新しい命を見いだし、新しい創造となる私たち
和田牧師が代読しました。
潮田健治牧師 説教要約
コヘレトの言葉 3章1-13節、22節
2025年1月5日
Ⅰ. さがみ野教会、高座教会、二つの教会は今日、合同して新しい一つの教会としての「高座教会」になります。
「高座」は同じ名前ですが、ここまで歩みを異にしてきた教会が合同して、新しい出発をする「高座教会」という教会になるのです。
ところでこの準備のために設けられた「合同特設委員会」が合同の目安として用いて来たのは、カンバーランド長老教会 宣教ミニストリーチーム(MMT)による「教会の合同を検討する教会のためのガイドライン」です。こういうものが準備されているということは、合同ということが、今日、珍しいことではなくなったという証でもあると思いますが、その中に、「新しい教会になるための神学的根拠」という項目があります。今日の聖書個所は、そこに示された聖書箇所になっています。
このように説明されています。すなわち
「2つ以上の教会が合同することは、要するに新しい教会を作ることです。…教会政治の観点からは、新しい教会が形成されることになります。コヘレトの言葉の著者は、人生には移り変わりがあり、季節があると描写しているように、合同には神学的根拠があります。教会の歩みにも、植えられ、築かれ、そして死にゆく季節があります。私たちは、変化の中で、また教会の寿命とミニストリーの反映の中で、教会の人生の変遷を祝い、また嘆くのです。教会の合同は、新しい命を見いだし、キリストにあって新しい創造となることとしてとらえ、経験されるべきものです。2つ以上の教会が合同して1つになる場合、それらの教会は、古いものが過ぎ去り、すべてのものが新しくなるという神の恵み深い方法に参与することになるのです。」
Ⅱ. 「コヘレト」の特徴的な言葉は、「空」です。
19節に「空」とありましたが、冒頭の第1章2節ではこのように語ります。「コヘレトは言う。/空の空/空の空、一切は空である。」そして最後の第12章8節においても、このように語るのです。「空の空、とコヘレトは言う。/一切は空である」と。このように最初から最後まで、ひたすら「空」という言葉を繰り返しているのです。
この言葉は、元の言葉で「はかない」とか、「束の間」という、意味があります。「はかない」とは空しいということです。それで、『新共同訳』では「空しい」と訳されています。伝道する者(コヘレト)が、人が感じる空しさの中で、「空の空/空の空、一切は空である」と嘆き続けるのです。いったいどういうことかと思う時、「空」という言葉には、「束の間」「一瞬」という、もう一つの意味があることに気づくのです。ただ単に空っぽだから空しい、無意味ということではなく、まず、時間的な「束の間」「一瞬」があるのです。それを受けて、だから空しい、という感情をあらわす意味になっていったと考えられるわけですが、コヘレトがとらえているのは、何よりも、あっという間に過ぎ去る時間なのです。
今回の教会合同という出来事は、謙虚に見つめてみれば、比較的新しく生まれたさがみ野教会であっても、50年の歴史を刻んできました。その教会が、以前とはかなり違う状況になった、ということが事柄の発端にありました。それは、また高座教会にしても同じです。ここまで両教会は、力強く歩むことが出来たし、宣教の数えきれない数々の物語を生み出した。人数も増え、高座教会にあっては、大礼拝堂建設だと、目標にして、盛んに献金した時がありましたが、しかしそういう時が過ぎ、今はそれとは状況が変わったのです。感染症の拡がりの中で、それこそ、あっという間に、以前の状況が変わった、過ぎ去った、と言えるかもしれません。いえ、実は以前から、認めたくないことであっても、過ぎ去る、という変化が起こっていたのかもしれません。あふれかえっていた子どもたちの集まり方が明らかに変化しました。青年たちが少なくなりました。そういうことから次々と変化が目の前に現れてきたのです。教会と言えども、永遠に続くものではないことは、聖書の時代の教会を見ればすぐ理解できることです。パウロがあれほど命がけで熱心に建て上げた教会であっても、振り返れば「束の間」の歴史を刻んだに過ぎなかったのではなかったでしょうか。コヘレトに言わせれば、「空」、束の間であると。
しかし、「空だからこそ(束の間だからこそ)、意味があるのだ」と言うのです。1節「天の下では、すべてに時機があり/すべての出来事に時がある。」この「時」を捉えよと、言っているのです。
