闇に輝く光

<クリスマス礼拝> 和田一郎牧師 説教要約
イザヤ書62章6-12節
ルカによる福音書2章1-20節
2024年12月22日

Ⅰ. 預言の数々と期待の高まり

クリスマスおめでとうございます。12月1日の第一アドベントの主日から、イエス様が地上にお生れになる出来事を予告する出来事を見てきました。最初に洗礼者ヨハネが生れる予告。母マリアへの受胎告知、そして父ヨセフの夢の中での予告がありました。ルカによる福音書はイエス・キリスト誕生の物語に二つの章を割いていて、他の福音書と比べて最も多く、キリスト誕生を扱っている福音書です。1章にある「マリアの賛歌」ではイエス様が生まれる喜びが謳われ、「ザカリアの賛歌」では洗礼者ヨハネが、イエス様の道備えとして生まれる喜びが謳われました。このようなイエス様誕生の予告だけに1章を費やしています。第1章で主イエスの誕生が語られていますし、イエス様誕生はまだかまだかと、期待させるかのようです。その期待というのは福音書には書かれていませんが、当時のユダヤ人たちにとっての期待の高まりを表わしているように思えます。
旧約聖書の物語が終わってから、新約聖書の物語の始まりまでの空白の時代が400年ほどありました。中間時代と呼ばれている時代です。聖書として聖典には選ばれなかった外典などに記録が残っています。それらによると紀元前100年頃からキリスト誕生までの100年程は、ユダヤ暗黒の時代と呼ばれていました。周辺の各国から侵略され、ユダヤ人の中ではファリサイ派とサドカイ派といった対立が激しくなり、同胞の中で殺戮が繰り返されていくような悲劇を繰り返した人々の中で、旧約聖書に書かれているように、神様が解放してくださることを信じて、旧約聖書に書かれたメシアという、あらゆる敵の軍隊を破る真の王の到来を待ち望んでいました。その期待はマリアとヨセフにもあったと思います。ローマ帝国の圧政に苦しんでいた人々にとって、いつかメシアが現れることが唯一の希望だったのです。その期待の高まりが、ルカ福音書に込められていると思うのです。天使ガブリエルはマリアに告げました。「神である主が、彼に父ダビデの王座をくださる」と。
あるいは洗礼者ヨハネの父ザカリアは聖霊に満たされ賛美しました。「主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。」
そのような方が、今まさにお生まれになろうとしている。そのような期待が私たちにも与えられているのです。

Ⅱ. ベツレヘムへの道

預言の成就はまだ続きます。身ごもっていたマリアを連れてナザレからベツレヘムまで旅することは大変であったと思います。マリアはベツレヘムに着くと、すぐに子を産んでいますから、ナザレを出発する時は、すでに出産が近かったのです。マリアをナザレに残して自分だけでベツレヘムへ行くこともできたはずです。しかし、ヨセフはマリアをナザレに残していくことに不安があったのでしょう。さまざまな事情があったにせよ、マリアがベツレヘムまで行き、そこで子どもを産むことが神様のご計画が成就する条件だったのです。
旧約聖書ミカ書5章1-4節に「エフラタのベツレヘムよ あなたはユダの氏族の中では最も小さな者。あなたから、私のために イスラエルを治める者が出る。その出自は古く、とこしえの昔に遡る。それゆえ、産婦が子を産むまで 主は彼らをそのままにしておかれる。彼の兄弟の残りの者は イスラエルの子らのもとに帰って来る。彼は立ち上がり、主の力と その神、主の名の威光によって群れを治める。彼らは安らかに住み 彼は今、大いなる者となって地の果てにまで及ぶ。この方こそ平和である。」と言われています。ルカ福音書は、ナザレに住んでいた二人が、皇帝による住民登録の勅令と、ヨセフとマリアの旅を通して、ベツレヘムから救い主が生まれるという、預言の成就をしっかりと書き記しているのです。
しかし、そのメシアの到来は、「ダビデの王座」とか「大いなる者」とは程遠い場所で起こりました。イエス様が生まれた時の状況はルカ2:6,7節に簡潔に記されています。「マリアは月が満ちて、初子の男子を産み、産着にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる所がなかったからである。」とあります。ベツレヘムに着いた二人でしたが、馬小屋とか家畜小屋などとは書かれていません。ただ「飼い葉桶に寝かせた」とあるだけです。飼い葉桶という言葉から、そこが誰かの家や宿屋でもなく、そこが家畜小屋、馬小屋であったことを意味しています。そして、「宿屋には彼らの泊まる所がなかったからである。」とあるので、マリアとヨセフが泊るところがなかったので、やむを得ず家畜小屋の「飼い葉桶」に寝かせたことが分かります。いつもは動物しかいない家畜小屋に、寝かせるしかなかったからです。
飼い葉桶というのはロバや牛が食べる餌箱のことです。飼い葉桶に藁を敷いて赤ちゃんのベッドを作りました。マリアは赤ちゃんを布で包んで飼い葉桶のベッドに寝かせました。

