ペトロの信仰告白
<成長感謝礼拝・教育月間> 佐藤岩雄牧師 説教要約
2024年11月10日
ダニエル書3章16-18節
マルコによる福音書8章27-38節
「イエス・キリストは私にとって誰であるのか」
信仰者の人生とは、この問いに応え続ける旅のように思います。この箇所で、イエスは二つの質問を弟子たちに投げかけました。まず「人々は私のことを何者だと言っているのか?」続けて「あなたがたはわたしを何者だと言うのか?」と。ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白しました。この答えによって、イエスは、はじめて弟子たちに、ご自分の受難と復活の道を示し始めたのです。ここでのペトロのした信仰告白の大切さがわかります。マタイによる福音書は、イエスが「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを示したのは、人間ではなくわたしの天の父なのだ。」と言っています。ペトロはとても嬉しかったことでしょう。
ただし、ここでの、ペトロの信仰告白は力強いものでしたが、彼はすぐにイエスの「必ず苦しみを受ける」という言葉を非難します。するとイエスは「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人のことを思っている」と厳しく叱責されました。ペトロは、イエスの十字架の道を理解できていませんでした。
私は、以前はこの箇所を、「ペトロが生意気だから叱られた」と読んでいました。しかし、アメリカの友人との聖書の分かち合いを通して、ペトロの積極的な姿勢を評価する読み方もあると知りました。自己主張が歓迎される文化では、ペトロがイエスに意見を述べたことは評価されます。むしろ、何も行動しなかった他の弟子たちよりも積極的だったと見るのです。私たちがここで目を留めるべきなのは、イエスが、ペトロを叱りながらも、もっと深い理解へと彼を導かれたということでしょう。
イエスは「わたしについて来たいなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、わたしについて来なさい」と言われました。これは、どの民族、どのような文化に生きている者にとっても他人事ではない決断と献身を迫る言葉です。信仰の歩みは自己を捨て、神のみ心に従うことだと示唆されています。ここで聖書が伝えている大切な点は、信仰告白とは単なる一時の出来事ではなく、生涯を通じて継続するものだということでしょう。
ペトロの人生においてもそうでした。彼は、イエスを裏切ることで、深い挫折を経験します。その後で、復活したイエスがペトロと出会って下さり、彼の信仰を取り戻して下さいました。いや、その愛は、十字架につかれる前から注がれており、「あなたの信仰がなくならいように祈った」と言われる、その祈りの中をペトロは既に生きていたのです。復活されたイエスは彼に「わたしを愛しているか」と尋ね、「私の羊を飼いなさい」と、ペトロに新たな使命を与えられました。
ペトロの生涯をみて分かるのは、「あなたは私を誰というのか。」そう聞かれた主イエスご自身が、全てに先立って、圧倒的な愛をもって、ペトロを愛してくださっていたということです。救い主ですと言った後で、自分を裏切るような危うさをもっていると分かりながら、どんなことがあっても、そのペトロを見捨てず、慈しみをもって、イエス様はペテロを愛し抜かれていたということです。その主イエスの愛と祈りの中で、ペテロは、その生涯をかけて「あなたこそ私の救い主です」という信仰告白に生きたのです。
「イエス・キリストは私にとって誰であるのか」これは、私たちにとっても生涯をかけて応えていく問いかけです。その歩みの中で、私たちは、復活の主イエスの愛の深さ、その豊かさに触れていくことになることでしょう。
主の導きがあなたにありますように。