神はわが砦
和田一郎牧師 説教要約
詩編46編1-12節
ルカによる福音書12章22-34節
2025年3月2日
Ⅰ. 思い煩うな
先週は、ルカ福音著12章の「愚かな金持ち」の話から、「貪欲」についての話をしました。あの愚かな金持ちは、豊作になった作物を大きな倉を作って自分の物として抱えようと思った。抱え込んだ作物で幸せになれると思った。しかし、魂はその日に取られるかも知れないのです。大きな倉を作って幸せになるどころか、欲に縛られてしまっている。愚かな金持ちにとって大きな倉は、貪欲を象徴するものでした。倉は人を豊かにしません。イエス・キリストに従って生きる者は、受けるより与える喜びを知り、所有しているものを失う恐れからも解放される。イエス様は多くの群衆の前でその話をされました。
イエス様の話には続きがありまして、それが今日の聖書箇所です。22節「イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと、思い煩うな。」以前の新共同訳では「思い悩むな」とありました。
この「思い悩むな」というイエス様の話は、マタイ福音書の山上の説教でも語られていました。しかし、イエス様のこの言葉は「悩まなくていいんだ。大丈夫。きっとなんとかなる」と楽観的になることを勧めているのではありません。この福音書が書かれた当時も、教会には苦難がありました。ローマ帝国によるキリスト教会への迫害が始まっていました。その迫害によって生活の問題、命の問題が悩みとしてあったのです。いつ自分たちの命が迫害によって、脅かされるのだろうかという不安があったのです。さらにその時代は、キリスト教会というものが社会で認められる存在ではありませんでした。後のローマカトリック教会のような強い権力をもっていなかったのです。
32節に「小さな群れよ、恐れるな」とあります。イエス様の弟子たちは、ファリサイ派やサドカイ派に比べれば、まだ小さな群れでした。イエス様が天に昇られた後にできた初代教会も、いわゆる家の教会であったと言われています。パウロが建てた教会というのも、どれも小さな群れです。信徒たちの家で礼拝をするというのが当時の教会。吹けば飛んでしまうような小さな群れだったのです。「小さな群れよ、恐れるな」。このイエス様の言葉は、自分たちの立場や、自分たちの生活や、自分たちの命がどうなるのか分からない中で語られた言葉でした。
以前、私がこの箇所の説教をした時は、何を食べようか、何を着ようかと、食べるものがない、着るものがなくて困っている人は、日本に住む私たちの周りにはいないのですが、と話したことがあります。日本は豊かな国だから実感がないと話をしました。しかし、今は厳しい社会状況があります。経済的に困窮している人が日本でも一定数いることが分かっています。貧困は大人だけの問題ではなく、その子どもにも大きな悪影響を与えています。
気候変動による災害の厳しさも、この国の不安要素です。この冬の大雪も、海水温の上昇によって今後も予想されるそうですが、次から次へとやってくる自然災害を経験している私たちにとって、「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。」という言葉は、私たちの心に真実味をもって響くのです。
そして、「烏(からす)のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。まして、あなたがたは、鳥よりもどれほど優れた者であることか。」烏という鳥は、旧約聖書の中でも「忌むべきものである」(レビ記11:15)つまり汚れたものとして数えられています。現代でも烏は、ゴミを散乱させたり、時々人を威嚇してきたりする鳥ですから、まったく歓迎されていません。
さらに「野の花がどのように育つのかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」と、イエス様は、小さな自然に目を向けて、この野の花は栄華を誇って着飾った王様より美しいと言われるのです。野の花は雑草と同じ扱いにされて、抜かれて捨てられます。
つまり烏も野の花も、人間にとってはあってもなくてもいいもの、大した価値がないものとされているものです。それなのに、その一つ一つの命が神様に覚えられ、その顧みの中に入れられているというのです。愚かな金持ちでさえも、コツコツと種を蒔き、刈り入れをし、作物を倉に収める。そういったことを、いっさいしない烏、忌み嫌われる小さな存在の烏を養ってくださるのだから、まして神の似姿である人間の命は、必ず養ってくださるのです。
Ⅱ. 「倉」という貪欲