Ⅲ. 羊飼いたちへのしらせ

ちょうどその頃、ベツレヘムの近くの野原で、羊飼いたちが羊の世話をしていました。羊飼いは夜中であっても、熊やオオカミが羊を襲ってきた時には追い払わなければなりません。一晩中、眠らないで羊の番をしなければいけませんでした。野原は寒くて暗くて寂しい所でした。その真っ暗な空が突然明るくなりました。驚いて震えている羊飼いたちに、神様の天使が話しかけました。
ルカ:10-12「恐れるな。私は、すべての民に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、産着にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つける。これがあなたがたへのしるしである。」すると、たちまち空いっぱいに大勢の天使が現れて賛美しました。
天使たちが天に帰って、空がまた真っ暗になると、羊飼いたちは顔を見合わせて言いました。ベツレヘムへ行って、天使たちが知らせてくれた出来事を見に行こうと。
ベツレヘムに着いた羊飼いたちは、家畜小屋を探しました。目印は「飼い葉桶」です。それが天使が教えてくれた、メシアのしるしだったからです。そしてついに、飼い葉桶に眠っている赤ちゃんを見つけました。羊飼いたちは、毎日野宿をしているので着ているものも汚れていますし、獣の匂いや糞の匂いもしたでしょう。そこが立派な宮殿やお屋敷だったら入れてもらえなかったはずです。しかし、羊飼いたちが気兼ねなく入ることができるのが家畜小屋でした。それが神様のはからい、主のご計画です。
「天使が教えてくれたとおりだ!この赤ちゃんが私たちの救い主だ」と、羊飼いたちは、膝をついて飼い葉桶で眠る赤ちゃんを覗き込み、頭を垂れて礼拝したのです。彼らの様子を不思議そうに見ていたマリアとヨセフに羊飼いたちは話しかけました。野原にいた時、御使いが現れて「メシアがお生れになりました」と教えてくれたことです。

Ⅳ. 「飼い葉桶」というしるし

 これがクリスマスの出来事です。イエス様という救い主がお生れになった。そのことを神様が最初に知らせようとしたのは羊飼いたちでした。羊飼いというのは、当時ユダヤの社会では貧しい人の象徴のような人たちです。ユダヤの法律では一週間に一度「安息日」という日があって、その日は神様を礼拝する日で仕事をしてはいけない日になっていました。でも羊飼いの人たちは、羊に餌をあげる為に野原を移動したり、獣から守らなければならなかったりする仕事がありましたから、裕福な人のように休みをとることができないので、人々から「礼拝することもしない不信仰で貧しい人たち」というレッテルを張られて、寂しい思いをしていました。神様は、そういう世の中で淋しい思いをしている人、貧しい生活をしている人の所に、最初にメシアが来られる事を知らせたのです。そして、イエス様はその後の生涯を通して、そのような淋しい思いをしている人、貧しい生活をしている人たちの中で、一緒に暮らしてくださいました。
ところで飼い葉桶が救い主の「しるし」というのは意外です。馬や牛の餌箱ですからよだれがベタベタに着いていたでしょうし、家畜の臭い匂いもついていたと思うのです。家にあったら外に放り出したい、人目につかないように隠しておきたい物、それが飼い葉桶です。それが救い主の「しるし」だなんて・・・・。
皆さんの心の中には、飼い葉桶はありますか?外に放り出したい物、人目につかないように隠しておきたい物です。私にはあります。人に言えない、言いたくないことがあります。自分でも嫌だと思う汚い物が心の中にあります。悪いことをした思い出であったり自分の性質であったり様々です。それを自分でどうにかできたら良いのですけど。自分ではどう仕様もない、どうにも綺麗なものに変えられないものです。
しかし、そんな人目につかないように隠しておきたい、私たちの心の飼い葉桶に来てくださったのがイエス・キリストその人です。私たちの飼い葉桶の中に、すやすやと健やかに平和の主として来てくださいました。私たちの心の中の暗闇に、寒くて暗い淋しい暗闇に、夜空を照らした光のようなイエス様が来てくださいました。
人が嫌がる飼い葉桶に、イエス様は今も居続けてくださいます。私たちの飼い葉桶にはそれが必要です。光と温もり、ひと言で言うと「愛」です。教会ではそれを「アガペの愛」と言います。私たちの心の中の飼い葉桶にはキリストの愛が必要ですし、イエス様を信じる心を持つことで、私たちの飼い葉桶は、もはや、汚いものでも臭くて匂うものでもない、輝かしいものに生まれ変われるのです。それは神様からの素晴らしいプレゼントです。
 クリスマスの出来事、クリスマスの真実とは、神様からの素晴らしいプレゼント、イエス様が私たちの心の飼い葉桶に来てくださるという「愛」が満たされた喜びの出来事です。
お祈りいたします。