あなたがたのための福音!
宮井岳彦副牧師 説教要約
イザヤ書52章7-10節
ペトロの手紙一1章10-12節
2024年8月18日
Ⅰ. 神を求めて渇く魂
暑く、過酷な夏が続いています。こういう夏の日に私が思い起こす詩編の言葉があります。「昼も夜も御手は私の上に重く、夏の暑さに気力も衰え果てました。(詩編32:4)」私たちの思いそのもではないでしょうか。私たちは夏の暑さで渇き、気力も衰える弱い肉体と心をもって生きています。私たちは弱い。しかしその弱さを抱えて、あるいは弱い存在だからこそ、私たちは神を求めています。
詩編第32編は「悔い改めの詩編」と呼ばれる詩編の一つです。「私はあなたに罪を告げ、過ちを隠しませんでした。私は言いました、『私の背きを主に告白しよう』と。するとあなたは罪の過ちを、赦してくださいました。(5節)」肉体や心だけではなく、私たちは信仰も弱い。罪の力に圧倒され、のみ込まれてしまう。そんな私たちが祈っている。自分の背きを神に告白して。魂が渇き、あえぐようにして、私たちは神を求めて祈ります。私たちは弱さと罪深さを神に告白し、神を求め、救いを求めて生きています。
古代教会の偉大な指導者であるヒッポのアウグスティヌスは信仰深い母に育てられましたが、若い頃は異端の教えにのめり込み、ある時は十数年にわたって同棲していた女性との別れのショックから肉欲のままにいろいろな女性と関係を結び、放埒な生活をしていました。そういう日々のやがて回心に至る魂の遍歴を書いた『告白』という自伝を著しています。冒頭にこのように書いています。「人間は、あなたの取るに足らぬ被造物でありながら、あなたをたたえようと欲する。あなたは人間を呼び起こして、あなたをほめたたえることを喜びとされる。あなたは、私たちをあなたに向けて造られ、私たちの心は、あなたの内に安らうまでは安んじないからである。」彼の執拗な出世欲や名誉欲、そして肉欲は「罪深い」とも言えるかもしれませんが、私には渇ききった魂の呻きのようにも思えます。渇ききって弱った魂で、なお心の奥底で神を求めて喘いでいたのではないかと思います。
主イエスがお生まれになったとき、東方の博士たちが星に導かれて主イエスの所へやって来ました。星に導かれてというのは、考えてみればすごいことです。どのような星だったのか分かりませんが、細心の注意を払って空を見つめていなければ気付かなかったと思います。しかしじっと目をこらして夜空を見つめていたということに、彼らの求めが現れているのかもしれません。永遠を求め、救いを求める彼らの渇きが。
「東方の博士」の「博士」と翻訳されている言葉は、直訳するとむしろ「魔術師」といった意味のようです。星占いや魔術の類いは、旧約聖書では厳しく禁じられています。しかしいかがわしくも見えるこの魔術師たちもまた神を求め、救いを求めて渇いていたのではないでしょうか。
私たちも同じです。私たちも神を求め、救いを求めて、渇いた魂で、神を礼拝するためにここに来たのです。
Ⅱ. 神が与えてくださった、永遠を求める憧れのこころ
数年前に亡くなったルードルフ・ボーレンというスイス人の牧師がいます。来日したときの講演が『憧れと福音』という本にまとめられ、日本語で読むことができます。その前書きにこのように書かれています。
「人間は、現在のあるがままの自分に留まるべきではありません。むしろ、今は、まだ自分がそうなっていない者になるべきです。―つまり、新しくなるべきなのです。だからこそ、人間を造られた方は、死すべきこころのなかに、永遠を置いてくださいました。その永遠のこころが働いて、敢えて不安を呼び起こすのです。憧れは、―おそらく意識しないままですが―新しい存在を求める憧れとなり、さまざまな光をともすのです。その光が、こころに差し込まれた永遠にふさわしいものであるのか、それとも、幻惑する光にひとしいのか、それは、やがて明らかになります。それが真実のものであり、隠されたままであったものを明るく照らし出しながら、福音が光となって現れてくるならば、人間が抱く憧れのこころは、死んで、そして新しくなる危機に達します。死んで新しく生まれる分かれ目に立つことになるのです。このように、福音と憧れは、深く関わり合っています。」
