仕える喜び
<神学生奨励> 河野豊神学生 奨励要約
イザヤ書58章6-11節
マルコによる福音書9章33-37節
2025年3月9日
Ⅰ. 派閥争いに没頭する弟子たち
① 「王国」でのより良い地位を求めて
最近はあまり聞かなくなりましたが、昔は「出世レース」という言葉が使われ、同期や身近な先輩との競争を勝ち抜いて、いかに効率よく昇進していくかが重要視されていました。近年、働き方そのものが大きく変わってきて、「出世レース」という考え方自体、時代に合わないかもしれませんが、自分にとって有利に物事を進めたい、周りの人々よりも優れた地位につきたい、といった考え方自体は、おそらくどんな時代にあっても同じではないでしょうか。
今日の聖書箇所からは、イエス様につき従う弟子たちの間でさえ、「出世レース」があったことがわかります。この場面は、イエスが「メシア」であることを弟子たちが確信するようになった後の場面です。「メシア」とは、イスラエル民族を導く王・祭司としてのリーダーであり、神によって遣わされたメシアは、永遠に続くダビデの王国を実現すると預言されていました。
弟子たちは、イエス様がローマ帝国の支配を打ち破り、力ある王、偉大な祭司として、イスラエル民族のための「王国」を立て上げてくださるはずだ、と期待していました。さらに、弟子たちの関心は「王国」が立て上げられた後、自分たちが少しでも良い立場にいられることへと、移っていきました。
「イエス様が王になったら、十二弟子の誰がいちばん高い役職に就くだろうか?」「そうすると、十二弟子の誰につくのが有利だろうか?」いろいろな憶測が駆け巡り、弟子たちの間で論争が起こるようになっていきました。
② 「悪だくみ」を見抜くイエス
カファルナウムに向かう道中でも、弟子たちはそのことで言い争いをしていました。それを知っていたイエス様は、家に着くなり弟子たちにこう問います。『道で何を論じ合っていたのか。』この「論じ合う」という言葉は、計算的な考えや議論のことで、言い換えると「悪だくみ」です。イエス様は、弟子たちが悪だくみをしていることを、すでに見抜いておられたのです。
一方で弟子たちは、もしこの場面で何か言い訳をしたら悪いことを考えていたことがバレてしまう、いろいろと「不利」になってしまうと考えて、イエス様の質問に答えることなくずっと黙っていました。そこでイエス様は、当初からの弟子である十二弟子を呼び集めて、教え始められたのです。
Ⅱ. 私たちの基準と神の国の基準
① 「先になりたい者は、後になりなさい」——「逆説」の価値観
「先になる」「後になる」というのは、単なる順番の問題ではありません。「先の者」とは、人々の間で尊敬され、優遇される人々のこと。「後の者」とは、小さな子どもや病を負った人、社会的身分の低い人、軽蔑されるような人々のことをいいます。
イエス様は、「権威ある者になりたいのなら、すべての人よりも身分の低い者として、人々に仕える者になりなさい」とおっしゃったのです。私たちが権力を追い求めることと、神の国においてすぐれた者とされることとは、まさに対極にあることだと気付かされるのです。
② 「仕える者になりなさい」——人々の喜びのため
しかし、「仕える」とはどういう働きを指しているのでしょうか。「仕える者」という言葉は、もともとは「(食事の席において)給仕する者」という意味をもっています。それは必ずしも「奴隷として働く」ことと同じではありません。また、そのイメージはイエス様ご自身がなされた「奉仕」の働きとも重ね合わせられます。自らを奴隷のように自己卑下して、身を削って働くこととは、少しニュアンスが異なるのです。
毎月第4主日にはジュニチャの子どもたちが主体で働く「ジュニチャ食堂」が開かれています。そこでは、ジュニチャの子どもたちが食事の準備をし、食事に来る人たちに提供したり、お皿を下げたりして、一生懸命に働いています。ジュニチャ食堂で働いている子どもたちはとてもいい笑顔をしていて、彼らを見ていると段々と応援したい気持ちにもなってくるのではないでしょうか。そうして、食堂全体がとてもよい雰囲気に包まれていると感じます。こうした食事の場における奉仕というのは、ただ食事を作るだけにとどまらず、人々の笑顔までも作り上げる仕事だと言えるのではないでしょうか。
