神様の赦しの恵み

<二十歳のお祝い> 和田一郎牧師 説教要約
申命記24章17-22節
マタイによる福音書18章21-35節
2025年1月12日

Ⅰ.  罪の赦しについての教え

 今日、お読みした聖書の箇所はマタイによる福音書18章の結びの箇所です。イエス様はここで「仲間を赦さない家来のたとえ」という譬え話をお語りになっておられます。これはマタイによる福音書だけにある譬え話です。
この譬えをイエス様が話されたのは、ペトロとの問答がきっかけでした。ペトロはイエス様に尋ねました「主よ、きょうだいが私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」ペトロがイエス様にこのような質問をしたのは唐突なことではありません。理由がありました。イエス様のこの箇所の前15節以降で「きょうだいの忠告」という教えがあったのです。「きょうだいがあなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところでとがめなさい。言うことを聞き入れたら、きょうだいを得たことになる。」という教えでした。
これは教会においてイエス様が望んでおられる在り方です。在り方というのは具体的にいうと「赦し」の問題です、「罪の赦し」です。世の中と同じように教会にも不完全な人間が集まっています。罪人の集まりです。そこで必要なのが「赦し」なのです。互いに赦しあって生きることをイエス様は求めたのです。そこでペトロは尋ねたのです「主よ、きょうだいが私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
おそらくペトロはちょっと胸を張って言ったのでしょうね。七回まで赦すのでしょうか?
人を赦すのに七回赦すというのは、なかなかできない、よっぽど寛容な人でないとできないことです。「仏の顔も三度まで」という言葉がありますが、人間の心理としては自分が裏切られたとしても三度が限界で、同じ人が裏切って七回というのは難しいのではないでしょうか。ペトロはそれでも七回と言いました。おそらくイエス様が「そうだよく言った」と認めてくださると思ったのです。ところが、イエス様は(22節)「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍まで赦しなさい。」というのです。七の七十倍というのは、もはや回数の問題ではないことは明白です。そもそも、ペトロもまた字義(じぎ)通りに七回と言ったのではないでしょう。ペトロも回数の問題ではなくて、とことん赦す思いがあったでしょう。しかし「そうだペトロその通りだ」とイエス様はおっしゃいませんでした。そこで、譬え話を話されたのです。

Ⅱ.  仲間を赦さない家来のたとえ

この譬え話は、難しい話ではありません。ある家来が王様から巨額な借金をしていました。その額は一万タラントンです。この額は、今の金額に直すと6千億円から1兆と言われるようなものすごい金額なのです。この家来は絶対に返すことのできない借金を、王に対して負っていたのです。それが一万タラントンでした。もちろん、支払うことができません。王の前にひれ伏し、「どうか待ってください。きっと全部お返ししますから」(26節)と懇願しました。数千億円を「全部お返しします」というのは、単なる言い逃れです。その場しのぎの言葉です。しかし、王は必死にお願いする家来の姿を見て憐れに思いました。そして、驚くべきことに王様は借金を帳消しにしたのです。
彼は、当然のことながら大喜びで家に帰るわけです。ところが帰り道で一人の仲間と出会いました。その仲間にお金を貸していたのです。額にして数十万から百万円くらいです。この金額だとがんばれば返せる額でしょう。しかし、この家来はその人の首を絞めて「金を返せ」と要求したのです。仲間が「どうか待ってくれ。返すから」と頼んだのです。でもこの家来は赦さなかった。情け容赦なく捕まえて牢に放り込んでしまったのです。他の仲間たちがこのことを知って腹を立てました。そして、王様に報告して、王様の知るところとなりました。王は彼を呼びつけ、「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と言いました。そして、借金を帳消しにしたことを取りやめ、彼を牢に放り込んでしまったというのです。

