救い主の降臨
<第2アドベント> 和田一郎牧師 説教要約
イザヤ書61章1-4節、ルカによる福音書1章26-38節
2024年12月8日
Ⅰ. はじめに
先週の礼拝では、第一アドベントの礼拝で、ザカリアとエリサベトの二人に注目しました。今日の箇所は、イエスの母マリアに起こった出来事です。26節に「六か月目に」とあります。いつから六か月なのでしょうか。前回の話で、ザカリアとエリサベトの老夫婦には子どもがいませんでしたが、夫であるザカリアがエルサレム神殿の聖所で務めをしていた時、天使が現れ、妻エリサベトは男の子を産む、そして、生まれてくる子をヨハネと名づけるようにと告げました。しかしザカリアは天使の言葉を信じられなかったのです。もう子どもを産めるような歳ではありませんでしたから。神様の言葉を信じることができなかったので、ザカリアは子どもが産まれるまで口が効けなくなりました。そして、天使が告げた通りエリサベトは男の子を身ごもりました。エリサベトが身ごもってから六か月目に、ザカリアに現れた時と同じ天使ガブリエルが、ガリラヤ地方のナザレという町に現れました。ダビデ家のヨセフのいいなずけである、マリアのもとに遣わされたのです。
Ⅱ. ナザレのマリア
マリアはガリラヤのナザレに住む娘でした。マリアという名前は新約聖書にたくさんでてきます。出エジプト記でモーセのお姉さんにミリアムという女性ができますが、そのミリアムのギリシャ語読みがマリアとなります。当時は結婚年齢が早かったため、このときのマリアは12歳ぐらいだったと考えられています。当時のユダヤ社会では普通のことでした。つまり、当時の社会の習慣にしたがって田舎のごく普通の娘であったマリアは婚約していたのです。キリスト教の歴史では、マリアが特別な人物として扱われることもありますが「ルカによる福音書」は、マリアを普通の田舎の娘として語っています。マリアが特別だったわけではなく、神様の一方的な恵みによって目を留められたのです。そのことに注目したいと思うのです。
マリアが生まれ育ったガリラヤ地方は、エルサレムから60キロ以上離れた北の地域で、イスラエルの中では田舎になります。その中でもナザレは旧約聖書にも記録のない小さな農村だったといわれています。エルサレムはユダヤの中心地でしたが、当時の世界の中心はローマでした。しかし、全世界の救い主であるイエス・キリストの誕生の予告は、世界の中心であったローマではなく、ユダヤの中心であったエルサレムでもなく、知られていない小さな村ナザレでなされたのです。
その小さな村ナザレに暮らしていたマリアは、ダビデ家のヨセフのいいなずけでした。「ダビデ家のヨセフ」とあります。サムエル記下7章16節に「あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえに続く。あなたの王座はとこしえに堅く据えられる」と預言者によって、ダビデ家、ダビデ王国は永遠に続くと預言されていました。ですから、いつの日か必ずダビデ家の子孫が国を復興してこの預言が実現する、そのことによってイスラエルの民の救いが実現すると待ち望んでいたのです。
Ⅲ. 天使ガブリエル
マリアのところに天使ガブリエルがやって来て、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と告げました。いったい何が「おめでとう」なのか、と彼女がひどくとまどいました。マリアが不安になったのは「おめでとう」という天使の言葉です。マリアは「いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」のです。天使は続けて言いました。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれる。神である主が、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
マリアが神から与えられた恵みとは、男の子を身ごもって産むことであり、その子が偉大な人になるということです。マリアは天使に言います。「どうして、そんなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに。」マリアとヨセフはまだ婚約の状態ですから、二人が性的な関係をもつことは許されていません。マリアにとって男の人と関係することなしに子どもを身ごもることは、起こるはずのないことです、姦淫の罪に問われかねない恐ろしいことです。
不信仰な人間にとって、このような言葉は、すぐに受け入れることができません。あの正しい人と呼ばれたザカリアであっても「あなたの祈りは聞かれた、あなたの妻は男の子を産む」と言われた時、彼はすぐに言いました、「どうして、それが分かるでしょう。私は老人ですし、妻も年を取っています」(18節)。そして今、マリアも言います、「どうして、そんなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに」(34節)。齢を重ねているゆえ、もう子どもを産むことなどできるはずがない、まだ男性と関係を持ったことがないのだから子どもが産まれるはずがない。そのようにわたしたちは人間的な思いから、神様の恵みを拒んでしまうことがあるのです。
