今や、驚くべき光の中に!

宮井岳彦副牧師 説教要約
ホセア書2章16-25節
ペトロの手紙一2章9、10節
2025年3月16日

Ⅰ. 礼拝、それは光の祝祭

高座みどり幼稚園では一昨日に卒園式が行われました。卒園式は祝祭の日、喜びの日です。特にみどり幼稚園の卒園式は新しい門出への祝福を求める礼拝です。卒園式は14日に行われましたがそこに至るまでたくさんの準備が重ねられてきたことでしょう。週報に掲載されている「共同の祈り」でも、5才児年長組の子どもたちのための祈りが要請されていました。幼稚園だけではありません。この春、たくさんの人が卒園・卒業や就職、退職、進学、異動など、いろいろな理由で環境が変わるのではないかと思います。そういった環境の変化のために、私たちは準備を重ねます。受験勉強をしたり、引き継ぎをしたり、身辺整理をしたり。しかし何よりも私たちにとって大切な準備は、祈りによる準備です。祈りをもって私たちは新しい時に向かって準備します。祈りと礼拝。その営みこそ、私たちの新しい出来事へのいちばん大切な準備ではないでしょうか。
今、教会は受難節(レント)を過ごしています。受難節はイースターの前の日曜日を除いた40日間と定められています。日曜日を除く、というのが面白いですね。どうしてなのでしょうか。
伝統を重んじる教会では、受難節はキリストの十字架の苦しみを思い、喜びを控えるということを重んじ、この期間にハレルヤの賛美歌を歌わないのだそうです。しかし、受難節であっても日曜日は別。受難節であっても、日曜日は主イエス・キリストの復活の祝いの礼拝を献げている。だからこの日は「ハレルヤ」と喜んで歌う。そのようなわけで受難節は「日曜日を除く40日間」と定められているのだそうです。私たちは日曜日の礼拝の度に、キリストの復活を祝う祝祭をしている。礼拝はお祝いです。
今日私たちに与えられている聖書の御言葉はこのように語りかけます。(9節)「…それは、あなたがたを闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある顕現を、あなたがたが広く伝えるためです」。神は、私たちを闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださっている。私たちは神の光に照らされている!私たちは神の光の中に生かして頂いている!この光は「驚くべき光」です。イエス・キリストの復活によって私たちを照らす光です。
この光そのものでいらっしゃるお方を私たちは礼拝しています。礼拝は祝祭です。光の祭りです。私たちは神さまを喜んで礼拝する。礼拝という祝祭を喜ぶ。

Ⅱ. 善意に守られた市民生活

春を迎え、新しい出発をしようとしている方が何人もおられると思う、と申しました。私もその一人です。いよいよ来週24日に引っ越しを控えています。これもまた一つの新しい旅立ちです。
しかしそれだけではなく、もう一つのことを今考えています。この4年間さがみ野教会の仲間たちに祈って送り出していただいてきた。そしてこの一年間は高座教会の皆さんにも祈って頂いてきたPTA会長としての役目をこの春に終えようとしています。私にとってはたくさんの貴重な出会いの機会になりました。神さまは私たちの人との出会いを通して新しくすばらしい出来事を始めてくださる方です。出会いは神が私たちに下さったすてきな宝です。
この役割をただいたお陰で学校のことや座間市の教育行政の知らなかったことをいろいろと知ることができました。楽しいことでした。その一つに「座間市学校保健会」という仕事があります。たまたまこの2年間はわが家の子どもたちの小学校が事務局校になっていたので、私は保護者の代表として座間市学校保健会副会長という立場でこの会議に出席いたしました。
学校保健会というのは、学校医、学校歯科医、学校薬剤師、そして養護の先生や栄養士の先生などが集まって構成されています。年に何度か開催される定例役員会で、各部会の働きが報告されていました。最初は右も左も分からずに座っていましたが、何度も重ねて話を聞いていくうちに、とても楽しい時間になってきました。
4月になると子どもたちは内科検診、歯科検診を受けます。校医の先生がしてくださっています。学校の水道水の水質検査や教室の光量の測量、空気の検査などは学校薬剤師の先生がしてくださっているそうです。この会議に出席して、そういった「当たり前」のように享受してきたいろいろなことが、実はたくさんの人の善意の積み重ねで成り立っていたということに気付くことができました。
私たちは、本当にたくさんの人の善意に支えられて市民生活を送っています。保育も介護も、人の善意抜きには成り立ちません。水道や電気が維持されていることも、公共交通機関が動いていることも、食堂でご飯を注文できることも同じです。たくさんの善意によって市民生活は成り立っています。このペトロの手紙は、そういう私たちの市民生活に強い関心を抱いています。13節には「人間が立てた制度」の話が登場します。私たちは人間が立てた社会制度の中で生きており、そこにはたくさんの善意が介在している。そういう社会の中でキリストの教会の一員として生きています。

