救い主の預言と成就
<第3アドヴェント> 宮井岳彦副牧師 説教要約
イザヤ書7章13,14節
マタイによる福音書1章18-23節
2024年12月15日
Ⅰ. 世界は変わった…?
この季節を迎えると、何人かの方から「喪中につき新年の挨拶を欠礼する」という知らせが届きます。そのようなこともあって、この時期を迎えるとご自身の家族や大切な人を喪ったということを改めて思う方も多いのではないかと思います。
私にとって、この年の大きな別れは、神学生時代から長く指導して頂いた加藤常昭という先生が亡くなったことです。牧師としてのお働きを隠退されてからは、特に説教塾という牧師たちの学びのグループの指導に力を注いでくださいました。私もそこでご指導頂いた者の一人です。
加藤先生とのほとんど初めての出会いに近い頃の思い出です。2001年のクリスマスのこと。神学校の友人と一緒に当時まだ厚木にあった青山学院大学を会場にして行われたクリスマス礼拝に出席しました。加藤先生が説教をしてくださった。わずか三ヶ月前に、米国の同時多発テロが起きたばかりのことです。
あのテロ事件によって世界は変わってしまった。テレビではしきりにそのように言われていました。実際、あの後すぐにアフガニスタンで戦争が始まり、泥沼化していきました。加藤先生はおっしゃいました。「あの9月11日に世界は変わったと言われているが、本当にそうなのか。世界は変わったのか。そうではない。世界は2000年前の最初のクリスマスの時も、今も、変わることなく闇に包まれている。人間の罪が生み出す闇に他ならない。その闇の中に神の子イエスがお生まれになったのだ。」忘れがたいクリスマスの思い出です。
Ⅱ. 深い穴蔵の底
加藤先生にはたくさんのことを教えていただきました。いろいろな人を紹介してくださいました。その中でも忘れがたい一人は、スイスの牧師であり神学者であるルードルフ・ボーレンという方です。この先生はスイスやドイツの神学大学で実践神学の教授として長く教鞭を執り、神学生たちの指導をしてこられました。ある時、ボーレン先生は神学生たちに、心を病む人を牧師としてどのようにケアするのかということを教えておられた。その講義をしているとき、ご自宅で奥様が自ら命を絶ってしまった。奥様は長く心を病んでこられたのだそうです。ボーレン先生ご自身もその出来事があって深く心を病み、何年も病の底に沈むようにしてお過ごしになったそうです。
やがて、ボーレン先生は奥様とご自身の病、そこから立ち直った経験をもとに一冊の本を著されました。『天水桶の深みにて』という書名で日本語でも読むことができます。この書名ですが、翻訳した加藤先生が注を付けておられまして、原題を直訳するとむしろ「深い穴蔵の底で」といった意味合いなのだそうです。深くて暗い穴蔵の底にうずくまって、岩肌から僅かに滲みだしてくる水によって生かされる。ボーレン先生の病はそういう時間だった。
その中でボーレン先生が心の病の特効薬として発見したのが、ハイデルベルク信仰問答が告白する信仰の言葉でした。「私は、生きているときにも死ぬときにも、私自身のものではなく、私の真実なる救い主、イエス・キリストのもの。」この事実を何度も何度も自身の心に語りかけ、ボーレン先生は立ち直った。
私たちも同じです。私たちも深い穴蔵の底にうずくまって、どこにも光が見えず立ち上がることもできないとき、キリストはその暗闇の中で私と共にいてくださり、私をご自分のものとしてくださっている。その事実が私たちを立ち直らせるのです。
Ⅲ. ヨセフがうずくまる穴蔵
クリスマスの出来事はこの世界の片隅にいるような、若くて小さなカップルから始まります。
婚約中だった二人。しかし、二人がまだ一緒になる前にマリアは聖霊によって身ごもりました。これはマリアにとっても大変なことでしたが、ヨセフにとっても受け入れがたいことだったはずです。マリアは、自分の所に天使が来たこと、天使が自分に告げたことを一体どのような言葉で伝えたのでしょうか。ヨセフはその言葉をどのような気持ちで聞いたのでしょうか。マリアが言っていることを信じ、受け入れられたとは考えられません。ヨセフの目の前には、自分の愛する婚約者は不貞を働いた、どこかの男のこどもを身ごもったという残酷な現実しか見えなかったのです。少なくとも、ヨセフにとってはそうです。