美しい言葉です。私たちには、誰にも、永遠を求める憧れがあると言います。新しい存在になりたいと願う、憧れのこころ。私たちは永遠に憧れるから、夏の暑い盛りにも弱い肉体を抱えて神に祈り、肉体の欲望を抱えながらも神を求め、じっと目をこらして星空を見上げるのではないでしょうか。憧れのこころが私たちの内に魂の渇望を覚えさせ、永遠の救いを求めて私たちは苦しみさえ覚えるのではないでしょうか。時に私たちは道を誤ってしまうこともあるかもしれません。しかし今、私たちは心の奥底では永遠の救いに憧れてここに来て神を礼拝しているのではないでしょうか。
Ⅲ. キリストの十字架の苦しみと復活の栄光こそ、神からの答
今日の聖書の御言葉の10節にこのようにあります。「この救いについては、あなたがたに与えられる恵みのことを預言した預言者たちも、熱心に尋ね、つぶさに調べました。」ここに「預言者」とあります。旧約の預言者もそうでしょうが、それだけではなく、当時の教会では説教者を「預言者」と呼ぶことがあったようです。そういう人も含むのでしょう。旧約の預言者であろうと、この時代の説教者であろうと、あるいは現代の説教者だって同じです。御言葉を語る者たちは皆「救い」を証言してきた。救いを熱心に尋ね、つぶさに調べた。
それでは私たちは一体どこに「救い」を求めたら良いのか?11節にはこのようにあります。「預言者たちは、自分たちの内におられるキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光についてあらかじめ証しした際…。」私たちの救いはここにある。キリストの十字架での苦しみと、それに続く復活の栄光。これが私たちの救いです。それは昔も今も変わらない。詩編の祈りを献げた信仰者も、アウグスティヌスも、東方の博士たちも、誰もが求め、渇いて呻き、必要とした救い。その答は、キリストの苦しみと栄光です。これこそが私たちすべての人を救う神の御業だ、とペトロは言うのです。
12節にはこのようにあります。「…それらのことは、天から遣わされた聖霊に導かれてあなたがたに福音を告げ知らせた人たちが、今、あなたがたに告げ知らせており、天使たちも、うかがい見たいと願っていることなのです。」皆が待ち望んだ救いです。天使さえもうかがい見たいと願った救いです。それがイエス・キリストの十字架での苦しみと、復活の栄光によって実現した。これがあなたのための救い!これがあなたのための福音!聖書はそのように私たちに語りかけます。
Ⅳ. 私たちの原点
私は、まさに「これだ」と思います。これからの私たちの教会を導く指針は、聖書が伝えるこの救いの出来事をおいて他にはないと信じます。
高座教会とさがみ野教会は、これから、新しい時を刻み新しい旅を始めようとしています。これは一つの出会いです。出会いは不安を呼び覚ますし、ひとたび出会ったら出会う前のままではいられなくなります。出会いは私たちを新しい存在へと導きます。
高座・さがみ野の両教会の小会は、教会の合同に先だって牧師たちの合同を行うことを決めました。それで、私は四月から高座教会の副牧師として立たせて頂いています。既に多くの出会いがありました。何よりも、このようにして福音を語る機会を頂いているということは、私にとってはかけがえのない喜びです。
これから、ますますいろいろなことが具体的に進んでいきます。どうしたら良いのか今でもよく分からない部分や、最善の道はどこにあるのか手探りしなければならないところもたくさんあります。しかしそうやって分からなくなったときには、何度でも繰り返して原点に戻りたいと願っています。私たちは、永遠を求め、救いを求めてここにやって来ました。神さまにお目にかかるために私たちはここにやって来ました。神さまにお会いしたい。その答えは、私たちの前に差し出されています。キリストの十字架での苦しみと、復活というキリストの栄光。ここに救いがあるし、この出来事を仰ぐ度にわたしたちは神にお目にかかっているのです。この事実こそが私たちの原点ですし、何度でもここに立ち帰って道を選んでいきたいのです。
今まさに、神の時が満ちて新しい出来事が始まろうとしています。神は荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせることがおできになる方です。そこまでして神は何をしておられるのか?私たちと出会い、私たちに救いの恵みを与えてくださっているのです。
この神が私たちを呼び集め、ご自分の前で礼拝を献げる民としてくださったから、私たちは今、神の御前で心を合わせて礼拝を献げています。このキリストとの出会いの出来事は、これからも、神が私たちの間で行ってくださる御業なのです。