弟子たちの派遣
和田一郎牧師 説教要約
詩編 126編3-6節
ルカによる福音書 10章1-16節
2025年2月2日
Ⅰ. 先駆けとして派遣する
今日の御言葉から「宣教」について分ち合っていきたいと思います。この時のイエス様と弟子たちは、ガリラヤ地方の宣教活動からエルサレムに向けて移動しようとされていました。ルカ9章51節に「天に上げられる日が満ちたので、イエスはエルサレムに向かうことを決意された」とあります。イエス様は、この地上に来られた御自分の使命を十字架に架かられることによって、すべての人に救いをもたらそうとされていましたが、その時が近いと思われた。宣教の働きも終わりに近づいていると思われたので、イエス様は十字架に架かられるエルサレムへと向かっていくことになります。
そして続くルカ9:52節「それで、先に使いの者たちをお遣わしになった。彼らは出かけて行って、イエスのために準備を整えようと、サマリア人の村に入った。」とあります。弟子たちは、宣教の旅を続けるイエスの先駆けとして派遣されたのです。一足先に行って、神の国の到来を告げてくださる方が来られる、救い主が来られると告げたのでしょう。さらにイエス様の弟子となる者たちに対して、その大切な働きをする覚悟について語られました。そのことがあって今日の聖書箇所で七十二人を任命し派遣することにされたのです。
Ⅱ. 宣教の心構え
弟子の派遣といえば、十二人の使徒も以前派遣されました。ルカ9章の箇所ではペトロやヨハネなどの十二弟子が派遣されたのですが、今度は七十二人です。ちょうど6倍の人数です。ガリラヤ地方での宣教を経て、この時期には多くの弟子を抱える状態となっていたのです。イエス様の宣教の旅というのは十二人の弟子たち以外にも、女性も含めて多くの「弟子」と呼ばれる人がいたのです。その中から十二人の使徒とは別の、無名の七十二人が任命されました。二人一組の組になって派遣されました。ですから36組が先駆けとなって町々に派遣されたのです。
その無名の弟子たちに、宣教するための心構えをイエス様は3つ伝えました。1つ目は2節、「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」と言われました。ここで「主に願いなさい」、祈りなさいと言われました。「収穫は多い」つまり、救われる準備のできている人が多くいるというのです。そのためにも、自分たちだけで収穫をすると考えるな、他にも収穫のための働き手として、神様が備えて下さることを信じて祈りなさいと伝えているのです。
2つ目に弟子たちに7節「その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然である。家から家へと渡り歩くな。」と教えられました。彼らは、衣食住、すなわち着る物も、食べる物も、泊まる所も、必要なものはすべて神様から与えられることを信じて、ひたすら伝道すればよいと教えるのです。
3つ目は、5、6節「どんな家に入っても、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻って来る。」と教えています。どこに行っても、祝福の言葉を伝えなさいとおっしゃいました。
私はかつて東日本大震災で東北の被災地にボランティアで行った時、支援物資を家に届けました。相手の様子を見て「キリスト教会のボランティアとして来ているので祈っていいですか?」と聞くこともありました。そうして「祈ってください」と応えてくださった方も沢山いました。それは「平和の子」です。その家にはキリストの平和が宿るでしょう。しかし、人と話したくない人、祈って欲しくない人もたくさんいましたから、その時は心の中で祈るだけに留めました。
8、9節は、どこかの町に入った時の心構えで、家の場合と同じように「神の国は、あなたがたに近づいた。」と言うように命じられました。しかし神様を受け入れようとしない町もあるのです。その場合にはそこでは無理に伝道する必要はないということです。
Ⅲ. 狼の中で
まさに伝道しても受入れられない場所といえば、この日本こそキリスト教宣教が難しい国だと言えます。日本は伝道の難しい国だということをよく聞きます。 人口におけるクリスチャンの比率は1%にもなりません。伝道してもあまり成果が得られず、少子高齢化という大きな流れの中で、宣教しても無理ではないかと思いがちです。人間の目で見る日本の国というのは、収穫の見込みが乏しい地域に思えてきます。しかし、イエス様はそのように見られないのです。「収穫は多い」といっておられるのです。昔の話をしているのではないのです。
