神のために豊かになる
和田一郎牧師 説教要約
ルツ記2章1-13節
ルカによる福音書12章13-21節
2025年2月23日
Ⅰ. イエスと群衆の一人との会話
ルカの福音書12章は、イエス様が大勢の人々を前に話されていた様子が記されています。12章1節には「数万人もの群集が集まってきて」とあります。ファリサイ派や律法学者という当時のユダヤ人の宗教指導者たちにとって、イエス様は神を冒涜する者だと敵意が高まっていました。しかし、民衆たちにとって、イエス様は奇跡を行い、神について威厳ある教えをしてくださる人として注目されていました。しかし、それはあくまでも興味深いとか、噂になっている人物として注目されていたのであって、イエス様の教えに聞き従おうとしていたわけではありません。今話題の人に会ってみたいという野次馬的な人もいたのです。
そこに、群衆の中の一人がイエス様に声をかけました。12章13節「先生、私に遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」きっと遺産の相続に関する問題で困っていた人なのでしょう。私たちが日常よく耳にする話題ですが、突然遺産の話がでてくることに違和感があります。よりによって大群衆を前にして忙しいイエス様に遺産相続の話とは。ですからイエス様は「誰が私を、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」と答えたのですが、しかし、イエス様は、この人の遺産相続の問題を、遺産相続の問題だけではなくて、この人の中にある一つの課題をしっかり見ておられました。それは人間誰もがもっている「貪欲」の問題です。イエス様は群集に向けて言われました。「あらゆる貪欲に気をつけ、用心しなさい。有り余るほどの物を持っていても、人の命は財産にはよらないからである。」
物欲というものは誰でももっているものです。しかし貪欲というものは自分に必要な限度を越えて、もっと欲しがる欲望です。また自分と同じような必要を抱えている人がいるにも関わらず、相手を押しのけて欲望を満たそうとするものです。そのことに用心するように警告しているのです。そして、これは誰の中にもあることです。そして、その貪欲が神の存在を心の中から締め出してしまう問題があるがゆえに、イエス様はここで群集に向きを変えて語られたのです
Ⅱ. 貪欲に注意する
人間の貪欲については、「出エジプト記」の中でも示されていました。荒れ野を旅するイスラエルの民が、日々の食糧に困っていました。すると毎日、天からマナという食べ物が降ってきたのです。ただし、それは一日分だけの量だったのです。神さまはその人、その家族に、今日必要なものを、必要な分だけ与えてくださる約束をしました。翌日のことが不安でマナを懐に残しておこうとする人がいたのですが、朝まで残しておくと腐ってしまったのです。つまり明日の分は、必ず神さまが明日用意してくださる、今日の分は、朝降ってきた分で十分なのに、自分の必要を超えて「もっともっと」という貪欲を戒めていました。それは信仰の訓練でもあります。そして、イエス様はさらに「物を持っていても、人の命は財産にはよらない」と、自分が持っているものによって、自分の命を得ることができると思う貪欲に注意するように言ったのです。
Ⅲ. 「愚かな金持ち」のたとえ
そこで、イエス様は譬えを話されました。(17-21節)ここで「愚か者よ」と言われている金持ちがいます。いったい何が愚かであったのでしょうか。この金持ちは、金貸しやギャンブルで財産を得たのではありません。真面目に働いていたのです。真面目に働いた結果、その年は豊作に恵まれたのです。その豊作で得た財産の扱い方に問題があったのです。その問題は三つありました。
一つは収穫を「私の物」と考えたことです。神に感謝した様子も、収穫の中から捧げものをした様子も見うけられません。富を得ることは問題ないのです。しかし、創造主である神様に造られた私たち人間にとって、与えられたものはすべて神様からの預かり物に過ぎません。天国に持って行くことはできないのです。神様から預かりものだと思っている人は、その使い方も変わってくるはずですが、この人は「倉を壊し、もっと大きいのを建て、そこに穀物や蓄えを全部しまい込」もう、つまり「私の物」だと抱え込んでしまったのです。
二つ目は、「自分の魂にこう言ってやるのだ。「魂よ、この先何年もの蓄えができたぞ」とあるように、これだけの富があれば、この地上での生活は安泰だし、魂も安心だと思ってしまったことです。そこには神様のことは全く意識されていません。そればかりでなく、この人が共に生きているはずのユダヤ社会には、苦しんでいる人、悩んでいる人、助けを必要としている人もいたに違いありません。共に生きている同胞に対する意識がないのです。この金持ちは豊作になったことを喜んでいますが、自分だけの財産を自分で獲得したという喜びに他ならないのです。
