羊の門
和田一郎牧師 説教要約
エゼキエル書 34章1-16節
ヨハネ福音書10章1-21節
2025年1月26日
Ⅰ. 真実が見えない者たち
今日のヨハネ福音書10章の聖書箇所は前の9章の続きになっています。9章では生まれつき目の見えない人が、イエス様によって見えるようになった出来事が書かれていて、それが安息日だったことからファリサイ派の人たちと論争になりました。生まれつき目の見えない人がイエス様を「神のもとから来た」と答えたことからこの人を追放し、イエス様を罪人扱いした。そのファリサイ派の人々に対して「あなたがたの罪は残る」と言われました。そのファリサイ派の人たちに向けて、イエス様が語られたのが今日の箇所です。
Ⅱ. 悪い牧者と良い牧者
ユダヤ人にとって羊は身近で貴重な存在でした。イエス様の時代も石などを積み上げた羊たちの囲いがありました。昼は牧草のある場所に出て行って過ごし、夜になると羊飼いは羊たちをその囲いの中に入れました。狼などの獣から守るためです。門の前には門番がいて、羊飼いが来ると門を開きます。そして、羊飼いが自分の羊の名を呼ぶと、羊はその声を聞き分けてついて行くのです。羊飼い以外の人の声がしてもついて行かず、逃げ去ってしまうのです。6節「イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。」とあります。9章のイエス様とファリサイ派とのやりとりが続いているのです。イエス様は、ファリサイ派の人々の偽善を指摘したのです。ある男の人の目が癒されたのに、それを喜ぶどころか、人々がその癒しの業を見てイエス様のもとに集まり始めたことに苛立ち始めたのです。癒された男が「神のもとから来た」と答えた。周りの人々もそのように感じ始めていた。まさに羊が羊飼いの声を聞き分けるように、大勢の人がイエスに注目しはじめ、集まっていたのです。そのことがファリサイ派の人々を苛立たせたのです。イエス様は、「私は門である」とおっしゃいました。イエス様は父なる神と繋がる門です。イエス様を通らなければ、神の国に入ることはできない。生まれつき目の見えない人を筆頭にして、人々はこの門を通って入ろうとしていた。ところが、この門を通らないで、ほかの所を乗り越えて、自分たちの利得のことばかりを考えて、邪魔している、人々が神様に心を向ける霊性を盗み、屠って、滅ぼすものだ。と指摘しているのです。
先程、朗読したエゼキエル書には、良い牧者と悪い牧者がでてきます。良い指導者と悪い指導者がいつの時代にもいる。神様が民の羊飼いとして遣わしたはずの指導者たちが盗人になってしまった。強盗は、見るからに強盗らしい恰好をしていません。良い牧者、羊飼いの姿で来るのです。ですから、本物の羊飼いと強盗を、見分ける必要があるのです。門を通って来るのが羊飼い、柵を乗り越えて来るのが強盗です。
Ⅲ. 真理が働かない世界
いつの時代も、良い牧者と悪い牧者がいます。とくに今の時代は、真実が見えにくい時代です。
アメリカの新しい大統領の就任式に列席した人たちの中に、最先端技術を使って情報を扱うIT企業の指導者たちがいました。今、その最先端技術を通して得られる情報は、もはや真実であるかどうかは二の次になっているようです。真実の追求より、興味をそそる自分たちにとって心地よい情報を作り上げていく傾向にあるのです。「真実」というのは、時として痛みを負わせるものです。見たくない現実を見ることもあります。それに対してフィクションは好きなように心地よいものに作ることができます。真実を追求するには時間も労力も経費もかかります。コストがかかり負担を伴う「真実」と、安上がりで心地よいフィクションとの競争においてはフィクションが勝つ傾向にあるそうです。
15世紀に生みだされた活版印刷は、当時の最先端技術でした。すでにこの時からフェイクニュースが存在しました。それが「魔女狩り」を引き起こした一冊の本です。その本が300年以上にもわたって、約5万~10万人が魔女だとして処刑されたのです。考えてみると15世紀~18世紀というのはグーテンベルグの活版印刷によって聖書が、同じヨーロッパに普及した時代です。最先端の技術によって正しい情報も、偽りの情報も人々は手にすることができた。ところが偽りの情報に翻弄される人が多かった、聖書に魔女のことなど書かれていない訳です。まさに人間というのは真実よりも、自分の興味を満たす情報に心を惹かれることを現わしているのではないでしょうか。
魔女狩り当時の指導者たちと市民たちの中には、少し変わった人、意見の合わない人、自分の地位を脅かしそうな人を排除するために、魔女狩りを口実にした者がいたことは十分に考えられると言われています。いつの時代にも悪い指導者はいるのです。時代は「本」から「SNS」に変わりました。同じことは現代でも起こりえるのです。明らかに間違ったことであっても、「自分たちにとって都合がいいことを優先していいじゃないか」という空気が広がっているように思います。