「聖書は2千年前のことだ」と過去の事として片づけてしまいそうですが、そうではありません。今もイエス様を主と信じるクリスチャンは増え続けています。アメリカをはじめ、ヨーロッパ、日本などの先進国では、宗教離れが目ざましく無宗教・無信仰になる人が多いのですが、一方でアフリカ、南米、東南アジアなどではクリスチャン人口は増えています。たとえば中国も総人口14億人のうちクリスチャンが約5%、非公認を入れると10%に近いので1億3000万人と、日本の総人口を超える数になると言われています。その中国を抜いて2027年に人口が世界一になるとみられるインドのクリスチャンの割合は2.3パーセントと決して高くはありませんが、数にすると2800万人にもなります。日本のクリスチャンよりも多くて増えている、今も「収穫は多い」のです。では日本ではどうなのでしょうか。宣教は諦めるべきでしょうか。決してそうではありません。
Ⅳ. 「宣教」とは何か・・・
先週の土曜日に、東京基督教大学の学長篠原先生が、高座教会で宣教について講義してくださいました。その中で、教会は何のために存在するのか?と考えた時「教会の本質は宣教だ」と話されました。宣教とは、キリスト教を信仰していない人に対して布教活動をすることを「宣教」といいます。しかし、教会はその本質において宣教的であるということでした。教会の活動では、信徒の信仰生活をも見守る「牧会」とか、聖書を学んだり、子どもミニストリーをする「教育」、会計を担当する「財務」もあれば、宗教儀礼としての礼拝があります。しかし、教会はそれらの多くの働きの一つとして宣教活動を行うのではない。教会そのものが本質的に宣教的でなければならない、それが教会のアイデンティティだということでした。牧会するのも宣教的に、教育するのも宣教的に、財務も礼拝も、総務においても宣教的でなければ、教会の存在意義が失われてしまうというのです。つまり宣教という言葉は教会の営みを表す、包括的な用語なのです。
ちょうど今日は「デノミネーションサンデー」で、カンバーランド長老教会が誕生したことを記念する日ですが、私たちの教団の信仰告白にも「神は宣教のために教会を立てられる」とあります。なぜならイエス・キリストその方を模範としているからです。イエス様は「受肉」されました。つまり神の子として霊なる方が、人間と同じ肉体を持たれたことを「受肉」といいますが、イエス様は具体的に、人となってこの地上に来られました。そして、十字架に架かられ、人間の罪の代償となってくださり父なる神様との和解の道を開いてくださいました。その人生そのものが宣教でした。人を癒しました、教えました、子どもに微笑みかけ、過ちを叱り、議論もしました。そのどれもが宣教でした。このイエス様を模範とするのが教会です。
篠原学長が、隅谷三喜男氏の言葉を紹介しました。
「キリストは決してこの歴史の世界、我々の現実とほどほどに接触するという生き方をなさったのではないのであって、歴史のただ中に、罪の現実の中に入り込まれたのですから、私たちもまたキリストにならう者として、この世のただ中に入っていかなければならない。これが私たちが十字架を負ってキリストに従うことであり、『受肉の信仰』を受け入れ、そして私たち自身の信仰が『受肉する』ということなのであります。それはこの世に対して、積極的に取り組むということを意味していると言わなければなりません。」隅谷三喜男『日本の信徒の「神学」』
私は昨年、新しい教会のビジョンとして「喜びのある教会」とお伝えしました。喜びというのは心に湧き上がる感情です。ですから観念的なものではなくて、具体的です。これからの高座教会の在り方として、教会の中に喜びがあり、地域にもその喜びが広がることを大切にしたいと思っております。地域に出向いたり、地域を受け入れたりする開かれた教会で在りたい、そこに喜びを見いだしたいと願っています。
日本のキリスト教宣教が、明治維新で始まった時、それまでの武士階級、つまり教養のある人たちのアカデミックな信仰理解から始まり広がったことが、一般庶民に広がる足かせになったと指摘されることがあります。これまでの2千年におよぶキリスト教宣教では文明が未発達な地域で広がりを見せました。今、アフリカ、東南アジアなど生活水準が比較的低い地域の人たちにとって、実際的な慰めや、励ましとなっている所で福音は広がっているのです。イエス様の生涯と同じです。私たちの教会も、キリストに倣(なら)って、受肉的でありたいのです。
Ⅴ. キリストに倣いて
イエス様が、七十二人を派遣された目的は何だったのでしょうか。イエス様一人でも宣教はできるのです。しかし、無名の七十二人が任命された、弟子たちを派遣されたのです。私たちも無名の弟子です、派遣されて行く者です、イエス様を伝えるために派遣された先駆けの一人です。私たち一人一人が、七十二人に連なる、福音の先駆けとなる一人だということです。「収穫は多いが、働き手が少ない」というのは、イエス様一人が宣教の主役ではなく、弟子たちが宣教の主役になっていくからです。
今日は「弟子たちの派遣」の箇所から「宣教」について皆さんと分ち合ってきました。最期にルカ10章20節「あなたがたの名が、天に書き記されていることを、喜びなさい。」
神様が豊かな実りを備えて下さっていることを信じて、喜びの使者として派遣されて行きましょう。
お祈りをいたします。