三つ目の問題は、「魂よ、この先何年もの蓄えができたぞ。さあ安心して、食べて飲んで楽しめ」と喜んでいることです。豊作になったことで、この先働かなくてもいい、食べて、飲んで楽しむことが良い人生だと思ったことです。「愚かな者よ」と言ってますが、彼が愚かだったのは、自分が得た財産や物によって命を得ることができる、最良の人生になると思ったことです。持っているものによって人生が決まると思ったことです。愚かな者でなく、賢い者となって生きるとは、この貪欲から解放されることなのです。
イエス様は、この譬えで「お前の魂は取り上げられる」と言っています。以前の新共同訳では「お前の命」とありました。私たちに命を与え、私たちの人生を導き、命を終わらせる神様に目をむけさせているのです。
日本人の平均寿命は2023年女性が87歳、男性が81歳だそうです。男女とも80歳を越えて、人生100年と言われるようになりました。このような時代に老後の備えをすることは大切だろう。しかし、長くても100年ほどのこの地上の人生が、自分の計画どおりにはいかず、終わりの時が突然やって来るかもしれないことを、今日の聖書箇所は語っています。しかしそれならば、死が今夜ではなく10年後なら、20年後なら安心できるのでしょうか。富によって豊かさが買えないように、時間によっても豊かさは買うことはできません。信仰によって神様との良い関係を保つことこそが、決して奪い去られることのない平安へと至る道なのです。
使徒パウロは手紙の中で言っています。
「この世で富んでいる人々に命じなさい。高ぶることなく、不確かな富に望みを置くのではなく、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。真の命を得るために、未来に備えて自分のために良い土台を築き上げるようにと。」(テモテへの手紙一6章17-19)
「喜んで分け与えるように」というのです。
Ⅳ. 人のため神のため
財産をもっている者が、持っているがゆえに幸せとはいえないように、健康も同じです。病気がないことは幸いなことですが、病気を抱えていても幸せな人もいれば、健康であっても満たされない人がいます。
作家の三浦綾子さんは、ご自分を「病気のデパート」と呼んでおられるほど、沢山の病気を抱えていた人です。病気でベッドの中にしかいられない、トイレに行くこともできないことがあったそうです。肉体が健康だからといって、その人が生きているとはいえない、その反対に病人であったり、年老いた老人や、障害をもった人でも生き生きとしている人がいるのではないか。三浦綾子さんは聖書の「ヨハネの黙示録」の言葉を読んで「生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」という箇所を引用されていました。「私はあなたの行いを知っている。あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。目を覚ませ。死に瀕している残りの生活を立て直せ。私は、あなたの行いを、私の神の前で完全なものとは認めないからである。」(黙示録3章1-2)
三浦綾子さんは、洗礼を受けてから、どんなふうに変わったかというと、毎日人のために祈るようになったということだそうです。ベッドで横になったままで、何の仕事もありませんけれども、とにかく人のために祈ってきた。実はそれまでは「死にたい、死にたい」とばかり思っていて、人の迷惑なんて考えない、自分のことだけしか考えていなかったことを思いますと、人のことを祈るということだけでも、随分違う生活になったものです。ベッドに横になったままで、よくハガキを書きました。ハガキを1枚書くのに、3日ぐらいかかりました。どんなに疲れても、このハガキを書くのだ、人のために書くのだ、という思いを与えられたのは幸いでした。私たちの心も、人のことを考えている時、本当の意味で生きているのではないかと思うのです。人偏に動くと書いて「働く」となりますが、本当に人のために動くことが働くことじゃないかと思ったそうです。(『愛と信仰に生きる』)
貪欲から解放されて新しく生きるなら、私たちは「愚かな者」ではなく、本当に「賢い者」となります。本当に賢い者として生きるとは、イエス様によって自分の生活を変えられていくことです。イエス・キリストによって豊かになるとき、私たちは自分が所有しているものを失う恐れからも解放されます。そのことによって私たちは、お金や資産だけでなく、力や地位や名誉を、他人のために手放していくことができるのです。持っているものを必要としている人のために用いていくことができるのです。神様が命を与えて下さった、人生を定められた時に終えて、世の終わりに復活と永遠の命を与えてくださることを信じて生きるなら、私たちは死への恐れから解放され、神様のために豊かになれるのです。
お祈りをいたします。