「空」、束の間、そうなると、そこに痛みや、悲しみを覚えることにもなります。10節は「見た」と言って、束の間に起こることの苦労を見たのです。しかし、12節は「知った」 そういう束の間に生きる私たちがすべきことを知った。そして22節では「見極めた」と、知ったことを深めていくのです。コヘレトの関心は、ひたすら、この今という時を、如何に生きるか、ということに注がれています。今、合同する二つの教会に翻訳して言い換えれば、どうして?という思いがあったり、そうせざるを得ないことで悲しく思うわけですが、しかし今、ここに新しい命を見いだし、キリストにあって新しい創造、神の新たな創造であると受け止めること! 見極めること! それが、私たちの時の捉え方なのです。
Ⅲ. 本日、お読みした第3章は、「時のリスト」とも呼べる言葉がいくつも記されています。
「天の下では、すべてに時機があり/すべての出来事に時がある。」(1節)そのように語り始め、ここに14対の対照的な行為を挙げられています。その中には、私たちにとって望ましいことや、私たちが求めることもあれば、望ましくないことや、避けたいこともあります。それらの出来事は、一人、私の人生の時間の中にも、また、人類の歴史の中にも〈場所をもっている〉いわば、起こるべくして起こるのです。
そこで、神を知らないこの世は不正、悪(16節)に傾くのに対して、神を知る人たちの間では、すべての時は神の支配の中にあると苦労をさえ「見て」、そこですべきことをするのだと「知って」、「見極めて」いくのです。
この地上で起こるあらゆることは、決して、運命でも、偶然でもなく、神の御手の中で起こっているのです。「天の下では、すべてに時機があり/すべての出来事に時がある」と。時を支配しておられるのは神なのだ、と言うのです。その中で、私たちには「苦労」はあります。しかし、その苦労こそ「神が与えた務め」だと言います。「見極めることはできない」ゆえの苦労、その神から与えられた務めとは何かというと、それこそ、祈りの務めではないでしょうか。一方で不正、悪がある中で、「天の下」神の下で、私たちは賜物としての「喜び」「幸せを見出す」祈りに、進みだすのです。祈りによって「自分のわざを楽しむ」(22節)のです。
確かに人がすることは、苦労が伴います。私たちは常に何かしようとすれば、苦労します。何かを責任を持ってしようとすれば、コヘレトがここに挙げた「時」のリストを行ったり来たりしながら、時には喜び、時には戸惑い、葛藤し、時には嘆き、時にはやりがいを感じ、そうしながら、見極めることができない神の意志を求め、受け止めようと、私たちは祈ります。私たちにはそういう賜物が与えられているのです。私たちは、神のわざは見極めることができないにしても、その祈りの苦労の中でこそ、神の創造の業にかかわっていくのです。少なくともそこに、神の創造に深くかかわる入口があるのです。「神はすべてを時に適って麗しく造」られた(11節)、この創造の中に私たちも入っていくのです。主イエスも「思い悩むな」の後に続けて、神の永遠について述べるのです。「まず神の国と神の義とを求めなさい」(マタイ6章33節) そういう祈りの労苦が、私たちを、ここで神があらたに行われる神のみわざ、神の創造的なみわざに思いを馳せる者にさせると信じます。
Ⅳ. 皆さんは、ウイリアム・イエン牧師をご存じでしょうか。
カンバーランド長老教会の香港中会を導いて来ましたが、香港の政変の中で最終的にはイギリスに移住、これからというところでコロナに感染して亡くなられた牧師です。ウイリアム・イエン牧師は、こう言っていました。
「教会が問わなければならのは、いかに存続するかではなく、なぜ存続するか、である。なぜ存続するかは、教会の本質が何であるか、神に属する群れはどうあるべきか、社会においてどのような役割があるかを問うことだ。」(『夜明けを共に待ちながら-香港への祈り』78ページ)
これは今、私たち、教会の合同に進む私たちへの、問いかけだと言うことが出来ます。私たちが神の創造的なみわざに思いを馳せるとは、教会を存続させることではありません。「空」、束の間を認識し、その現実を祈りによって誠実に受け止めようとする私たちは、教会は、なぜ存続するか、と考え、祈るのです。神に属する群れ、合同する教会が、この時代、この地域にどうあるべきか、と祈るのです。この祈りの労苦を、合同した教会として、私たちはともに受け止めていくのです。ここに新しい創造が、神の創造にかかわる歩みがあるのです。それこそ「あらゆる労苦の内に幸せを見出す」神からの賜物であります。
教会の合同。それは、問題なく成長した時代は過ぎ、両教会とって今はこうせざるを得ない状況が、現実にここにある、ということであります。しかし、それは神の時です。神のみわざを世に示す、新たな創造の物語に踏み出す、時なのです。