Ⅲ.  なぜ赦すのか

この譬え話しは、この家来のように、自分には甘いが、他人には厳しい、自分たちにも重なる所があると教訓とすることもできます。しかし、イエス様はそのようなことを、この譬え話で伝えようとしたのではありません。ペトロが「何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と言った質問のように「どこまで赦すのか」ということを問題にしているのではなく、「なぜ赦すのか」という話をなさっているのです。ペトロの、「どこまで赦すべきですか、七回ですか」という質問に対して、イエス様は「なぜ赦すべきか」ということで答えているのです。
私たちはなぜ人の罪を赦すべきなのでしょうか。いや、本当に赦すことなど出来るのだろうか?とも思うのです。私たちは、この家来と同じように大きな罪を赦されたのです。私たちは一万タラントンという自分の力では決して返すことのできないような「罪」という負債を赦されたのです。私たちが負っていた罪は、神を神としないで生きていこうとした。一万タラントンもの巨額な罪でした。それを、まったくの帳消しにしてくださったのが神様です。私たちが支払わなければならない罪の負債は、すべてイエス・キリストが十字架にかかって支払ってくださったのです。王様が家来を憐れんだように、私たちも、神様が、まったくの憐みによって赦してくださったのです。
この譬え話のとおり、私たち自身が、一万タラントンという自分では決して返済することのできない負債を赦されたのです。ですから、百デナリオンの借金のある仲間を赦すのは人として当然のことです。赦されているのだから、赦して当たり前のことです。私たちが人の罪を赦すのは、自分の罪が既に神様に赦されているからなのです。そしてペトロの七回とイエス様の七の七十倍の違いが、そこにあるのです。
つまり、ペトロは、「七回まで」と言った時に、胸をはって七回までも人を赦すことができるような寛容な者となろう、そのような人間になるために努力しようと決心したのでしょう。ペトロにとって、人を赦すことは、そういう強い決意によって行う良いことだったのです。しかしイエス様はそれに対して、七の七十倍まで赦しなさいと無限大の数字を示されました。私たち人間が神様に犯した罪は、私たちが他人から受けた罪とはくらべものにならない、大きな罪です。それを赦されたのならば、七の七十倍まで人の罪を赦すべきです。当然なことです。それが、このたとえ話の意味です。ペトロは、赦しは自分の決意や努力によってなされると考えました。それに対してイエス様は、「神様の赦し」という恵みに応えて生きていく、そこに赦しが生まれてくるのだと教えて下さっているのです。

Ⅳ.  一万タラントンの負債

 私たちの問題は、どれだけ赦されているのかが分からないことです。自分に与えられている赦しが、どんなに大きなものなのか分からずに生きているということです。罪というのは。あんなことをした、こんなことをしたということではありません。罪をどれだけ繰り返してきたとか、最近は善いことをしているから大丈夫、といった量的なことではありません。罪を犯したから罪人なのではないからです。罪人だから罪を犯してしまうのです。
私たち人間の本質には罪という性質があります。罪を犯したからではなく、性質として備わっているものです。何が善で、何が悪かという善悪を、神なしでも自分で判断できるのだというアダムとエバが犯した「罪」は、人間の性質としてすべての人間がもっています。罪の性質をもって生れてきたのが人間です。この人間の罪の性質ゆえに、人が人を傷つけ、弱き人を蔑(ないがし)ろにし、貧困に無関心となり、争い、戦争や紛争によって何十万、何百万もの人の命を消し去ってしまうのです。自分自身が直接関わっていなくとも、その元にある人間の罪の性質は、一万タラントンの負債です。
しかし、その大きな罪を、十字架にかかって帳消しにしてくださったのがイエス・キリストその方です。イエス様は、まさに絶望的な私たちの罪のために血を流して贖ってくださり、私たちを心から赦してくださいました。それに留まらず、私たちを愛し、罪の束縛から解放してくださっているのです。まさに七の七十倍まで赦してくださっているのです。一万タラントンを帳消しにしてくださっているのです。
イエス様は、私たちに心からきょうだいを赦すことを求めておられます。人間は罪人ゆえに不完全です。不完全な者同士が住み暮らす、この地上の生涯においては、赦し合いがなくては生きてはいけません。人を赦すというのは本当に難しい、とても人間の力や意思では、どうにもならない、大きな負債です。
しかし、人にできないことも神にはできる。イエス様は、神の力に目を向けるように語られているのです。七の七十倍という途方もない大きな神の力、一万タラントンを帳消しにできるイエス・キリストの十字架の贖いに、心を向けて生きるように教えてくださっています。神様がまず先に私たちを赦してくださったことに目を向ける、神様がまず、私たちを愛してくださったことに心を向ける、そうすれば誰かを赦す、何かを赦す力が生まれるのです。イエス・キリストの十字架によって、私たちは赦し合う世の中へと導かれていくのです。
お祈りいたします。