しかし、ザカリアの場合とマリアとでは違いがありました。ザカリアの場合は天使の言葉を信じることができなくて、しばらく口が利けなくなったのです。しかし、マリアの場合はそのようにはなりませんでした。ザカリアは、自分たち夫婦がもう年寄りなので子供を産むことは不可能だと思ったのです。それは「疑い」の質問だったのです。しかし、マリアが天使に言った質問は違います。「どうして、そんなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに。」マリアの質問は、疑ったのではなくて、驚いたのです。まだ男の人を知らないのに、そのようなことが起こり得るのでしょうかという驚きの言葉でした。そのようなこと考えられません。考えられないことがどのようにして起こるのか、というのがマリアの思いでした。
さらに天使は35節で「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを覆う。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」と言いました。確かにマリアは信仰深い女性です。それでも天使に「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」と言われたとき、手放しで喜べるような気持ちにはなれなかったでしょう。むしろ恐れを感じたのではないでしょうか。こんな卑しい自分がどうやって、いと高き神の御子の母になるというのでしょう。考えられません。また、たとえそうなったとしても、いったいそれをどのようにヨセフに説明できるというのでしょう。彼女は驚き、戸惑い、不安になったことでしょう。
Ⅳ.「お言葉どおり」
しかし、次の天使の言葉は、マリアの不安を取り除く言葉であったでしょう。36節「あなたの親類エリサベトも、老年ながら男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている」と、天使はマリアの親戚のエリサベトの名前を出しました。あの老齢に達しているエリサベトも身ごもっている、ということも信じられないことです。しかし、それが事実であれば、この自分に起こっていることも事実かも知れない。エリサベトの子、洗礼者ヨハネが生れてくる使命は、イエス様が歩まれる道を整えるためです。イエス様を身ごもる母マリアにとっても、ヨハネが老齢のエリサベトから生れることを知ったことで、マリアの心を整える道備えとなったのです。さらに天使の言葉がありました。37節「神にできないことは何一つない。」マリアは「あっその通りだ」とこの言葉に信頼したのです。人間にできないことはいくらでもあるが、神にはできる。神にできないことは何一つない、その神に信頼をおくならば、心配することは何もない。そこで38節「マリアは言った。『私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように。』」そこで、天使は去って行きました。
マリアは主の言葉に対して、まず、自分が主の仕え女にすぎないと受け止めました。どうぞ、あなたのお言葉どおりになるようにと、すべてを主に委ねました。「仕え女」とは奴隷の女のことです。奴隷とは、主人の意志に従う者のことです。それは簡単なことのようでなかなかできることではありません。人は自分を捨てることができないからこそ、心の中で葛藤するのです。マリアは、これからの事を一つ一つを心配していたら悩みは尽きなかったでしょう。ヨセフに何と言ったらいいのか。自分の両親さえも信じてもらえるのか。その子を育てていくことができるのだろうか。しかし、彼女は自分の力ではなく、自分は主の仕え女にすぎないと言って、これから起こることを、すべて神様に委ねたのです。
神様はマリアの人生に働きかけました。私たちの人生にも働きかけておられます。私たち人間には、それぞれの人生があります。生活があります。いつも共にいてくださる神さまは、そのどこかで働きかけてくださっています。それが世界の中心的な都市ではなくても、片田舎のひっそりとした生活の中で暮らしている人にも、神様は働きかけてくださいます。それは、ほんの僅かなことかも知れませんし、生き方そのものを覆す大きな出来事かも知れません。そして、決して喜ばしいことだけではないのです。厳しさやチャレンジをともなう方向転換を求められることもあります。しかし、そのようなことでも「おめでとう、恵まれた方。」と神様は語られるのです。「おめでとう」というのは「喜びなさい」とも訳される言葉です。厳しさやチャレンジをともなう方向転換であっても「喜びなさい」という言葉と共に、神様は私たちの日常の中に介入されて働かれます。そこで私たちは、えることができるでしょうか。「お言葉どおり、この身になりますように」という神様を信頼した告白です。人には「変わりたくない」「このままでいたい」という思いがあるので、簡単には方向転換できない性質があります。しかし、自分の力でするのではない、人間の力では難しい、自分は難しいけれど「神にできないことは何一つない。」この言葉に信頼したいのです。イエス・キリストは弟子たちを見つめて言われました。「それは人にはできないが、神には何でもできる。」(マタイ19:26)その言葉を実現するために、イエス様は地上に来られました。私たちはその喜びを待ち望むアドベントを過ごしています。日々、神様の働きかけを意識して、主に委ねて、神様の御心がこの身になりますようにと、願い求めていきましょう。お祈りいたします。

