主と共に踏み出し歩む共同体をめざして
和田一郎牧師 説教要約
民数記13章25節-14章9節
2024年12月29日
Ⅰ. 今年2024年を過ごして
今年最後の主日礼拝の日を迎えました。今年を振り返ると、1月のお正月から能登半島地震、翌日に能登半島救援のため派遣された航空機による羽田航空事故から始まりました。アメリカ大統領選挙では、もしかしたらと言われた共和党のトランプ氏が当選。選挙といえば東京都知事選挙や兵庫県知事選挙も関心を集めました。選挙でのSNSの活用が注目されるとともにメディアの選挙報道のあり方も問われた年でした。一方で、スポーツの世界では大谷翔平選手が、春のシーズンスタートの時は、専属通訳のスポーツ賭博スキャンダルがあって、大きな被害と裏切りを経験したにも関わらず、シーズンを終わってみれば、前人未到の「50-50」、ワールドシリーズ優勝そしてMVPと試練を跳ね返えす活躍があって一年を通して励まされました。
この年、みなさんの身の回りで起こった出来事は、どのようなものがあったでしょうか。人との出会いや別れもあったことと思います。
Ⅱ. 聖別されたカイロスの日
月日は連綿と続いていきますが、時間や年月の節目を大切にすることは大切です。クリスマス賛美礼拝でお話しましたが、世の中便利になりました。遠くに短時間で行ける、遠くの人とオンラインでリアルタイムの会話ができる。いつでもどこでも仕事ができます。一日24時間という限られた時間の中で、できることが飛躍的に増えました。便利な時代になったのです。そして複雑になりました。一日が終わって今日は何をしたかな?と振り返ると、あれもした、これもした、今日は誰と会ったかな?あの人がいた、確かあの人もいたと思う。今日、誰と会って何をしたのか振り返る間もなく、次の日がやってくる時代になりました。
それを一年という単位で考えた時も、似たような感覚があるのではないでしょうか?今年一年、何をやったでしょうか。今年、誰と出会ったでしょうか?そして、どんな人との別れがあったでしょうか。立ち止まって振り返る時がないと、すぐに次の年がやってきます。そうした意味でも節目の時を意識することが大切だと思いました。今日は一年で最後の主日礼拝ですが、一週間単位で行われる主日の礼拝が大切だと思いました。それは神さまが与えてくださった安息日です。安息日の礼拝で、日常の生活から聖別されて過ごす礼拝の一時間が大切だと思いました。一週間を振り返り、次の一週間の在り方を定める。今日は一年で最後の礼拝ですので、一年を振り返ることができます。また、1月1日には新年礼拝で心を新たにして臨むことができると思うのです。
旧約聖書「コヘレトの言葉」に、時についての御言葉があります。
「天の下では、すべてに時機があり すべての出来事に時がある。生まれるに時があり、死ぬに時がある。植えるに時があり、抜くに時がある」
(コヘレトの言葉3章1-2節)
私たちは与えられている時がありますが、それには限りがあります。人生には限りがあります。その限られた時間には意味があります。そして、節目の時にも意味があるでしょう。聖書で時間を表わす言葉は「クロノス」と「カイロス」と二つの言葉で区別されています。与えられた人生の時間の長さを表わすのは「クロノス」で、「決定的な機会」、「その時」を意味するのが「カイロス」です。カイロスは「神様が目的のうちに定められた時」を意味言葉ですが、毎週の安息日である礼拝の時というのは、カイロス、つまり神様が一週間の節目として、神様と向き合い、自分を見つめる霊的な安息の時間を指していると思うのです。
2024年という、今年一年を、この神様が与えてくださった安息日の礼拝の時に振り返って頂きたいと思いました。
Ⅲ. 踏み出し歩む民
今年の主題聖句は、「私たちには主が共におられます」旧約聖書の民数記、この言葉は、モーセというリーダーによって、エジプトから逃れてきた数十万人もの民に向けられた言葉です。奴隷として苦しめられていたエジプトを脱出して、荒れ野を40年も旅をしなければならなかったイスラエルの民が、神様が約束して与えようとされたカナンという土地に向かっていた、そして、入る前に偵察しに行った時の話です。これから自分達が住むことになる土地が、どんな所なのか偵察隊を出して調べたのです。