Ⅲ. 神に選ばれた民として生きる

そんな私たちキリスト教会を「あなたがたは、選ばれた民、王の祭司、聖なる国民、神のものとなった民」と聖書は呼んでいます。選ばれた民、聖なる国民、神のものとなった民。この3つはとてもよく似ています。神が私たちを選んでご自分のものとしてくださった、ということでしょう。なぜ、神は私たちをお選びになったのか。他の人よりも善意にあふれていたからではありません。他と比べていい人だったから選ばれた、というわけではないのです。
むしろ、私たちは10節に書かれているとおりです。
あなたがたは、
「かつては神の民ではなかったが
今は神の民であり
憐れみを受けなかったが
今は憐れみを受けている」
のです。
私たちはかつて神の民ではなかった。その資格もありませんでした。私たちは神の憐れみの外にいた。それに価しませんでしたから。むしろ私たちは闇の中にいた。それどころか、私たち自身が闇そのものでした。
受難節の典礼色は紫です。紫は悔い改めを象徴します。何を悔い改めるのか。キリストを十字架にかけて殺したのは、この私。この事実を、私たちは悔い改める。そのために受難節という40日間の祈りの日々を過ごす。
かつて神の民でなかった私たちを、神が選んでご自分の民にしてくださいました。神の憐れみに価しない者を、神がご自分の聖なる民としてくださいました。神は私たちを、私たちが一市民として生きるこの世界のための「王の祭司」として選んでくださったのです。
祭司は、礼拝を献げる人のことです。私たちを照らす光である神を礼拝する。それによって、「あなたがたを闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある顕現を、あなたがたが広く伝える」という出来事が起こる。光を祝い、キリストの光を高く掲げるために、神は私たちを祭司として任命なさったのです。

Ⅳ. この地でキリストの光を掲げて生きよう

かつて富士峰山教会で仕えておられた矢野文伝牧師がまだ高座教会の信徒でいらしたときのお話を伺ったことがあります。
近所の気の良いおじいさんとおしゃべりをしていた。ある時、私も高座教会で洗礼を受けたという話をなさったそうです。すると好々爺(こうこうや)のようなそのおじいさんの顔がみるみるまっ赤になって、「お前も生島か!」と一喝された。そんなことがあったそうです。
この社会の中で生きている以上、私たちにもそういうことは起こるでしょう。しかし、私たちがここで神を礼拝するということには、私たちが考える以上の意味があります。私たちは主イエス・キリストの光の祭りを祝っています。かつて神の民でなかった私たちを憐れみ、ご自分の民にしてくださった神の光を祝います。礼拝は光の祝祭です。闇の中におり、闇そのものである私たちを照らしてくださる光をたたえています。私たちが個人的にその光を楽しむためではありません。私たちの心の小さな安寧(あんねい)のためではない。この社会に広くキリストの光を証しするためです。ここに光がある!あなたを照らす神の憐れみの光がある!私たち自身を照らしてくださる神の光を、私たちは証言します。
この地であなたが神の民の一人として神を礼拝するとき、それは、あの「お前も生島か」と怒鳴ったおじいさんの前にも、神の光の輝きを掲げる大切な務めを果たしているのです。ここにあなたがいて神を礼拝している。その事実が、あなたが生きるその場所に神の光が届けられているという確かな証拠なのです。
私たちは、王の祭司として神を礼拝しています。祭司は神を礼拝します。社会に生きるたくさんの人に照らされる神の光を掲げるために礼拝をします。礼拝は光の祝祭です。今日は祝いの日。キリストの復活のいのちを祝う祭りの日。主イエス・キリストは祭司の王国の民としてあなたをお選びになり、あなたをこの礼拝に招き入れてくださったのです。