③ 形式的ではなく、心の内側から
こうしたジュニチャ食堂の素晴らしい活動を見るとき、「仕える」とはただ形式的に働くことではないことに気付かされます。何より、奉仕にしろ、礼拝にしろ、神様ご自身が形式的な「儀式」や「作業」として行われる活動を好んでおられない、ということが聖書には示されています。
イザヤ書58章では、イスラエルの民が「儀式」として断食をし、祈りを捧げていることに対し、預言者イザヤは批判的な神の言葉を告げています(イザヤ書58章6-7節)。イザヤが語る神の言葉は、民族の間の大きな格差を見て見ぬふりし、ただ自分の利益だけを求める「断食」が、神の前には無意味であり、好まれないものであることを示しています。
主なる神様は私たちが「仕える」とき、外面的にでなく心の内を見ておられます。その働きが愛とあわれみに満ちたものでなく、ただ形式的なものだとしたら、神様は受け入れてくださいません。イエス様につき従う弟子たちが誤解していたのは、こうしたことではないでしょうか。
権威ある者、偉大な者になろうと考える者は、神の国においては最も低く評価されます。むしろ、愛とあわれみによって自らを低くし、人々の必要のために仕える者こそ、神の国において高く評価されます。それが、イエス様の言葉の意味だったのです。
Ⅲ. 弱さを受け入れ、神を受け入れる
① 小さい者を受け入れてくださる方
イエス様は家の中央に子どもを呼び寄せ、抱き寄せながら、おっしゃいました。37節『私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである。』
この時代の子どもは、親の所有物とみなされていました。子どもは、権利を持たないとても弱い存在だったのです。一方で、イエス様は「子ども」だけに限らず、社会的立場の弱い人、様々な事情で苦しんでいる人なども含めて語られたとも考えられます。
イエス様は、弱さをもった人々を抱き寄せ、受け入れてくださいます。私たちが小さな子どもであるときから、ずっと受け入れ、守っていてくださるお方です。私たちの弱さをも受け入れてくださるお方がいることを知るとき、私たちはその愛の大きさがどれほどかを知るようになるのです。
② 主イエスを受け入れ、父なる神を受け入れる
そして私たちがされたように、私たちも小さい者に愛をもって仕えていくとき、その行動はイエス様がなさったことと重ね合わせられ、イエス様を受け入れることと重ね合わせられます。そして、イエス様を受け入れることは、イエス様を遣わしてくださった父なる神様ご自身を受け入れることとも重ね合わせられます。
そうしてイエス様がなさったように、自らがへりくだって愛をもって人々にお仕えしていくとき、私たちがイエス様を受け入れるというだけではなく、イエス様ご自身も私たちを受け入れてくださり、神様の祝福のうちに招き入れてくださるのです。
その希望が、その喜びが、私たち信仰者にはあるのです。
Ⅳ. 仕える喜び
① 仕える者となられた主イエスにならう
しかし、誰かにお仕えしていくことは、決して楽なことではないと思います。ただ、イエス様ご自身が先になしてくださったその模範に、私たちは倣っていくことができます。
人にはそれぞれ、得意なこと、不得意なこと、できること、できないことがあります。しかし、できることに違いがあるからこそ、様々な場面で、様々な働きで、それぞれが仕えるチャンスが生まれる、と言うこともできるのではないでしょうか。
② 仕える者に与えられる希望
マタイ25章39-40節では、小さな者に仕えることと、王である神ご自身に仕えることが重ね合わせられています。
私たちは、まず愛によって仕えてくださったイエス様のことを、聖書を通して知ることができます。私たちはイエス様の愛を受け入れ、イエス様がなさったように生きることを求めることができます。
私たちが誰かに主イエスの愛をもってお仕えするとき、そこには新しい喜び、笑顔が生まれていくのではないでしょうか。そこでは、イエス様ご自身も一緒に働いておられます。
主イエスの愛を受け入れ、私たちもその愛に生きるとき、主イエスは私たちを喜んで受け入れてくださり、祝福のうちに招き入れてくださいます。ここに仕えることの喜びがあるのです。この愛の奉仕のために遣わされていきたいと祈り願います。