それで、ヨセフは彼女を秘かに離縁しようとしました。そのことを聖書は「夫ヨセフは正しい人であったので」と説明しています。旧約の律法に照らせば、もしもヨセフがマリアを告発して、彼女が不貞をしたと訴えたとしたら一体どうなったのか。恐らくマリアは死刑です。それほど重い罪だった。しかし、ヨセフにはそれができませんでした。そうかと言って、彼女を迎えて、お腹の子どもを一緒に育てることもできませんでした。自分の知らないところで宿った子。どんなに成長しても自分の面影を少しも宿さない子。その子を受け入れることはできない。それでもマリアはその子を慈しんで育てるでしょう。そんなマリアを見ることは耐えられない。ヨセフはマリアを秘かに離縁することにした。
しかし離縁したら一体何が起こるのか。恐らく、彼らの住む小さなナザレ村は噂で持ちきりになるはずです。マリアがヨセフから離縁された。しかし見てみろ、マリアは妊娠しているではないか。一人で出産したではないか。ヨセフは婚約者に手を出して妊娠させた上に彼女を離縁したのだ…。ヨセフはそうやって自分が一人で泥をかぶる覚悟でマリアを離縁しようと考えたのかも知れません。
しかし、ヨセフのしようとしたことは、愛なのでしょうか? 天使がヨセフの夢に現れて言いました。「恐れずマリアを妻に迎えなさい。」恐れるな、と天使は言います。つまり、ヨセフは恐れていたのです。嫉妬や不信や不安でいっぱいになって、心の中には恐れしかなかった。そして彼は恐れていたから、正しさを隠れ蓑に、愛しているように装って彼女を離縁しようとしたのです。
ヨセフは、深い穴蔵の底に沈み込み、うずくまります。どこにも慰めがありません。ヨセフは暗闇に包まれていました。光が見えませんでした。だから、マリアと共に生きることができませんでした。この穴蔵のどん底、果てしない闇、それは共に生きることができないという私たちの罪の闇です。いちばん助けを必要としている人、誰よりも愛すべき人を愛することのできない、私たちの罪が生み出す闇です。
Ⅳ. インマヌエル
今、私たちの生きるこの世界は崩れています。本当に壊れています。2001年のテロから23年経ちました。あの時よりも、この世界はいくらかマシになったのでしょうか。それは、私にはよく分からないところもあります。ただ、今も戦争が続いていることは知っています。お隣の国でもおかしな事件がありました。私たちの国では、若者がアルバイトのつもりで強盗に手を貸しています。しかし、世界はある日、ある出来事をきっかけに突然暗闇の中に落ち込んだのではないのです。この世界はずっと穴蔵の奥底、罪の暗闇の中にのめり込んでいる。罪の闇が私たちを損なっている。
天使はヨセフに言います。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」イエスという名は「主は救い」という意味です。主は救い。何から救ってくださるのか? 罪からです。イエスと名付けられるわたしたちの主であるこのお方は、ご自分の民である私たちを罪から救ってくださる。罪の暗闇にうずくまって、穴蔵の奥底で光が見えずに呻いている私たちを、罪から救ってくださるのです。
どのようにして、救ってくださるのでしょう。福音書を書いたマタイが天使の言葉に注を付けるようにして、旧約聖書の言葉を私たちに紹介しています。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」イヌマヌエルというのは「神は私たちと共におられる」という意味です。私たちを罪という穴蔵のどん底から救ってくださるお方、私たちのうずくまる暗闇を照らす光となってくださったお方、それは私たちと共にいてくださる神、イヌマヌエル! イエスという救い主は、私たちの呻く穴蔵の奥底、真っ暗な罪の闇の中に分け入ってきてくださったのです。
加藤先生が教えてくださったことの一つですが、喪中につき年賀状の欠礼というのはもうやめませんか、とおっしゃっていました。私たちには確かに悲しいことがある。あるいは賀状欠礼は、死のけがれを外に出さないという意味もあろう。しかし、私たちはそうは考えない。キリストは私たちの呻く穴蔵の底にまでおりてきて、私たちと共にいてくださるお方です。今年は悲しいことがあった。しかし、キリストが慰めてくださった。そのようにクリスマスの祝いの手紙を書くことはできるのではありませんか、と言うのです。
神は我らと共におられる。このクリスマスの知らせは、あなたのための知らせです。あなたが生きるこの世界のための知らせです。神は、あなたと共に、あなたが今いるその穴蔵の底にいてくださいます。

