キリストの味わい

<高座教会創立記念日> 宮井岳彦副牧師 説教要約
詩編34編1-23節
ペトロの手紙一2章1-4節a
2025年1月19日

Ⅰ. 1947年1月19日に始まったあなたの物語

今日は2025年1月19日です。高座教会は今日からちょうど78年前、1947年1月19日に最初の礼拝を献げました。画家の爾見信郎さんの12畳のアトリエに17名が集まり、吉﨑忠雄牧師が司式されました。1947年1月といえば、まだ日本の敗戦から一年半しか経っていません。当時の人々がどのような毎日を過ごし、何を思いながら生きておられたのか。私には想像するにあまりあります。しかし、高座教会の最初の方たちの言葉のいくつかは伝えられています。
この1月19日の礼拝に至ったいちばん大きな出来事は、厚木基地に来た米国従軍牧師のストレート先生が一冊の英文聖書を贈ったことです。これを読んだ中央林間在住の鷲沢與四二さんが仲間を集めて言いました。
君、戦争をした事が大きな問題であったのは、万人が認めて反省しているところだ。何故にこんな間違いを犯したかがこの聖書を読んで初めて分かった。僕達はキリストを知らなかったからだ。僕達に「クリスチャニティ」がなかったからだ。これから日本が立ち上がっていくのには、クリスチャニティを身につけるほかにない。これは大変な本だ。みんな読むべきである。これこそ本物だ。
日本が戦争を起こし、敗れ、本当に悲惨な思いをしながら生きた「虚脱」と呼ばれる時代のことです。聖書を読んで、まさに希望の光と出会ったのではないでしょうか。
聖書の御言葉が、この地に生きる神の民を生み出しました。イエス・キリストの福音がこの地に神の国を始めたのです。
ペトロの手紙一には「あなたがたは…神の変わることのない生ける言葉によって新たに生まれたのです」(1:23)と書いてあります。あなたたちは新しく生まれたのです。神の前に生まれ変わったのです。どうやって生まれたのか?神の言葉によって!聖書の御言葉によって!キリストの福音によって、あなたたちは新しく生まれた!これはあなたの話です。あなたはキリストの福音によって生まれた赤ちゃん、神の子どもです。
教会って、不思議な場所です。78年前の礼拝に出席した17名と、2025年1月19日の礼拝に出席した私たちとは同じ神を信じ崇めています。それだけではない。高座教会と歩みを共にし始めたとき、私たちもこの教会の歴史の当事者の一人になるのです。78年前のあの日、あの場所にいなくても。高座教会の物語は、あなたの物語です。
少し言い方を変えると、こういうことです。1月5日にさがみ野教会との合同教会設立式をいたしました。私たちは一つの教会になった。ですから、皆さんもさがみ野教会の歴史の当事者です。さがみ野教会の前身の栗原伝道所は1976年に伝道を始めました。爾来49年の歴史とその物語はあなたの物語になった。
合点がいきますか?しかしそう言えなかったら、まして2000年も前の遠くパレスチナで起きた一人の男の死刑が私のためだなんて言えないのではないですか?高座もさがみ野も、同じ神が同じ福音によって生かしてきてくださいました。同じキリストの出来事に、私たちは与ってきました。今日もそうです。私たちは同じ神の民として生きいている。これはあなたの物語。神がお始めになったあなたの物語です。

Ⅱ. あなたは神の国の赤ちゃん!

