救い主の道備え
<第1アドベント> 和田一郎牧師 説教要約
2024年12月1日
イザヤ書40章1-11節
ルカによる福音書1章5-25節
Ⅰ. 不妊の女と夫
きょうはアドベント第一主日となります。クリスマスも近づいています。聖書はイエス様の誕生の前に、一人の人物の誕生について記しています。それはバプテスマのヨハネという人です。彼の働きは当時の人々にとって、とても大きな影響を及ぼしました。このヨハネの誕生の経緯を通して御言葉を分かち合っていきます。
ヨハネが生まれてきたのは、イエス様よりも半年ほど先です。この時代のユダヤはヘロデ大王の時です。紀元前37年から紀元後4年までユダヤ全体を支配していた王でしたが、イスラエルの歴史において最も悲劇的な時代でした。そのような時代にイエス様が生まれたのです。そしてその六か月ほど前に、その先駆者であるヨハネが生まれました。
Ⅱ. 祈りは聞き入れられた
ザカリアは神に仕える祭司で、「アビヤ組」に所属していました。アビヤ組というのは、その昔ダビデが祭司を組織するためにそれを二十四組に編成したその組の一つです。
一方、妻のエリサベトもアロンの子孫でした。アロンの子孫ということは祭司の子孫ですから、彼らは同じアロンの子孫同志で結婚したことになります。そうすることによって祭司としての尊厳と純潔さを守ろうとしていたのでしょう。
祭司であるザカリアは、自分の組が当番に当たると神殿に入ってその役割を担います。当時は祭司が二万人ほどいて、組ごとに順番に神殿で奉仕をすることになっていました。そして、神殿の奉仕においての役割り分担は、すべてクジで決められていました。ザカリアがクジを引いたところ、彼は聖所に入って香をたくことになりました。これは、とても名誉ある奉仕です。というのは、それは民を代表して神に祈りをささげることを象徴していたからです。ですから、ザカリアが香をたくあいだ大勢の人々が外で祈っていました。
ザカリアは聖所に入って香をたきました。11節「すると、主の天使が現れ、香をたく祭壇の右に立った。」とあります。この主の天使とは19節を見ると、「ガブリエル」という名の御使いであったことがわかります。「ガブリエル」とは「神の人」という意味で(神のことばを伝える天使)と思われていました。ザカリアにこう言いました。
「恐れることはない。ザカリア、あなたの祈りは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。」(13-14節)
ザカリアが恐れるのも無理はなかったでしょう。彼は自分の身に何が起こっているのかを理解することができず不安を覚えていたのでしょう。ザカリアは神の御前に正しく、また非難されることのない者でしたが、天使が現れ話しかけられるのは特別な人間に限られています。
天使は「ザカリア。あなたの願いが聞かれたのです。」と言いました。
ザカリアの願いとは、いったい何であったのでしょう。それは自分たち夫婦に子どもを与えて欲しいということです。彼らは若い時から「子どもを授けてください」、「子どもを与えてください」と祈っていたにもかかわらず、与えられませんでした。1年経っても、2年経っても、何年経ってもエリサベトが身ごもることがなかったのです。でも彼らはあきらめずにずっと祈り続けていたのです。祈りはいつか必ず聞かれると信じていました。彼らは不条理な世の中に生きていても、祈ることはやめませんでした。それは神さまへの信頼があったからです。そして、今、目の前で天使が「あなたの願いが聞かれた」と言うのです。
聖書には不妊の女が多く登場しますが、聖書の時代、女は子を持つことによって神の祝福を実感し、社会の中での生きるべき場所をもつことができました。しかし、女性にとって「不妊」は夫に捨てられる原因にもなりえました。それが当たり前の時代です。
今のように「子どもがいなくても仕事に生きていく」とか「子どもは苦手だから持たない」などといった選択肢はありません。子がないということは世間の中で苦しみと恥辱を味わうことでした。それを打開する道はない、人間には不可能、しかし人間には不可能なことも、可能にしてくださる力と恵みが神さまから与えられる。
