主イエスのもとへ来てください!
宮井岳彦副牧師 説教要約
イザヤ書28章14-22節
ペトロの手紙一2章4-8節
2025年2月16日
Ⅰ. 捨てられた石、主イエス・キリスト
3月末に引っ越しをいたします。高座教会の敷地にある牧師館に住まわせて頂くことになり、目下、引っ越しの準備をしています。準備しながら、引っ越しのために大切なのは「捨てる」ということだと思い知らされています。何でもかんでも持っていこうとせずに、ちゃんと捨てる。そうでないといらないものをわざわざ運ぶことになるし、新居での生活も混乱してしまいます。
今日私たちに与えられている聖書の中にも、「捨てる」という話が出てきます。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった(7節)」。家を建てる人が土地をならしている。パレスチナ地方の家は石を積み上げて造っていた。そうすると、必要な石といらない石がある。この石は使えない、邪魔だと思って、家づくりが一つの石を捨てた。すると、思わぬ事に、いらないと思ったその石が「隅の親石」になった。
隅の親石というのは、土台になる石、礎石のことです。これがないと建物を維持できない。建物の要になる石です。
今日の聖書の御言葉の中には、何度も繰り返して「石」と書かれています。使徒ペトロは石の話をしている。先ほどの「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」にも、やはり「石」が出ています。実はこれは詩編第118編の御言葉ですが、主イエスもあるとき紹介してくださったことがあります。
「ぶどう園と農夫の譬え」(マタイ21:33-46)に登場します。ある人がぶどう園を作りました。垣を巡らし、やぐらを建て、立派なぶどう園にしました。農夫を雇い、畑の世話と収穫を託して、主人は旅に出ました。やがて収穫の時期を迎えて、主人は使いをやって収穫を収めるように言いました。しかし、使いを何人やっても農夫たちは応じようとしない。ある者は袋だたきに去れ、ある者は殺され、ある者は石打にされました。最後に主人は、自分の息子を送りました、「私の息子なら敬ってくれるだろう」と考えてのことです。ところが、農夫たちはあの跡取りを殺せばぶどう園は自分たちのものになると言って息子を殺してしまった。そんな譬え話をなさって、最後に主イエスは聖書の言葉を紹介してくださったのです。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」。
ある人が、ここには一種の言葉遊びが隠れている、と解説していました。ヘブル語では、「石」はエベンといいます。そして、「息子」はベンという。よく似ています。ここで主イエスは農夫たちに殺された息子(ベン)の話をなさった。そんな話の最後に「家を建てる者の捨てた石(エベン)が、隅の親石(エベン)になった」とおっしゃった。つまり、ここで捨てられた石(エベン)というのは、神の子(ベン)である主イエス様のこと。そして、この主イエスという子(ベン)を礎石(エベン)として、神の家が建て上げられている。
引っ越しの荷物整理のためなら、しっかり不必要な物を捨てなければならないでしょう。しかし、私たちには絶対に捨ててはいけないものがあります。主イエスはおっしゃるのです。あなたたちは、本当は捨ててはいけないものを捨てたのではないか、と。神の子、神の息子でいらっしゃる方を捨てたのではないか、と。
これは使徒ペトロの手紙です。主イエスの側(そば)でこの話を聞いた人が書いた手紙です。ペトロは、「家を建てる物の捨てた石」という聖書の御言葉を語りながら、このときのことを思い出していたのだと思います。そして、自分は神の子を捨てたということを深く自覚したのではないかと思います。決して捨ててはいけない方を私たちは捨てていないでしょうか。
ところが、不思議なことが起きます。私たちが捨てた石であるイエス・キリストを、神が隅の親石になさった。驚くべき事に、このお方を礎石として神の家が建てられたのです。
Ⅱ. 主イエスと出会える家
使徒ペトロは私たちに語りかけます。
「主のもとに来なさい。主は、人々からは捨てられましたが、神によって選ばれた、尊い、生ける石です。あなたがた自身も生ける石として、霊の家に造り上げられるようにしなさい(4,5節)」。
何と神様は主イエス様を親石として家を建てあげてくださる。しかも、私たちをもその家を建てるための生ける石として使ってくださるのです。驚くべき事です。
聖書は「主のもとに来なさい」と言います。主イエス様のもとへ来てください!