イエス様の時代にいた、ファリサイ派や祭司たちにとってイエス様は不都合な存在でした。自分たちの立場を脅かしそうな人物がイエス様でした。生まれつき目の見えない人に「神の前で正直に答えなさい。私たちは、あの者が罪人であることを知っているのだ。」(9:24)ともっともらしい偽りを言って追い出しました。イエス様という門を通って来た者こそが羊飼いなのですが、門を通って来た羊飼いと柵を乗り越えて来た盗人は、見た目では区別がつかないのです。イエス様はご自分のことを「門」だと言ってます。門とは唯一のゲート、唯一の真理です。私たちは情報が溢れるこの社会の中で、唯一の真理を見極め、そこから離れないで留まり続けることができるでしょうか。その事を問われているように思うのです。
アメリカという国が、真実を追求することから離れてしまったことを話しましたが、日本ではどうでしょうか?日本では唯一の真理、唯一の神を信じるキリスト教を信仰する人は少ないわけです。日本人の気質の中に、唯一の真理というものを避ける文化があるように思えます。唯一ではなくて、バランスをとろうとする気質です。室町時代一休和尚の作とされる唄があります。「分け登る麓(ふもと)の道は多けれど 同じ高嶺(たかね)の月を見るかな」と謡いました。宗教の入り口はいろいろと違っていても、最終的に到達するところは同じであるということを説いている。仏教徒であろうが、キリスト教徒であろうが、ムスリムであろうが、あるいは無宗教であろうが、どこから出発したとしても、誠実に宗教を追求していくならば、到達するところは同じになるということで、日本人の宗教観をよく表していると思いました。日本人は、正月に初詣に行き、12月はクリスマスを楽しみます。結婚式はキリスト教で、葬儀はお寺という人も多いでしょう。良いことならそれもいいじゃないか?というのが日本的な考えかも知れません。なぜなら、日本の社会、精神風土は唯一の真理というものを避ける文化があるからです。最近は、物事を調べる時「AIに聞いてみよう」という声をよく聞くようになりました。スマホを使ってAIで調べると驚くほど正確な情報が手に入ります。他の宗教、仏教でもいい、神道でもいいに加えてAIでもいいじゃないか、SNSでもいいじゃないかと、宗教的寛容に最先端の技術も加わってこようとしています。
一休さんが言う「分け登る麓(ふもと)の道は多い」つまり、入口は多くていいと言う言葉に対して、イエス様は、「私は門である」と言うのです。私が唯一の入り口だとおっしゃいました。「私を通って入るものは救われる」と、御自分が唯一の真理であると言われました。
Ⅳ. 「私はある」という真理
ヨハネによる福音書には、「わたしは・・です」(エゴー・エイミー)という言葉が出てきます。「わたしは命のパンである」、「わたしは世の光である」、「わたしは復活であり、命である」、「わたしは道であり、真理であり、命である」、「わたしはまことのぶどう木」、そして今日の箇所では「わたしは羊の門である」「わたしは良い羊飼いである」、と、御自分が何者であるのか、七つの言葉で表してくださいました。これらはどれもご自分の神の性質、神性を表す言葉で、御自分が唯一の真理であることを意味しています。真理である方は、羊のために命を捨てる方、襲ってくる狼を追い散らす、羊を置き去りには決してしない良い牧者、良い羊飼いであるのです。
Ⅴ.まとめ
私たちが大切にしなければならないのは何でしょう。3節に「羊はその声を聞き分ける」とあります。4節にも「羊はその声を知っているので、ついて行く」とあります。羊である私たちが、羊飼いの声を聞き分けて、その声だけについて行くことが求められているのです。そのために、私たちはイエス・キリストの声を聞かなければいけません。聞き続けることが大切です。世の中の、さまざまな騒音の中から聞き分けるために、いつも聖書の言葉を心に刻んでおく必要があるのです。あれもいい、これも大事だとしていると、どの声が真理なのか分からなくなってしまいます。
イエスさまは、私たちが本当の命を受けるため、永遠の命を受けるため、命に続く門となって下さいました。贖いの門となってくださったのです。私たちはまずこの門を通る必要があります。一日のはじめに、一週間のはじめに、贖いの門を通って、良い羊飼いの声を聞く必要があります。十字架と復活のイエス・キリストという門を通ることによってこそ私たちは救いを与えられ、永遠の命に生かされるのです。この一週間、自分の名を呼んでくださる方の声を聞き分けて歩んでいきましょう。お祈りをいたします。