聖書には不妊の女が何人もでてきます。アブラハムの妻サラもその人です「不妊の女」であった90歳のサライに神様は目をとめられ、憐みと慈しみをもって恵みを与えてくださいました。主なる神さまはそのような神です。自分の力ではとうてい立ち上がることのできない現実を前にした人間の祈りに応えてくださる神さまです。
私たち夫婦は晩婚でした。私が40代後半、妻は40代前半での結婚でしたが、結婚して数か月で妊娠が分かった時は「けっこう簡単に妊娠するものだな」と思いつつ素直に嬉しかったのを覚えています。「そうか私でも父になれるのか・・・」と初めて産婦人科に付き添いで行きました。ふつうの病院は沈痛な思いで行くものだけど「産婦人科って幸せいっぱいだな」などと思いました。
妊娠安定期になるまでは人に言いたくても言えませんでしたが、次の受診で予定日が教えてもらえる、安定期になるから人にも公表できると、楽しみにして行った日の診断で「胎児の心臓が止まっています」と言われ手術することになりました。嬉しい知らせをする準備をし、喜びを人に伝えられると思った矢先でまさかの流産。手術が終わって院内では我慢していた妻が、出口を出ると声をあげて泣いて、その妻を支えて帰った日のことは忘れられません。「産婦人科は幸せでいっぱいだ」などというのは独りよがりな見方でした。それからしばらく、「私、妊娠は難しいと思う」と妻が口にしていた、結婚1年目の春のことでした。
Ⅲ. ほんとうですか?
ルカによる福音書1章18節からを見ると。
主の宮で祈っていたザカリアに主の使いが現われると、驚くようなメッセージを告げました。するとザカリアは何と言ったでしょうか。「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」と答えるのです。
ザカリアは祈っていました。しかし、あまりにもうれしかったのか、あるいは、よく考えてみたらそんなことが起こるはずがないと人間的になってしまったのか分りませんが、信じられなかったのです。子どもが生まれるのには、自分たち夫婦はもう年を取りすぎていると言っているのです。今まで必死に祈ってきたのですが・・・しかし、神様のタイミングは人間にとっては不思議に思えることがあります、でもそれは神様の側にたってみると最善の時なのです。ザカリアはこの時、信じなかったので、ヨハネが生まれるまで、ものが言えず、話せなくなりました。つまり沈黙して考える時間が与えられたのです。このできごとは、いったい何を意味しているのだろう?そして、口が利けなくなったザカリアの様子を見た周囲の人々も、神様が働かれたことを感じていました。
Ⅳ. 主は覚えておられる
その後、妻エリサベトは身ごもり、五か月の間身を隠していました。この五ヶ月間は夫のゼカリアも口が利けず、人目を避けて静かに過ごす生活を通して、エリサベトは(25節)「主は今、こうして、私に目を留め、人々の間から私の恥を取り去ってくださいました。」と、神様の憐みと慈しみのゆえに、今、祈りがかなえられたことを確信しました。
今の時代、40代の高齢出産は増えましたが、おそらくエリサベトはもっと年を重ねていたと思われます。これは本当に人の力ではないことを、ザカリアとエリサベト夫婦は噛みしめていたのではないでしょうか。そのような恵まれた五か月だったのではないでしょうか。それだけにエリサベトは、神様が自分のことを心にかけてくださった、長い年月の恥を取り去ってくださったと言ったのです。
ザカリアという名前は「主は覚えておられる」という意味です。祈り続けていた人が、忘れてしまう頃になっても、神様は忘れることなく、最善のタイミングで祈りを叶えてくださいます。人間は自分のタイミングで自分の思い通りの願いを求めてしまうのですが、それがその人にとって最善であるとは限りません。やがてザカリアは御使いが言われたとおり、「その名はヨハネ」と板に書き記した瞬間、話ができるようになりました。
洗礼者ヨハネの誕生から学ぶことは、一人の命が生まれることにおいても、それは祈られていたということです。そして、それはイエス様の誕生においても同じことです。メシアの到来をイスラエルの民は祈っておりました。そのタイミングはいつなのか分からなくても、諦めることなく祈っていたのです。祈りは聞かれる。
祈りがかなえられる、その時が最善なのです。お祈りをいたします。
