剣を鋤とし、槍を鎌とする

和田一郎牧師 説教要約
2024年8月11日
イザヤ書2章4、5節
エフェソの信徒への手紙2章14-16節

Ⅰ.鉄の塊

先日、横須賀の軍港に立ち寄って、軍艦めぐりの観光船に乗りました。日本の護衛艦が停泊していました。これを改造して戦闘機が離着陸できるようにすると聞きました、つまり日本は事実上「空母」を持つことになるようです。日本も戦争ができる状態に着実に進んでいることを、目の当たりにしました。イージス艦も停泊していました。船が巨大な鉄の盾で覆われていて、それはまさに巨大な鉄の塊に見えました。
今日、朗読しました旧約聖書は、鉄の道具が出てきます。
剣と槍これは武器です。鋤と鎌は農機具です。作物を作るための道具いわば平和を作り出す道具です。これらは鉄でできていて鉄のいいところは作り変えることができることです。
預言者イザヤは、強大なアッシリア帝国の侵略にさらされる中で、すべての武器が農具にうちかえられる、終末の預言の言葉を伝えたのです。剣を鋤に作り変える、槍を鎌に作り変えることによって、戦争ではなく平和が作られるようになるという終末的預言です。
逆に、戦争が起こるときというのは、鋤が剣に打ち直される、鎌が槍に打ち直されるという事が起きるのです。戦争中、日本政府は戦争に協力するために、家庭で使われている鍋やフライパンやお寺の鐘を差し出せと命令しました。とにかく武器を作らなければならないと鉄を集めたのです。現在も鉄を打ち直して武器を作っています。護衛艦を改造して空母にする、それはまさに剣や槍を大きくしているのです。
そうした時代の中で、私たちは先週8月6日と8月9日という日を過ごしました。
広島と長崎に原爆が落とされて79年が経ちました。私たちが今の世の中について盲目とならないためにも、過去を覚えなければならないと思います。

Ⅱ. 消えた家族

1945年、広島にある家族がいました。その家族の絵本があります。両親と子ども4人の6人家族です。お父さんが散髪屋さんをしていました。お母さんがお店を手伝っていました。
お父さんは、写真をとるのが好き、だから、すぐに私たちを笑わせて写真を撮る。うちはいつもにぎやか。みんなが大きな声でしゃべるのは、お父さんの耳が聞こえにくいから・・・。そう、お父さんは耳が遠いから、それでも散髪屋ならやっていけると、お父さんの兄弟10人みんなが、お金を出し合って店を始めたのだ。ピクニックが大好き。いいだしっぺはいつもお父さん。お母さんもニコニコ。弟のマモルが生まれた!次に、アキコも生まれたの。勉強も、遊びも、めいっぱい。いま、戦争してるっていうけど・・・。
8月6日広島に原爆が落とされ、この家族は一家全滅しました。お父さんは救護所の名簿に「重症後死亡」という記録が見つかりました。
ヒデアキくんと、キミコちゃんは小学校で原爆の爆風と熱線を受けました。ヒデアキくんがおんぶして、治療所まで逃げて「あとでかならず迎えにくるから」と言い残して、その後のキミコちゃんの消息は分かりません。ヒデアキくんは数日後に高熱をだし血をはいて亡くなりました。下の二人マモルくんと、アキコちゃんは焼け跡から骨になって見つかりました。
お母さんは、親戚の家にたどり着きましたが、家族みんなが亡くなったことをさとると、井戸に飛び込んで命をたったのです。
その家族写真は、広島市の原爆資料館に展示されていたそうです。

Ⅲ. 平和の巡礼者

広島市の原爆資料館の入館者数は年々増え続けているそうです。今、ロシアのウクライナ侵攻でプーチン大統領が核兵器の使用をほのめかし、イスラエルの閣僚がガザ地区で核兵器使用について「選択肢の一つ」と発言しました。「核」を使うことが隣国を威嚇する武器になっている。そのような中にあって広島原爆資料館を訪れる人は平和を求める一人の巡礼者の思いで訪れるのではないかと新聞にありました。
日本は「世界で唯一の被爆国」であり「アジアの国々を侵略した」戦争加害者である国です。戦争の悲劇というのは被害者だけではなく、人の命を奪う加害者にも、なってしまうという悲劇です。あっと言う間に、ちょっとした立場の違いで、被害者にならないように殺人者になるという悲劇です。命を守るために、他人の命を殺めるのです。イザヤ書の言葉は剣を鋤に、槍を鎌に。武器をもつことのない世界を、来たるべき終末の姿であると示しています。そこに向かっていくことを求めています。そこに向かっていく鍵がイエス・キリストにあると聖書は語っているのです。

