信頼テスト
江橋摩美神学生 説教要約
出エジプト記12章1-14節
ヨハネによる福音書6章1-21節
2025年2月9日
Ⅰ. 「五つのパンと二匹の魚の奇跡」
① 四つの福音書すべてに描かれる奇跡
「五つのパンと二匹の魚の奇跡」は、四つの福音書、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、全ての福音書に記されている。福音書それぞれの記者が、この出来事を重要であると考えていたことがわかる。
② 初代教会で語り継がれる
この奇跡は、イエスさまが十字架で死に、復活された後、各地に教会が広がっていった時も、忘れられることなく語り継がれていった。キリストの教会にとって、イエスさまが、霊的な必要も、また日常の肉的な必要も満たしてくださるお方だということを伝えるのに十分な物語であったからである。今日は、この「五つのパンと二匹の魚の奇跡」を、「ヨハネによる福音書」を通して見ていく。
③ ヨハネの福音書での記述
「ヨハネによる福音書」の記された目的は、後半の20章で述べられている。20章31節に「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じて、イエスの名によって、命を得るためである。」とある。ヨハネは、この書を読む人たち、また聞く人たちが、イエスさまを信じるため、そして、主イエスの名によって、命を得るために、イエスさまを紹介する。
【ヨハネの究極の推し】
Ⅱ. 過越の季節に(ヨハネによる福音書6章1-4 節/出エジプト記12章1-14 節参照)
① しるしを見てついて来た人々
イエスさまが、エルサレムからガリラヤ地方に戻り、湖の向こう岸に行った時、大勢の人たちがイエスさまについて行った。それは、イエスさまが、たくさんの病人たちを癒すという“しるし”を見たからであった。イエスさまは、弟子たちと共に山に登り、その場に座られた。
② 過越祭
4節でヨハネは、これから語る「パンとの魚の奇跡」が「過越」と関連があること、密接に関わる出来事であるということを指し示す。「過越」は、ユダヤ三大祭(まつり)の一つで、ユダヤ人たちが、“偉大な、歴史的出来事”である「出エジプト」を記念して祝う祭りである。
イスラエルが、かつて奴隷とされていたエジプトの地から“神様の手によって”救い出された出来事「出エジプト」は、イスラエル民族にとって、アイデンティティーに関わる、非常に重要な歴史だ。彼らは、自分たちが神の民として、“神様の手によって”助け出され、今も導かれ歩んでいることを忘れないように、この「過越」を祝う。さらに「過越祭」は、天地創造の全能の神様が、ご自分の民であるイスラエルに対して、いかに忠実で正しいお方であるかを思い起こさせる。「過越祭」は、主なる神様が信頼すべきお方であること、その神様に忠実に仕えていなければならないことを自らの心に刻む、そのような時なのである。
Ⅲ. イエスへの信頼を問うテスト(ヨハネによる福音書6章5-15節)
① フィリポに与えられたテスト
さて、山に登り弟子たちと一緒に座ったイエスさまは、群衆が近づいてくるのをご覧になった。そして突然弟子の一人フィリポに言う。「どこでパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」この発言は、フィリポを試すためのものだった。
でもなぜフィリポだったのか。フィリポは、ペトロやアンデレと同じ、ベトサイダの出身である。ベトサイダは、この「パンと魚の奇跡」が行われた場所の程近くにある。隣村のような場所だ。聖書に記されるフィリポの情報は多くはないが、実はヨハネは、その福音書に、複数回彼を登場させている。そのうちの一つは(14 章)、十字架前夜の出来事である。フィリポは、イエスさまに、「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、私が分かっていないのか。」と言われてしまう。ずっと一緒にいたのに、イエスさまがどのようなお方かまったくわかっていないフィリポに、がっかりしたイエスさまのようすが目に浮かぶようだ。
「パンと魚の奇跡」、この時も、イエスさまはフィリポに、もっとご自分のことを知って欲しいと願われていたのかもしれない。しかしこの時、「どこでパンを買って来て、この人たちに食べさせようか」というイエスさまの問いに対し、フィリポは、「めいめいが少しずつ食べたとしても、二百デナリオンのパンでは足りないでしょう」と、具体例を出して、この大勢の人に食事を振る舞うのは、どう考えても無理ですと主張する。
