福音が生む愛の共同体

<教育月間> 宮井岳彦副牧師 説教要約
イザヤ書40章6-8節
ペトロの手紙一1章22-25節
2024年11月17日

Ⅰ. 礼拝を献げましょう!

11月10日に行われた小会で、夕礼拝を再開することが決まりました。6月、8月と、何度も時間をかけて小会で審議しました。少し急ではありますが、第一アドベントの主日、12月1日から夕礼拝を再開します。皆さんとご一緒に神を礼拝したいと、そのことだけを願っての決断です。
私は小学校5年生の時から高座教会で信仰を育まれてきました。住まいが相模原市にあったということもあって中学生までは夕礼拝に出席したことはなかったかと思います。しかし高校生、大学生になったとき、夕礼拝はとても大切な時間でした。あの静かな礼拝の雰囲気が私は好きです。朝よりも少ない出席者。それだけに醸し出される夕礼拝独特の空気感。一日の疲れを覚えながらもじっと聖書の御言葉に耳を傾ける。時に眠気に誘われたことも…あったかも知れませんが、そのすべてを包み込むような夕礼拝という時空間。
私たちは共に神を礼拝することで一つになります。神が一つにしてくださいます。福音の言葉に聞き、従うことで、私たちは一つの教会とされる。福音だけが私たちを教会として造り出します。私たちには他にはない。何もない。そして、何もなくて良いのです。福音が私たち高座教会の全てです。
今日の聖書の御言葉にこのように書かれています。
こう言われているからです。「人は皆、草のようでその栄えはみな草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。(24〜25節)
草は枯れ、花は散る。この言葉の引用元のイザヤ書には、続けて「主の風がその上に吹いたからだ」とあります。この言葉の背景になっているのは日本ではありません。全く異なる気候風土、パレスチナの地です。東にある荒れ野から吹く風は乾燥した熱風で、吹きつけるとすぐに草は枯れ、花は散ってしまったそうです。もちろん、ここでペトロは草や花の話をしているわけではない。私たち人間の営みの話です。私たちのしていることも草のように枯れ、花のように散ってしまう。脆くて弱いものです。そんな私たちにも熱風が吹きつけてきます。コロナもそのような風であったかも知れません。統一協会の騒ぎからますます加速した日本社会の宗教離れや警戒感もそうかもしれません。コロナの数年間で身に染みついた「面倒くさい」という感覚や、さまざまなかたちでの社会構造の変化。いろいろ考えることができるかもしれない。
しかし、本当にそうなのでしょうか。そのようないろいろな意味での「風」が決定的なのでしょうか。聖書は言います。「しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」そうです。主の言葉は変わらない。永遠に変わらない。私たちが枯れ、散ってしまっても、主の言葉、福音は決して変わらないのです。
私たちの教会の基は福音です。神に礼拝を献げ、福音を聞くことによって高座教会は「教会」として生きることができるのです。私たち一人ひとりの信仰生活も、そして教会そのものの屋台骨も、共に神に礼拝を献げることによって保たれる。私はそう信じています。

Ⅱ. 教会の合同

神を礼拝する私たちを、神ご自身が一つにしてくださいます。
11月23日(土)に、定期中会会議が開催されます。そこで、これまでご一緒に祈り、話し合い、準備してきました事柄、高座教会とさがみ野教会との合同についての議案が審議されます。二つの教会が一つになって新しい教会となって歩み出そうとしています。
そういう大事な会議を控えている一週間の初めの日に私たちが聞くべき神の言葉として与えられているのがペトロの手紙一第1章22から25節であるということ。この事実に神の導きがあると私は感謝を込めて信じています。このように書かれています。
あなたがたは、真理に従うことによって、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。(22節)
ここに「兄弟愛」という言葉があります。教会は、兄弟また姉妹としての愛によって結ばれた共同体です。教会ではよく「兄弟」とか「姉妹」という言葉を使います。この言葉が単なる決まり文句や、教会らしい便利な敬称として扱われるのではなく、本当に兄弟愛、姉妹愛に生きる共同体として私たちが神の前に整えられることを心から願います。いや、神は私たちの教会を既にそのような共同体にしてくださっている。私はそう信じます。
「真理に従う」と書いてあります。真理というのは、何のことでしょうか。注解書を開いてみると、それについての説明が書かれていました。ある人は、ここでいう「真理」というのは、救いという言葉の言い換えの一つだ、と説明します。あるいは別の人は「宣べ伝えられた啓示のことだ」と説明します。そういう説明の言葉を読みながら、私は「ああ、そうか」と思いました。この「真理」というのは、つまりは、イエス・キリストご自身のことに他ならない。キリストこそ神の私たちに告げてくださった真理そのもの。キリストこそ私たちの救いですし、キリストこそ私たちへの神のメッセージ(啓示)そのものなのですから。私たちは真理であるキリストに従って、魂を清められ、兄弟愛に生きるようになったのです。

