカウトは地の塩・世の光として地域社会のために奉仕することとしています。
イエス様は、この話を山上の説教で話されました。この山上の説教は、聞く人たちを守ったり、癒(いや)したりする話ではありません。神様の祝福を受けた者は、責任が伴うという教えです。「心の貧しい人々は幸いである」「悲しむ人々は幸いである」など、神様の祝福を受けた人は「地の塩、世の光になりなさい」「裁いてはならない」「敵を愛しなさい」と教えていきます。

Ⅱ. 地の塩

「地の塩」の「地」とは、私たちが生きているこの大地のことです。「塩」はどの家庭にもありますし地味で目立たない存在です。そして、なくてはならない存在です。第一に食べ物を保存し防腐剤としての役割をもっています。さらに、食物がもっている本来の味を引き出す力があります。それらの機能から、塩は世の中の腐敗を防ぎ、人々の中にあって周囲の人の良い賜物を引き出す者になりなさい、という意味があります。イエス様は、神様の祝福を受けたいと思っている人に対して「あなたがたは地の塩である」と表現されました。あなた方は、まさに、この世にあって、なくてはならない貴重な存在なのだと教えているのです。
私は「地の塩」となる生き方について、宮沢賢治の「雨にも負けず」をイメージしました。
「雨にも負けず 風にも負けず 雪にも夏の暑さにも負けぬ 丈夫な体をもち 欲は無く 決して怒らず いつも静かに笑っている 一日に玄米四合と 味噌と少しの野菜を食べ あらゆることを 自分を勘定に入れずに よく見聞きしわかり そして忘れず 野原の松の林の陰の 小さな萱ぶきの小屋にいて 東に病気の子供あれば 行って看病してやり 西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負い 南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくてもいいと言い 北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろと言い 日照りの時は涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き みんなにでくのぼーと呼ばれ 褒められもせず 苦にもされず そういうものに わたしは なりたい」。(現代語訳)
「そういうものに わたしは なりたい」という、そういう人物こそ、イエス様の教える、地の塩として、地味で目立たない存在ですが、なくてはならない人物像に思えます。
この文章のモデルになったと思われる人がいます。内村鑑三の弟子の一人に斉藤宗次郎という人がいました。キリスト教が「国賊」などと呼ばれて迫害を受けた時代に斉藤は、岩手県花巻のクリスチャンだったです。日露戦争の時、戦争反対を訴えたので、小学校の教師を辞めさせられました。長女は「耶蘇(やそ)の子ども」とお腹を蹴られ、腹膜炎で亡くなりました。その後新聞配達をして生計をたてるようになり結核を患っても仕事を休むことはできず、吐血することがあっても働きながら、夜は聖書を読み祈る人でした。その時でも恩師の内村鑑三の死の際には、隣りの部屋で日夜看病した人です。斎藤が新聞の集金に花巻農学校に行くと宮沢賢治と一緒に蓄音機で音楽を聞いたりする仲でした。
塩というのは、少しの量でも、全体を味付けし、腐敗を防ぎ、清めるということです。イエスは山上の説教で、聞く人に期待していることは、そのようなことなのです。たとえ、どんなに力が弱く少数であっても全体に効き目を及ぼす塩でありたいということです。その力は無力に見えても、神様によって全体を味付けされ、腐敗から守るために用いられるということです。

Ⅲ. 世の光

続けてイエス様は「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。」と言われました。私たちは光がなければ暗い闇の中にいることになり生きていけません。光は足元を照らす光であり、世の中を照らすものです。そして、山の上にある町はどこからでも見えてしまいます。決して隠れるということがないのです。
かつてマザー・テレサが日本に来日したことがあります。インドで貧困や病気に苦しむ人々の救済に生涯をささげて、ノーベル平和賞を受賞した有名な人でしたから、来日した時は多忙を極めたそうです。当時、通訳をしていたシスターは、慣れない土地での長旅、新幹線で移動した日に、何度も講演で話をする74歳のマザーは、いつも笑顔があって凄い人だなと思ったそうです。その通訳のシスターが夜道を案内している時に、マザー・テレサはその秘訣を話してくれたそうです。「シスター、私は神さまと約束をしているのです。フラッシュがたかれる度に笑顔で応じますから、魂を一つお救いくださいと」。笑顔で応じるたびに、イエス様を信じるキリスト者を起こしてくださいと、神様と約束をしたそうです。ご自分の疲れも、フラッシュも、神様との会話となる祈りのチャンスにして祈っていたそうです。

Ⅳ. まとめ

イエス様はこのような譬えを用いて弟子たちに、あなたがたは地の塩である、世の光であると言われました。あなたがたの心には、この光が灯っているのだから、それを隠さないようにしなさい、と言うのです。「隠す」ことは、与えられた賜物を用いないということになってしまいます。そうではなくて賜物を存分に用いることを求めているのです。そして、その目的は16節「・・・人々が、あなたがたの立派な行いを見て、天におられるあなたがたの父を崇めるようになるためである」と言うのです。天の父なる神様を指し示して、地の塩、世の光として光を輝かせなさい、というのです。クリスチャンが立派な行いを見せるということです。ここでの「立派な行い」というのは、人と比べたり、人の評価を意識したりするような印象を与える言葉ですが、そうではありません。他の日本語聖書では「善い行い」と訳してありました。クリスチャンが「善い行い」を世の中に見せることで、神様が褒め称えられるようにする、神の栄光を輝かせること、それが目的だと教えているのです。
山上の説教の教えは、神様の祝福を受けた者は、責任が伴うと話しました。信仰を与えられ、救いに招かれた者の生活は、受けるだけではなく、与える者になりなさい、ということです。
使徒パウロは「・・・受けるよりは与えるほうが幸いである」(使徒 20:35)と言いました。
今の世界は、自己中心的な考えに共感する人が増えています。与えることより、受けること。人に仕えるより、人に仕えてもらうこと。責任を果たすよりも、権利を主張する。自己犠牲よりも、特別扱いされることをよし、とする風潮があります。ですから世の中の評価を気にしていたら、地の塩、世の光として生きていくのは難しい時代だと思います。
しかし、16節後半で、主イエスが指し示すのは「天におられる、あなた方の父」だというのです。「地上に宝を積んではならない・・・宝は天に積みなさい。・・・あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのだ」(マタイ6:19-21)と、イエス様は山上の説教で言われました。
 神様は、いつでもどんな時でも、見ていてくださいます。誰もいない所でも、周りの人に批判されていても、雨にも負けず風にも負けずに、私たちが塩としての効力を発揮して、生きていることを見てくださっています。私たちの賜物が用いられた時、それを隠すことなく、光の子として明らかにしていきたいと思うのです。笑顔一つで、神の栄光を現わすことができるでしょう。光の源は神様の聖なる輝きです。月が太陽の光を反射させて輝くように、神の栄光の輝きを、生活の中で照らす一週間でありますように。
お祈りをいたします。