死で終わるものではない
和田一郎牧師 説教要約
ダニエル書 12章1-4節
ヨハネによる福音書11章1-16節
2025年3月23日
Ⅰ. 御心に適うことを願う
今年のイースターは4月20日です。受難週が近づきつつあります。イエス様を死に追いやろうとする機運がユダヤに高まっていました。そして、宗教的指導者である大祭司がイエス様への殺意を明確にしたのが、ラザロの復活の出来事でした。そのラザロの復活の出来事を本日と来週の二週続けてお話したいと思います。
ここに病気にかかった人がでてきます。ベタニアという村に住んでいたラザロという人です。この人はマリアとマルタの兄弟でした。このマリアは、「マリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足を拭った女である」とあるように、マルタとマリアはイエス様と親しい関係にあったことが、聖書に書かれていますが、そのマリアの兄弟ラザロが病気でした。そのことをイエス様に伝えたいと思い、姉妹は使いを送りました。この時イエス様は姉妹が住むベタニアから歩いて1日ほどかかる、ヨルダン川の向こう岸にいたからです。
マルタとマリアの使いは言いました。3節「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。とあります。ただ、それだけでした。この短い伝言にイエス様への強い信頼を感じます。大切な兄妹が死の床にいたのです。姉妹にとっては必死の思いで使いをやったでしょう。願いを言葉にするなら、「ラザロが病気です。お願いですから早く来て癒してください。あなたが愛しておられるラザロが病気です、助けてください」と言いたいところでしょう。つまり、自分が願うように動いて欲しいと願うことが多いのではないでしょうか。自分の願いが願ったとおりに実現することを期待してしまいます。それはご利益がありますようにと願うご利益信仰になってしまいます。マルタとマリアの信仰はそうではない。神様の御心が成ることが最善であると信じていたのです。ご利益信仰は目的のために願いごとをすることです。そのためにおさい銭をしたり、お百度参りをしたりするのですが、私たちの信仰とは自分の思いが成ることではなく、神様の御心がなること、神の御心に焦点を合わせることです。
もちろん、具体的な願いを祈ることが間違っているのではありません。熱心に祈ることは大切です。そのように祈りなさいともイエス様は教えています。それはあくまでも私たちの最善の道を知ってくださる神の御心がなるように祈ることです。それが神様に対する信頼です。自分の思いや考えには誤った常識や社会の風潮が入っているものです。それを神様に押し付けたりするのではなく、人間の知恵を超えた神の御心に委ねて、その御心がなりますようにと願うことです。
「何事でも神の御心に適うことを願うなら、神は聞いてくださる。これこそ私たちが神に抱いている確信です。」(ヨハネ手紙一5:14)
マルタとマリアには、主が最善を成してくださるという信頼がありました。その信頼というのはどこから生まれてくるのか? それは御言葉を聞くことから生まれてきます。
マルタとマリア姉妹といえば、ルカ福音書10章の出来事を思い浮かべる方が多いと思います。イエス様が姉妹の家に来た時のことです。もてなしをしたのは姉のマルタの方だけで、妹のマリアは座ってイエス様の話をひたすらに聞いていたのです。姉のマルタのイライラは頂点に達してイエス様に(39節)「私だけにおもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」と文句を言ったのです。するとイエス様は「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている。しかし、必要なことは一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ福音書10:41、42)
イエス様は「必要なことは一つだけである」と言いました。一つというのはイエス様の言葉を聞くということです。御言葉を聞くことがまず大切なのです。
御言葉を聞くことから、私たちは神の偉大さ、知恵の奥深さ、私たちに対する愛を知ることができます。私たちの生活の中には苦難があります。そんな時、ああしてほしい、こうしてほしいという願いをするのですが、あくまでも、主の偉大さ、知恵の奥深さと、その愛を信じて、主が最善をなされることに委ねることが大切なのです。
Ⅱ. 神の栄光のために
姉妹たちには「すぐに助けに来てほしい」という思いがあったでしょう。でもイエス様は彼女たちが願ったとおりには動きませんでした。わざわざ知らせに来たことを考えれば、病状が悪いことは容易に想像がつきます。私たちであれば一刻も早く駆けつけようと思うものです。しかし、イエス様はそうなさらなかった。
聖書はイエス様が二日間何をしていたのかを記していません。イエス様は二日間留まった。それはラザロが死ぬのを待つためでした。なぜでしょうか? 4節「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。」つまり、イエス様は、行動を起こすべき神の時を待っておられたのです。イエス様は、ラザロの病を癒そうとされていたのではありません。イエス様は、ラザロが死ぬことをご存じでした。それにもかかわらず、この病による死が、それで終わるものではない、ラザロを甦らせることによって、神の栄光を現そうとされているのです。神の栄光とは、神が褒め称えられること、神を喜ぶ信仰が強められ広められることです。
多くのプロテスタント教会が大切にしている「ウェストミンスター信仰基準」には次のようにあります。《第一問:人間のおもな、最高の目的は、何であるか。答え:人間のおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことである》。