ここで「烏は・・・納屋も倉も持たない」それでも神は養ってくださる、とあります。これは先週読んだ、「愚かな金持ち」と対比しているのです。あの愚かな金持ちは、豊作になった作物を、大きな倉を作って自分の物として抱えようと思った。大きな倉に抱え込んだ作物で幸せになれると思った。しかし、烏は、納屋も倉も持っていないというのです。ではどうしているのか?それは、神様が養ってくださるのだと言うのです。先ほど、あの金持ちにとって倉は貪欲の象徴だと言いました。これは貯蓄することや資産をもつことを否定しているのではありません。それらの資産は生活を安定させますから大切ですが、永遠の命、永遠の幸せではないということです。貪欲に縛られていると心の中から神様を締め出すことになるからです。烏や野の花のように神様が養ってくださることを覚えなさいと教えているのです。
Ⅲ. 神の力強い御手に
使徒ペトロは思い悩んだ時、へりくだって謙遜であることを勧めています。
「ですから、神の力強い御手の下でへりくだりなさい。そうすれば、しかるべき時に神はあなたがたを高くしてくださいます。一切の思い煩いを神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」(1ペトロ5:6-7)
この手紙は、ペトロが迫害に苦しんで思い悩んでいる人たちに向けて書いた手紙です。ここではへりくだりなさい、と言っています。へりくだって、一切の思い煩いを神にお任せしなさいというのです。思い悩んでいる時は、心が沈んでいますから、そこにへりくだりなさい、という教えは、果たしてそうなのだろうか?とも思います。思い悩んでいるときに、無理をして頑張ろうとすると、空回りになることがあります。かえって、へりくだる事、謙遜になることによって、
ペトロは言うのです。「そうすれば、しかるべき時に神はあなたがたを高くしてくださいます。一切の思い煩いを神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。なぜなら神様は、いつも私たちのことを心にかけてくださるからです。」
へりくだることによって、自分に限界があること、自分の力だけでは試練を乗り越えられないことを認めることができます。神が最善の時に、最善の方法で助けてくださるという確信を得た時、私たちは思い煩いから解放されるのです。
Ⅳ. 父はご存じである
29-30節「何を食べようか、何を飲もうかとあくせくするな。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。」とあります。その「世の異邦人」とは神さまを信じたい人々のことです。信じていない人々は、自分で自分の命と体を養い、装わなければならないと思い、「何を食べようか、何を着ようか」と必死になって思い悩んでいる人のことです。一方で信仰のある人はでうでしょう。30節後半「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。」というのです。父なる神は、私たちの必要を知っていてくださる。命を養う食べ物や、身体を装う衣服が必要であることを知っていてくださる、知っていてくださるだけではなく、心から私たちを愛し、必要なものを必要な時に必要な分だけ与えて下さる神様がおられるのだ。そう信じる信仰者に「ただ神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられる。」(31節)とイエス様は言われるのです。
今日の説教題は「神はわが砦」としました。今日、朗読しました詩編46編は宗教改革者のマルチン・ルターが愛した聖書箇所だと言われています。宗教改革というのはスムーズに受け入れられたのではなく、終始誤解され、多くの人から罵られたと言われています。ルターは悪魔よばわりされたこともあったのです。思い悩んでいたある日、ルターの妻が黒い喪服で部屋に入ってきました。驚いて「誰か死んだのか?」とルターが聞くと、妻は「神がなくなりました」と言ったのです。つまり思い悩んでいるルターの心の中に、神様がいなくなった、神様への信頼が薄れているのではないですか?と妻は言いたかったのです。そのおかげで、ルターは「はっ」とさせられて宗教改革の働きにおいて神様が私を知ってくださる、神様が必要を満たしてくださると、立ち直ったというのです。
そのルターが、愛した詩編46編をもとに、作詞作曲したのが讃美歌377番です。500年ほど前に造られた曲を、今も賛美しているのですが、ルターはこの中で「神はわが砦、わが強き盾 打ち勝つ力は われらには無し 力ある人を 神は立てたもう その人は主キリスト われと共にたたかう主なり わが命 わがすべて 取らば取れ 神の国は なおわれにあり」と謳っています。
思い悩んでいる時、私たちの砦となってくださるのはイエス・キリストその方です。たとえどのような状況になっても、私たちと共に神がいてくださいます。命を取るなら取ってください。たとえそうであっても、神の国はこの私の中にある。神を信頼して歩んでいきましょう。
お祈りをします。
