主よ、献げます

和田一郎牧師 説教要約
2024年11月24日
歴代誌上29章10-20節
ルカによる福音書20章45-21章4節

Ⅰ. 「見せかけ」

エルサレムに入られたイエス様は、律法学者やファリサイ派や祭司たちと、緊張感が高まっていきます。十字架に架かられる最後の一週間の中で、イエス様は私たちの信仰生活にとって大切なことを教えてくださいました。聖霊を「弁護者」と言って聖霊の大切さ、神殿から商売人を追い出した宮清めは礼拝を捧げる大切さ、弟子の足を洗いながら謙遜に生きる信仰生活などを教えてくださいました。今日の箇所では神様に捧げて生きる生活、献身と献金について弟子たちに教えています。そして「律法学者に注意しなさい。」と律法学者たちの態度を例に出して教えています。いったい何を注意するのか。それが20章47節にある「みせかけ」という言葉に現れています。律法学者というのは神様の律法を守り、神様に従う信仰生活を教える人たちです。その指導的立場にある人が、立派な服装で人前をあるいて挨拶をされることや、会堂や宴会の席では上座(じょうざ)に座ることを好んでいる。また、夫を亡くした、貧しいやもめの家から、お金を巻き上げていた。つまり表面的には社会的にも立派な人が、内面的には神様の教えに反していることを厳しく指摘したのです。
 それは神殿にある献金箱に献金する様子を見ても同じことが言えたのです。神様に対する信仰というのは、目に見えるものではありませんが、何かの形で表れてくるものです。イエス様に見せかけは通用しません。そのイエス様が、金持ちたちと、夫を亡くしたやもめの女性が献金箱に献金を入れるのを見ておられました。

Ⅱ. レプトン銅貨二枚  

「献金箱」は私たちにとっては神社やお寺にあるお賽銭箱のようなものであったようです。そこに金持ちたちが多くのお金を献金している様子と、貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を献げた様子をイエス様は見ていたのです。ルカの福音書はそれだけしか書かれていませんが、並行箇所のマルコの福音書を見ると、「大勢の金持ちがたくさんいれていた」とあります。金持ちが大勢いた、人前でたくさんのお金を入れる様子が分かるのですから、この献金箱というのは、人目にも多くの献金か、少ない献金か目につく場所にあったようです。ですから少ない献金でも気軽に捧げることができる献金箱というより、立派な人たちが人目につく中で捧げるような雰囲気がある所であったのかもしれません。それが前の箇所の、会堂では上席、宴会では上座に座りたがる事と繋がっていて、この献金箱というのは立派な人たちの見せ場のようになっていた、そのような雰囲気があったのではないでしょうか。そこに、やもめがレプトン銅貨二枚を捧げに来たのです。それも「生活の苦しいやもめ」とありますから、見た目にも貧しさが分かるような女性だったようです。それは献金箱に次々と大金を入れる金持ちとは、違った雰囲気の人、異質感があったのではないでしょうか。そもそも神殿で神様に捧げる献金というのは、人目を気にすることなく神様との関係の中で捧げるものですから、そのような雰囲気があってはならないのでしょうが、当時の律法学者、祭司たちといった神殿を守って運営する人たちの信仰が、献金箱の雰囲気に現れていたのではないでしょうか。やもめが入れたのはレプトン銅貨二枚です。

レプトン銅貨は、聖書の付録に「最小の銅貨で、1デナリオンの1/128」とあります。二枚で二レプタだと1デナリオンの1/64です。1デナリオンが、一人の労働者の日当だとされていますから、平均的な日当の64分の1のお金を、このやもめは献げたということです。金持ちたちが献げた多額の献金に比べたら、大きい金額ではありません。しかし夫を失ったやもめは、よほどの財産を受け継いでいない限り、基本的に収入のない、貧しい生活をせざるを得なかったのです。当時は、女性が働いて男性と同じように賃金をもらえる時代ではありません。旧約聖書に出てくるやもめの女性も親戚などに頼るしかなかったのです。日々、生活することが大変だったのです。日々の生活に不足を感じて、明日のことでさえ不安を抱えるやもめにとって、レプトン銅貨二枚は少ない金額ではありません。当時の男性の日当の64分の1の金額でさえ、不足している生活費の中から出す貴重なお金だったのです。
しかし、この聖書箇所は、貧しいやもめのレプトン銅貨二枚が小さい金額なので「献金は少なくてもいい」という主張によく誤用されてきました。「献金は気持ちの問題だから金額は少なくていい」と間違った解釈に陥りやすい聖書箇所です。「献金は金額ではない」いうのは正しくもあり、間違いでもあります。「金額によって人の信仰をはかることはできない」という意味では、献金は金額ではないのです。しかし、イエス様は金持ちたちの献金とやもめの献金とを比較して、誰よりも一番多く献金したのは誰か、とおっしゃっているのです。「この貧しいやもめは、誰よりもたくさん入れた。」と彼女を認めておられるのです。そこには、たくさん献金することの大切さ、それをイエス様が、そして父なる神様がお喜びになることが示されています。なぜかというと、そこに神様との関係性が表われているからです。
神様からの恵みはどれくらい受けていますか?と質問されたら、どう答えますか?同じように恵みを与えられていても「少しだけだな」と言う人もいれば、「私は沢山の恵みを頂いた」という人もいる。少ないなと答える人は感謝も少ない、捧げものも少なくなるし、沢山恵みをいただいたと思っている人は、感謝して多くを捧げることでしょう。同じように与えられていても、神様との関係性は捧げものに現れてくるのです。
神殿に献金されたお金はイエス様の懐に入るわけでは全くありません。また、貧しい人々を助けるために使われるわけでもありません。それを知りながら、イエス様は、たくさんの献金をすることを勧めておられるのです。それは、これが何のために使われるのかに焦点を当てることではなくて、この献金が主なる神様への信仰、信頼の表明として献げられるものだからです。
やもめのわずかな献金が「乏しい中から生活費を全部」と言った意味の真意は、全財産ということではなくて、やもめの生活全部において神様と結びついている、貧しくても神様の恵みは十分に満ちていて感謝している、やもめと神様との関係性の現れをイエス様は見ているのです。やもめの生活すべてが、神様に捧げる生き方をしている、その「信仰のしるし」であるがゆえに、イエス様は称賛してくださったのです。