② 用いられる少年のお弁当
すると、弟子仲間の一人、フィリポと同郷のアンデレが横から言う。「ここに、大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、それが何になりましょう。」アンデレもまた、具体的な例を出して、それは無理なことであるとイエスさまに言った。
少年は、何が何だかわからないままに、自分の持っている大切なお弁当「五つのパンと二匹の魚」―それは大麦製の乾いた貧しいパンと、小さな干し魚だったと想像されるが―それを差し出した。この時の少年の気持ちは分からない。しかし、何と、イエスさまは、この少年、そしてこのお弁当を用いて、問題を解決されたのだった。
③ 奇跡の概要
イエスさまは、五千人(マタイによれば男の人だけで五千人。女性や子どもを加えるとその倍くらいの人がいたかもしれない)もの人たちを座らせるように指示した。そして、少年の差し出したパンをとって感謝の祈りを捧げ、座っている人たちにパンと魚を分けた。そして、そのパンと魚で、群衆はお腹いっぱいになった。さらにイエスさまに促され、弟子たちが余ったパン切れを集めると、なんと十二のカゴがいっぱいになったとヨハネは述べている。
一体、どのようにしてパンと魚が増えたのか。主の奇跡の不思議は、私たちに明らかにされない点も多くある。
Ⅳ. テストの意味(ヨハネによる福音書6章16-21 節)
① 「16-21 節のエピソード」はなぜここに
今日与えられている聖書テキストは、ここで終わりではない。6章の21 節までである。
実はヨハネは、6章の後半、26 節以降で、イエスさまご自身が「命のパン」であることを記している。であれば、この「パンと魚の奇跡」から続けて、すぐに26 節以降を記しても良かったのではないかと考えてしまう。しかしヨハネはあえて、16節からの嵐の中の湖上での出来事をここに記す。
② テストの意味
「パンと魚の奇跡」で、イエスさまはフィリポをテストした。それは「主への信頼を問う」ものであった。フィリポもアンデレも、そのテストに不合格であった。この時点で、課題をクリアした弟子は誰もいなかった。
今は受験シーズンだが、受験前に模擬試験を受けた経験がある人も多いと思う。また、学生時代を振り返ると、学校の授業で「小テスト」や「確認テスト」が行われたことを思い出す。小テストや模擬試験は何のためにするのか。一つは、その時点での理解度を確認するためである。
そして、もっと大事な目的は、そのテストを通して、できなかった問題も含めて、確認し、理解を深め、今後の歩みに、学んだことを活かすためではないか。そのために、テストは繰り返し行われる。
② 嵐の湖を歩くイエスさま
イエスさまは、弟子たちのために、弟子たちの訓練のために、何度も『信頼テスト』を行われた。
今回弟子たちは、テストに失敗した。でも彼らは、自分の目の前で、イエスさまが問題を解決されるのを見た。さらに、嵐の湖に浮かぶ舟の中で、水の上を歩いて来てくださったイエスさまを見た。そして、イエスさまが舟に乗ると、あっという間に舟は目的地に着いた。イエスさまは、この奇跡も、弟子たちに「見せて」くださったのだ。弟子たちは、失敗しても、その都度、イエスさまが信頼を裏切らない方であることを教えられていった。
結論
とかく私たちは、神様を小さく捉えがちである。もっと大胆に期待し、信頼して良い。私たちも、日々、さまざまな問題や困難に直面する。今、「わたしを信頼するか」という、イエスさまの御声が聞こえてくるようだ。少年の差し出した、あの、貧しい、五つのパンと二匹の魚、これを用いて、イエスさまは、五千人以上の人のお腹を満たしてくださった。主の出題される「わたしを信頼するか」というテストに、「はい、信じます」と答え、主を信頼し、自らを差し出す時、私たち自身の力ではどうにもならないと思われるようなことであっても、主は、とるに足りない私たちを用いて、主ご自身が働いてくださって、「こと」を成し遂げてくださる。
たとえ、フィリポのように失敗しても大丈夫。神さまは、私たちを決して諦めない。イエスさまが忍耐を持って弟子たちに関わられ、そして、弟子たちがご自分を信頼することができるように、丁寧に導かれたように、私たちのことも導いてくださる。
主は、信頼するに相応しいお方。いや、信頼しなければならないお方。今、それぞれに与えられている課題に対しても、私たちは、その主に信頼して、勇気を持って挑むことができる。
私たちの存在は、あの少年のお弁当のように、取るに足りないもののように見えても、主なる神様が信頼できるお方なので、私たちは心配しなくても良いのだ。