偵察隊は12人いましたが、その中の二人ヨシュアとカレブは、あの土地は良い土地です。ぜひともカナンの地に入っていきましょう。必ず、それができるからと報告しました。一方、他の偵察員は、あそこに上ってはいけない。あそこに住んでいる民は強いからだ、というものでした。民衆がどちらの意見を受け入れたかというと、ガティブな意見に引き付けられたのです。神様の約束の地であるのに「自分たちのものには、とてもできない」という結論に傾いてしまいました。「エジプトへ帰ろう」「エジプトの方が良かった」と。しかし実際は良くなかったのです、エジプトでは奴隷にされていたのですから。しかし、そのように言うのです。不安に直面すると、昔の方が良かったと言い出したのです。結局彼らは、安住の地を見る事なく荒れ野で生涯を終えることになりました。
ヨシュアとカレブ二人は、約束の地に入ることができました。それは、「私たちには主が共におられます」という信仰によって、神様から与えられた良い土地を、良い物として受け入れたからです。
約束の地カナンに入るためには、ヨルダン川を渡らなければなりませんでした。その時、「あなたがたの足の裏が踏むところを、ことごとくあなたがたに与える」と主は言われました。「約束の地を与える」と約束しておられましたが、実際にそれを手に入れ、自分のものとするには、具体的な行動が必要でした。実際に足の裏で、その土地を踏まなければならなかった。神様は、私たちに約束を与え、豊かな祝福を用意しておられます。しかしそれを現実に自分のものとするには、主を信じ、踏み出して行かなければならない。
彼らがカナンの地に入る時、渡らなければならないヨルダン川の流れに、一歩踏み出した足の裏は渇いていた、というのです。川の流れは堰き止められて、彼らの目の前を流れていた川の流れは止まり、乾いて、その土の上を歩いて渡ることができました。
イスラエルの民が、荒れ野からカナンの地に入る出来事において「足の裏」という言葉は大切なキーワードになっています。
「私はモーセに告げたとおり、あなたがたの足の裏が踏む所をことごとくあなたがたに与える。」
(ヨシュア記1章3節)。
と主は言われたのです。私たちは「主が共におられる、恐れることはない」。この信仰をもって、足の裏を踏み出して行く所に、道は開けていきます。
Ⅳ. 今年の恵みを数える
神様は、2024年という一年を与えてくださいました。一度しかない与えられた時間でした。最初に今年の話題をいくつかあげましたが、痛ましい話題、不安を掻き立てる話題、大切な人との淋しい話題が目につきます。しかし、神様からの視点でよく吟味してみると、それらは痛ましいだけではない、淋しいだけで終わるものではなくて、背後には恵みが示されていることもあるかと思います。
私の家では食事の前の祈りは、小学1年生の息子がするのですが、必ず「今日は楽しい一日でした、明日も楽しい日にしてください」と感謝の祈りで始まります。今日は嫌な日だったと祈ることはありません。ただ口ぐせになっている祈りの言葉かも知れませんが、感謝は一緒に祈る者として恵まれる言葉です。私は今年、大切な親戚の一人が召されて、とても寂しい思いがありました。しかし、その人の人生を豊かにして下さった神様の御業に感謝する思いがありました。それは、「私たちには主が共におられます」という信仰によって、そのように思えるのです。
今の社会を見渡すと「今年も暗いニュースばかりだったな」とも思えるのです。しかし、「主が共におられた」という信仰をもって振り返ると、そこには神の計画としての「恵み」が見えてくると思うのです。それぞれ、お一人お一人に与えられた恵みを、一歩踏み出して受け取り、感謝して年の瀬を迎えたいと思うのです。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて 神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケの信徒への手紙一5章16-18節)
今年、私たちにはさまざまな出来事がありました。喜びも悲しみも神様の計画の中にあったことを覚えたいと思います。喜びにも悲しみにも感謝を捧げたいと思うのです。私たちは祝福を受け継ぐために召されました。その大いなるこの一年の祝福に感謝を捧げましょう。
お祈りいたします。