Ⅲ. すべては神の所有物

 「やもめは生活の全部を入れている(捧げている)」ということを掘り下げて考えてみたいのですが、そもそも、私たちが手にしている財産や社会的地位は自分で獲得した自分の所有物ではなくて、「神様から与えられた」という信仰が根源にあるかないかが重要です。今日の旧約聖書の箇所を見て見ましょう。

(歴代誌上29:11-12)「主よ、偉大さ、力、誉れ、輝き、威厳はあなたのもの。まことに、天と地にあるすべてのものはあなたのもの。主よ、王国もあなたのもの。あなたは万物の頭として高みにおられます。富と栄光は御前より出、あなたは万物を支配しておられます。勢いと力は御手にあり、その御手によってあらゆる者を大いなる者、力ある者となさいます。」
これはダビデ王が、神殿を建設するための財産を目の前にして神様に祈った言葉です。ダビデ自身が集めたと言ってもいい財産です、これだけの財産を集めることができる権威、王としての実力を誇ってもいい場面です。しかし、それを前にして「天と地にあるすべてのものはあなたのもの・・・王国もあなたのもの」と告白しています。この世の価値観では自分で集めた財産は自分のものです。王様にとって国は自分のものです。しかし、ダビデは、天と地にあるものは、そもそも神様から与えられたもので、神様からの預かりもので、それを自分で貯めこむのではなくて、神殿を建てて神様に捧げるというのです。
 旧約聖書では、生け贄として神様に捧げ物をしていました。その神様に差し出すのは、十分の一というのが、ひとつの基準です。
レビ記に「地の作物であれ、木の実であれ、大地の産物の十分の一は主のものである。それは主の聖なるものとなる。」(レビ 27:30)
収入の10分の1を捧げる「十一献金」は、キリスト教会が誕生した初代教会から2千年の歴史を通して大切にしてきました。
私たちは、毎日毎日働きて、額に汗して働いた労働の報酬としてお金を手に入れます。ある人は、世帯主を生活の面で支えて収入を得ているでしょう。すると私たちは「自分が苦労して自分の知恵で獲得した収入だから自分のもの、自分の家族の努力の賜物」として金銭を手にするということになりがちです。けれども、財産を得る力を、その能力のみならず、その手段や機会も含めて、創造主である神から与えられているという認識に立って、「天と地にあるすべてのものはあなたのもの・・・王国もあなたのもの」とダビデが言ったように、生活の全てを与えてくださった神様に感謝すること、生活のすべてを通して神様の「しもべ」としいて生きる、その喜びとして「十分の一」を捧げることを大切にしたいのです。

Ⅳ. 感謝と献身のしるし

献金とは、感謝と献身の現われです。イエス・キリストの十字架の救いによる神の愛にあずかった私たちが、その神の愛に対する感謝の現われとして捧げるものです。さらに献身とは、キリストが私たちのために、ご自身の命を犠牲として捧げてくださったことに対して、私たちもまた、自分自身の身を捧げて応答するという「献身」のしるとして捧げられるものでもあります。私たちが神様の愛を覚え、感謝と喜びをもって献金をささげるとき、神はそれを喜び、祝福してくださることは聖書の約束でもあり、多くの信仰の先輩たちの実際の経験でもあります。
やもめの女性は、生活全体で自分の身を神様に献げています。祭司でもなく、今日の牧師や宣教師のような身分ではありませんが、生活全体を通して献身していたのです。その恵みとして、彼女は、他の人と自分を比較することから全く自由にされていました。神殿の献金箱を取り巻く空気とは関係なく、自由に献金を捧げたのです。他の人との比較によって右往左往する人生からの解放への道は、自分を神様にお献げすること、献身にあります。自分で得たものは、自分のものだと抱えている限り、つまり人生の中心は自分だと考えている限り、他人と自分を比較する人生から抜け出すことができません。神様に生活全部を通して捧げる生活は、競争社会に翻弄されたり、人と比べあったりすることから解放された本当の自由が与えられます。自分の人生を自分らしく生きていくことができる、それがイエス・キリストに従っていきる、キリストにある自由です。献金も献身も、心から喜んで「主よ、捧げます」という信仰によって解放が与えられるのです。
これからの信仰生活、キリストにある自由を味わっていきましょう。お祈りをいたします。