神はご自分の生ける御言葉、キリストの福音によってあなたを新たに生まれさせてくださいました。鷲沢さんとその仲間たちがそうであったように、私たちはキリストの福音によって新たに生まれ、今生きています。私たちは新しい命を頂いて、今、神の国の赤ちゃんとして生かされています。
皆さんにとってこの一週間はどういう日々だったでしょうか。あるいは、昨年の1月19日からの一年と言ってもよいかも知れません。戦後の虚脱の時代とは比べるべくもないでしょう。それでも、私たちにも悲しみを覚えることがあり、苦しかったことも、怒りに震えたこともあったでしょう。働きながら、子どもといっしょに過ごしながら、介護をしながら、人知れず涙を流したこと、言葉にならない呻きを漏らしたこともあったかもしれません。そのうめき声も泣き声も、叫び声も、どれも、神の国の赤ちゃんの泣き声です。あなたも神の国に新しく生まれた赤ちゃんなのですから。
神の国に生まれた赤ちゃんには、赤ちゃんにふさわしい食べ物があります。こう書いてあります。「生まれたばかりの乳飲み子のように、理に適った、混じりけのない乳を慕い求めなさい」(2節)。皆さんはこの地に神が生み出してくださった神の民であり、神の国の赤ちゃんです。赤ちゃんには赤ちゃんのための食べ物がある。お母さんがくれるお乳です。そこには赤ちゃんが成長するために必要なものは全部入っているし、逆に必要ないものは一つも入っていません。お乳が赤ちゃんを健やかに育てる。
しかし、世の中、そんなに体に良いものばかりがあふれているわけではありません。おいしくても赤ちゃんの体を損なうものもたくさんあります。甘すぎるお菓子を口にすれば、お乳を飲まなくなってしまうかも知れません。赤ちゃんがどんなに喜んだって与えてはいけないものもたくさんあります。
1節に、悪意、偽り、偽善、妬み、悪口と書いてあります。ジャンクフードみたいだと思います。本当に心身に悪いものだけど、どうしようもなくおいしくて止められない。人の悪口を言って盛り上がるのは、はっきり言って快感です。偽善で自分を守りながら妻を裁き夫を裁き子どもを支配する。実のところ悪意を抱きながらもそれを隠し、相手のためという善意の皮を被る。どれもこれもどうしようもないほどの快感です。その快感は私たちを破壊します。教会を大きく損ないます。神の民を深く傷つける。
だから、「理に適った、混じりけのない乳」と慕い求めるように、と言うのです。理に適ったというのは面白い表現だと思います。本当に慕うべきものが何なのか、あなたはよく知っているでしょう、ということだと思います。ジャンクフードのような悪口なのか、神が下さる乳なのか。理に適った判断ができるはずだ。
この「理に適った」という言葉は、「ロゴス」という字が元になった表現が使われています。「ロゴス」は「言葉」という意味です。言葉の乳。つまり、神の言葉、福音という乳。これこそあなたを成長させ、あなたを救う。乳飲み子であるあなたのために神が下さった食べ物!

Ⅲ. キリストの味わい

ここにはとても印象深い言葉があります。「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わったはずです。主のもとに来なさい」(3,4a節)。
数日前に教会の門のところを歩いていたら、ふと、今日の説教題を書いた掲示が目に飛び込んできました。「キリストの味わい」と書いてある。考えてしまいました。キリストの味って、一体どんな味なのだろう…?皆さん、キリストの味って、どういう味でしょうか?皆さんならどういうふうに表現なさいますか?
キリストの味わいは、神が生んでくださった赤ちゃんたち、つまり神の民の中で味わうことができるはずです。御言葉の乳、福音の乳を頂いているのですから。この教会で味わってきた味わい。皆で礼拝の後に頂くカレーの味でしょうか。そう言ってもよいように思います。しかし更に突き詰めて言うならば、キリストの味、それは聖餐で頂くパンと杯(さかずき)の味です。あの小さなパン。あの小さな杯。あれは一体なんでしょうか。キリストは、あの小さなパンは十字架の上で裂かれたご自分の体だとおっしゃいました。キリストは、あの杯で頂くぶどう酒(ジュース)は十字架の上で流されたご自分の血潮だとおっしゃいました。私たちはキリストが裂いた肉と流した血潮の味わいによって命を頂いているのです。
あのパンと杯こそ、主の恵み深さの味わいです。キリストを味わって、皆さんは神の民としてこの地で生きているのです。
ですから、まだあの聖餐のパンと杯を頂いたことのない方、即ちまだ洗礼をお受けになっていない方たちにお願いを申し上げます。どうか、洗礼を受けてください。キリストはあなたのために十字架にかかって、あのパンと杯を差し出してくださったのです。あなたにも神の民として生きてほしいと、神は招いておられます。