Ⅳ. 敵意という隔ての壁

新約聖書エフェソの手紙2:14「キリストは、私たちの平和であり、二つのものを一つにし、ご自分の肉によって敵意という隔ての壁を取り壊し」とあります。キリストは私たちの平和だと、宣言しています。二つのものを一つに、つまりユダヤ人と異邦人。両者にあった敵意という隔ての壁を取り壊したのがイエス・キリストです。
14節「敵意という隔ての壁」という言葉が印象的です。1871年にエルサレム神殿跡で発掘調査が行われた際に一本の石柱が発見されました。ギリシア語で「他国民はいかなる者も、この障壁内・神殿周辺の構内に立ち入るべからず。あえてこれを侵犯する者は、誰にても死罪に処せられるべし」とあったそうです。この「隔ての壁」こそ、ユダヤ人と異邦人を分け隔てたシンボルだったのです。ユダヤ人と異邦人の敵意は、並々ならぬものであったのです。しかし、ユダヤ人と異邦人の心の隔ての壁は、キリストによって打ち壊されたのです。誰でも礼拝できる。神殿に入る必要もなくしてくださったのです。教会というものを与え誰でも礼拝できることがキリストの平和として、今も実現しています。エフェソの手紙で注目したいのは、パウロは「キリストこそ私たちの平和である」と語っていることです。キリストが私たちの平和を作ってくれるとか、キリストが平和をもたらす、というのではなく「キリストは私たちの平和」キリストこそが私たちの平和なのです。
そもそも「敵意という隔ての壁」は、人間の罪から生まれます。罪の根源には神様に対する不信仰がある、つまり敵意です。神様に対する敵意は、人に対しても向けられていくのです。ですから神様に対する敵意は平和を妨げる根源になるのです。イエス様は、その私たちの罪、敵意を、ご自分の身に引き受けて下さったということです。イエス様を苦しめ、殺した。その敵意を引き受けて下さったことによって「キリストこそ私たちの平和である」と平和を宣言しているのです。今もなお罪の性質の残る私たちは神と隣人に対する敵意があるのですが、十字架を見つめることによって、剣を鋤に槍を鎌にかえる知恵と勇気をあたえられるのです。
キリストの前にはユダヤ人対異邦人の障壁は吹っ飛びました。ユダヤ人対ギリシア人も、民族対民族も、国対国も、ウクライナ対ロシアも、パレスチナ対イスラエルの敵意も、平和をもたらすのはキリストそのものです。このように私が言うと虚しく聞こえるでしょう。「和田先生、現実を見てください。何がキリストの平和ですか?」と。

Ⅴ. キング牧師の言葉

マーティン・ルーサー・キング牧師は、白人対黒人という圧倒的な「敵意の壁」を前にして確信がありました。「あなたがたの他人を苦しませる能力に対して、私たちは苦しみに耐える能力で対抗しよう。あなたがたの肉体による暴力に対して、私たちは魂の力で応戦しよう。どうぞ、やりたいようになりなさい。それでも私たちはあなたがたを愛するであろう。(中略)私たちの家を爆弾で襲撃し、子どもたちを脅かしたいなら、そうするがよい。つらいことだが、それでも私たちは、あなたがたを愛するであろう。しかし、覚えておいてほしい。私たちは苦しむ能力によってあなたがたを疲弊させ、いつの日か必ず自由を手にする、ということを。私たちは自分たち自身のために自由を勝ち取るだけでなく、きっとあなたがたをも勝ち取る。つまり、私たちの勝利は二重の勝利なのだ、ということをあなたがたの心と良心に強く訴えたいのである」。
キング牧師が、あれだけ高い「敵意の壁」を前にしても、平和を実現することができると確信をもって語れたのは、父なる神がキリストを死者の中から復活させたことを知っているからです。死の力に勝利するという、人知を超えた力を知っているからです。私たちは、平和を実現するイエス・キリストに従っていく時、平和を実現する神の子として歩んでいくことができます。平和を作りだす方法は、いろいろあって構わないのです。その根源にあるのは、敵意という隔ての壁を取り壊す為に、犠牲を負ってくださったイエス・キリストが平和そのものであるという信仰です。
お祈りします。