しかし、一体どこへ行ったら主イエスのもとへ行くことになるのでしょう。どこに行けば主イエス様にお目にかかることができるのでしょう。私たちが誰かに会うために尋ねるとしたら、その人の家です。もしも宮井に会いたいと思ってくだされば、春になれば幼稚園の向こう側の牧師館にいます。それでは、主イエスがおられる家は一体どこにあるのか。
ペトロは「あなたがた自身も生ける石として、霊の家に造り上げられるように」と言います。主イエスが住んでくださる霊の家、それはあなたたち自身のこと。ですから、誰かが主イエス様とお目にかかりたい、神様に出会いたいと願うなら、教会に行けばいいと言っているのです。これもまた驚くべき言葉です。
教会は、私たちが礼拝を献げているこの建物のことではありません。これは礼拝堂あるいは教会堂という建物です。聖書は建物を指して「教会」とは言いません。「教会」は、神が呼び集めてくださった神の民のことです。しかし、教会は建物のことでもあります。但し、石や木の建物ではありません。霊の建物です。私たち神の民を生ける石として神が建てあげてくださった家です。
世の中には、世界遺産になるような立派な礼拝堂もあります。観光客がわざわざ遠くからやって来る教会堂もたくさんあります。それもまたすばらしいですが、それ以上にすばらしいのは、こうして礼拝を献げている皆さんです。神は皆さんをご自分のための霊の家としてくださった。私たちは霊の家です。共に礼拝を献げる教会の仲間と共に、霊の家にして頂きました。ここで主イエス様と出会う。私たちはこの家でキリストと出会う。
Ⅲ. 聖なる祭司として生きよう
そんな私たちの霊の家での営みを、聖書は「聖なる祭司となって、神に喜んで受け入れられる霊のいけにえを、イエス・キリストを通して献げる(5節)」と言いあらわしています。
祭司と書いてあります。祭司の役目は、祈ることです。しかも、他の人のために祈ることです。とりなしの祈りを献げる。
私が高座教会に来てこの一年、いくつもすばらしいと思ったことがありましたが、特に心に残ったのはこの「とりなしの祈り」です。高座教会にはとりなしの祈りの奉仕があります。ご自宅で祈りを献げてくださっている方がたくさんおられます。そして、礼拝堂の二階にあるとりなしの祈りのための特別な祈りの部屋で祈る奉仕があります。この奉仕は、守秘義務を誓約してプライベートな事柄についても祈ってくださっています。私は、この奉仕に高座教会の底力があると思います。聖なる祭司の働きです。ですから、皆さんにもこの奉仕をしてくださっている方に祈りを求めて頂きたいし、今度は6月にこの奉仕に仕えるためのセミナーもあるので、そこに参加して頂きたいとも願っています。
そしてもう一つ、私たちはこの世界のための聖なる祭司にもなることができるのではないか、神はそのように私たちを招いておられるのではないかと私は思っています。
私はこれまで約4年間、わが家の子どもたちの小学校のPTAの役員をしてきました。今、多くの学校でPTAの加入率が低下して、悩んでいます。漫然と、十年一日のように、昔のやり方をごり押しするというのはダメでしょうが、私は近年の現象はとても淋しいことだと思います。自分の子どもやよその家の子どもが育つ学校を少しでも良くしようという気持ちは尊いものだと思います。しかし、PTAにしても自治会にしても、そういうような地域共同体は崩壊の一途を辿っています。隣の家にいる人の顔も名前も知らないということも珍しくないと思います。集合住宅では表札も出ていません。他人に無関心な社会です。私たちは個人的に快適なスペースは持っていますが、共に生きるための、皆に共通のプラットフォームは失ってしまったように思います。
私たちは、この世界のための聖なる祭司です。共に生きる家を失い、バラバラになっているこの世界が、命をつなぐことのできる共同体が必要です。私たちはこの世界にあって「霊の家」を建てあげる生ける石にされているのです。
私たちそれぞれが生きている場で、共に生きる家になりませんか?家族、隣近所の人、学校の友だち、保護者同士。同じ病室や居室にいる人とも。誰にとっても、共に生きる共同体が必要です。皆さんがそこでキリストを信じ、キリストに頂いた信仰と希望をもって生きるなら、そこに新しい家が生まれるのです。最上の家、究極の家です。キリストが隅の親石となった霊の家です。
キリストのしてくださったよい御業を、互いに語り合いましょう。日常の小さな喜びを分かち合いましょう。そして、共に祈りましょう。そうやって共に生きる私たちの要(かなめ)は、ただイエス・キリスト。私たちがいらないと言って捨て、十字架にかけて殺したこのお方が私たちの隅の親石になってくださったのです。