Ⅲ. シモン・ペトロと主イエスの対話

私はこの言葉を書いたのが使徒ペトロであるということに格別な思いを抱いています。シモン・ペトロは、特別な思いで「兄弟愛」という言葉を手紙に書き記したのではないかと思うのです。
この手紙が書かれる何十年か前の出来事です。十字架にかけられ、復活し、キリストは再び弟子たちのところへ来てくださった。シモン・ペトロはそのとき、故郷のガリラヤ湖に帰って漁をしていました。主イエスはシモン・ペトロのところへ来てくださって、再び出会ってくださった。
岸辺で主イエスが準備してくださっていた朝ご飯、焼き魚を一緒に食べた。食事の後、シモン・ペトロと主イエスとの対話が始まります。イエスは問いかけます。「ヨハネの子シモン、あなたはこの人たち以上に私を愛しているか。」それに対してシモン・ペトロは答えます。「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」(ヨハネ21:15)。
日本語の翻訳では分かりませんが、実は主イエスが「私を愛しているか」とお問いになった「愛する」という言葉と、シモン・ペトロが「愛しています」と答えた「愛する」という言葉は、違う言葉が使われています。原文を見ると、主イエスはアガパオーという言葉で愛をお問いになりました。しかしペトロはフィレオーという言葉で答えています。日本語にするとどちらも「愛する」という意味ですが、アガパオーは神の愛を表すときに使われる言葉で、フィレオーは友愛を表す言葉です。主はシモンに私をアガパオーするかと問い、シモンは私はあなたをフィレオーしますと答えた。二度目も同じように問い、答えました。
ところが三度目は少し変わります。主イエスの問が変わる。主イエスはペトロに、私をフィレオーするかと問うた。するとシモンは「私があなたを愛している(フィレオー)ことを、あなたはよく知っておられます」と答えた。主イエスの問いが変わった。主はシモンのいる所にまでおりてきてくださって、ご自分の問を変えてくださった。
実はペトロの手紙にあった「兄弟愛」という言葉ですが、これはフィロス(フィレオーの名詞形)に「兄弟」という言葉がくっついてできている言葉です。ペトロは自分の手紙を受け取る教会のことを考え、思い巡らし、友愛(フィロス)によって結ばれた兄弟姉妹の共同体を思い描きました。主イエス・キリストの、友への愛によって生み出される共同体です。
ペトロはあのとき、主イエスを裏切って、堂々と主イエスと同じ言葉で「あなたをアガパオーしています」と答えられるような自分ではないことを骨身に染みて知らされていました。私はあなたをフィレオーしています、あなたの友だちでいたいのです、あなたが好きです。精一杯そう応えるペトロに、主イエスが寄り添ってくださった。ペトロは「兄弟愛」とこの手紙に書きながら、あの日の主イエスとの会話を思いだしていたのではないかと思うのです。

Ⅳ.主イエスのへりくだりの愛によって教会は建つ

主イエスのへりくだりの愛に生かされる私たちにペトロ牧師は言います。「清い心で深く愛し合いなさい」。この「愛する」はアガパオーです。キリストのへりくだりの愛が私たちをアガパオーの共同体としてくださる。私たちを愛によって結びつけてくださる。
私たちの営みは草のようです。私たちがしていることが例えどんなに栄えたとしても、草のように枯れるし、花のように散ります。しかし、神の言葉は永遠に変わりません。キリストが私たちに示してくださった神の愛はどのようなときにも揺らぎません。神の愛を告げるキリストの言葉、福音こそが私たちのよすがです。ここに私たちの教会は建つ。
ある人が22節の「真理」について面白い説明をしていました。「真理」とは何かを考えるために、その反対は何かを考えてみよう、と言うのです。普通は「虚偽」と思うが、この真理の反対は「幻滅」だと言うのです。面白い説明です。そして、よく分かる説明です。私たちもしばしば愛に幻滅します。教会に幻滅することもあるかも知れない。結局は教会もこんなものかなどと、自分を棚に上げてすぐに考え始める。しかし、どうなのでしょう。繰り返します。草は枯れます。花も散ります。変わらないのは神の言葉だけです。キリストだけです。福音だけです。永遠に変わらないキリストの福音だけが私たちを救う。私たちを教会にする。そのただ一つの事実に、何度でも、繰り返し立ち帰りましょう。私たちの教会はここに建つのです。