私たちの人生において、なぜこんなことが起こるのだろう?という苦難があります。思い通りにいかないことがあります。しかし、その苦難を通して神様は私たちが生きる意味を教えてくださいます。そして、それはすべては神の栄光を現わしていくことなのです。
私もそのような経験があります。これまでの人生の中で一番痛い思いをしたのが、信仰熱心だった母が天に召されたことでした。母の死を通して私は信仰をもちました。母の死によって牧師の仕事に導かれました。
悲しい出来事は、できれば避けて通りたいと思います。しかし、神様はその苦しみを通して、それに続くものがあるというのです。その病気は死で終わるものではなく、神の栄光が現されるためのものなのです。ですから、私たちの願いがすぐに実現しないからといって、落胆しなくていいのです。願いが願いどおりではなかったからといって失望しなくていいのです。それは、イエス様がマルタ、マリア、ラザロを愛していたように、私たちを愛してくださっているからです。愛していてくださるからこそ、私たちの思いを越えて最善へと導いてくださるのです。
Ⅲ. あなたがたが信じるため
7、8節「それから、弟子たちに言われた。『もう一度、ユダヤに行こう。』弟子たちは言った。『先生、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。』」
ラザロが病気になった時、イエス様はユダヤにはいませんでした。「ヨルダン川の向こう側」にいたのです。ファリサイ派や律法学者たちは、イエス様が神を冒涜し、人々を煽動しているといって石で打ち殺そうとしたのです。そのユダヤから逃れていたのです。マルタとマリアも、そのことを知っていたのでしょう。ところがイエス様は、(7節)「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われました。弟子たちは驚いて、イエス様に言いました。(8節)「先生、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」「ついこの間」というのは、イエス様が「私と父とは一つである」(10:30)と言った時のことを指しています。この言葉を、ユダヤ人指導者たちは神を冒涜したと考えたからです。それでヨルダン川の向こう側に逃れていたのですが「もう一度ユダヤに行こう」と言われたので弟子たちは驚いたのです。
それに対してイエス様は(9:10)「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」
どういうことでしょうか。ユダヤ人は、1日12時間を昼の時間と考えていました。昼はイエス様の公生涯の期間を指しています。そして夜は十字架の受難の時です。つまり、イエスはご自分が死ぬ時はまだ来ていない、「昼のうち」つまりこうして宣教の働きをしているこの時に行けば、殺されることはないと言われたのです。
イエス様は続けて、ラザロについて言われました。11節「私たちの友ラザロが眠っている。しかし、私は彼を起こしに行く。」聖書では、しばしば人が死んだ時「眠った」と表現することがあります。しかし、弟子たちにはその意味が理解できませんでした。それで彼らはイエスに言いました。「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」イエス様の言われたことを表面的にしか理解できなかったのです。それでイエス様は彼らにこう言われました。(14:15)「ラザロは死んだのだ。私がその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」
イエス様は意外なことを言いました。ラザロが病気になったとき、自分がラザロのそばに居合わせなかったことを「よかった」と言いました。なぜなら、もし、ラザロが病気で死んでしまいそうな時に、イエス様がその場所にいたら、ラザロの病気を癒していたでしょう。それはでは、これまで目の見えない人や皮膚病の人を癒した時のように、人間の苦しみを取り除いてくれる人でしかなかったでしょう。しかし、この時は遠く離れているわけですから、そのようにすることができません。結果、ラザロは死んでしまいました。しかし、ラザロが死んだので、死に葬られたラザロを甦らせることによって、もっと大きな主のみわざ、死の力と戦い、そこから解放して下さる御業を行うことができるからです。ですから、そこに居合わせなかったことを良かったと言ったのです。
しかし、弟子たちはそのことを、まだ理解できませんでした。ディディモと呼ばれるトマスは、仲間の弟子たちに(16節)「私たちも行って、一緒に死のうではないか」と言いました。危険が待っているユダヤに行ってイエス様が殺されるなら、一緒に死のうではないか、というのです。まだイエス様がユダヤに行くと言った意味が理解できませんでした。
イエス様は(9節)「昼のうちに歩けば、つまずくことはない・・・夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」と話されました。昼はイエス様と共に歩むことのできた公生涯の日々です。夜というのは十字架の出来事が起こった後、その人の内に光がないつまりイエス様を信じる信仰がなければ暗闇です。人生に躓きます。しかし、イエス・キリストを信じる信仰によって、私たちは今も、いつまでも昼を歩くことができるのです。キリストへの信仰が、死で終わるものではなくなります。私たちの祈りが、自分の思い通りの願いではなく、何事も神の御心に適うことを願うなら、昼の光の中を歩くことができるのです。
お祈りいたします。
