神の栄光のため
和田一郎牧師 説教要約
エゼキエル書 37章11-14節
ヨハネによる福音書11章38-46節
2025年3月30日
Ⅰ. イエスの涙と憤り
先週に引き続き、ラザロの復活の箇所を見ていきたいと思います。前半の話を振り返りたいと思います。
ユダヤにあるベタニアという村に住んでいたマルタとマリアはイエス様と親しい関係にありました。しかし姉妹の弟であるラザロが重い病気にかかったのです。その知らせをイエス様は聞いたのですが、すぐに駆け付けることはしませんでした。ベタニアに到着した時、ラザロは死んで墓に葬られて四日も経っていました。妹のマリアは「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」(32節)と泣きました。周囲にいた人たちも「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」(37)と口にして、ラザロの死を目の当たりにした人々は無力感に囚われていました。それでもイエス様はラザロの墓の前に立ちました。
それが今日の聖書箇所38節です。「イエスは、再び憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴(ほらあな)で、石で塞がれていた。」イエス様は憤っておられました。しかも「再び」とあるように33節でマリアが泣いていた、一緒に来ていた人たちも泣いていた、愛する兄妹ラザロが死んだことによって泣いている彼らの様子を見て、イエス様は憤りを覚えたのです。そして墓の前に来たとき、再び憤りを覚えました。「憤り」とは別の言い方をすれば「怒り」です。イエス様の憤り、怒りの矛先は泣いていたマリアや周囲の人々ではありません。盲人の目は治せたのにラザロの病気は治せなかったのか?という不信仰な言葉に怒ったのでもありません。イエス様の憤りとは、彼らが「死」というものに、まったく支配されている現実に憤りを覚えたのです。この世のあらゆる力と知恵をもってしても死には勝てない。「死んだらお終い」と多くの人がそのように思っている。死は圧倒的な力をもって人間を恐れさせ、支配しています。
私も人間がいつか死ぬ、それを知った時に恐れに支配されました。その時は自分が死ぬことよりも、大切な父や母がいつか死ぬことが恐ろしかったことを覚えています。イエス様はマリアと周囲の人たちが、その死に支配されて泣いている現実を見て憤ったのです。「死」に対して怒りを覚えたのです。
合わせてイエス様の心には悲しみがありました。憤りと同時に泣いておられました35節「イエスは涙を流された」。この涙はいったい、どのような涙であったでしょうか。
イエス様は、私たち人間を悲しみと無力感に突き落としてしまう、死に対して憤りを覚えてくださいました。死に対する怒りです。なぜ、お怒りになったのかといえば、私たちを愛してくださっているからです。人間を愛するが故に、死を前にして悲しんでいる私たちのために、涙を流されたのです。「死んだらお終い」という死生観に捕らえられた人間を憐れんでくださったのです。その死の力に対する怒りの思いは、私たちを愛する思いです。私たちを愛するが故に涙し、私たちを愛するが故に怒り、墓に挑んでいかれました。カルヴァンという神学者は、イエスは「戦いに臨む闘士」として墓に向われた。と語りました。この場面はイエス様の死の力との戦いです。
Ⅱ. 神の栄光と死のちから
39節「イエスが、『その石を取りのけなさい』と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、『主よ、もう臭います。四日もたっていますから』と言った。」死に支配されている人間は、4日も経てば死体が腐ってしまうことを知っています。ところがイエス様は、40節「もし信じるなら、神の栄光を見ると言ったではないか」と言われました。それは23節で言っておられた「あなたの兄弟は復活する」と言った、そのことでしょう。マルタが言った「もう臭います。四日もたっていますから」というのは死に対する敗北を意味します。しかし、イエス様は死と戦いの中にあって「神の栄光を見る」とおっしゃいます。死の支配と対極にあるのが神の栄光です。ですから、墓の洞穴の石をどけようとしながら、死を嘆いているマルタに対して、神の栄光を見るのだと力強く語られました。
しかし、その栄光を見るのは「もし信じるならば」見ることができるというものです。イエス様は神の栄光を見ると言われましたが、それは「信じれば」ということが前提になるのです。つまり、神の栄光を見たから信じるのではなく、信じているから神の栄光を見ることができるのです。
神の栄光について考えてみましょう。イエス様が誕生された出来事は、最初に野宿をしていた羊飼いたちに知らされました。その時「主の天使が現れ、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。」(ルカ2:9)とあるのです。羊飼いたちは「主の栄光」を見て非常に恐れたのですが、彼らが主の栄光を見たのは神への信仰があったからです。ある牧師は栄光が現れることを「神様は素晴らしい!と感動することだ」と説明していました。羊飼いが夜空で見たものは、単なる不思議な出来事ではなくて「神の素晴らしさ」が現わされているものだと見えたのです。まさしく羊飼いは信じる信仰によって「神様は素晴らしい!」と感動して、家畜小屋のイエス様を見に行って「神の素晴らしさ」を実感したのです。
イエス様はこの時、「もし信じるなら、神の栄光を見ると言った・・・」、事実、この出来事の後で、45節「マリアのところに来て、イエスのなさったことを見たユダヤ人の多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。」とあります。同じ出来事を見た、神の栄光が現わされた現場にいた、それにも関わらず、それはただ単に不思議なできごとに過ぎず、またイエスが面倒なことを起こしたとして、イエス様を陥れる話が本格化するのです。神の栄光を見たから信じるのではなく、信じているからこそ、神の栄光を見ることができるのです。
マルタとマリアは、イエス様と一緒に墓の前にいます。これから神の栄光を見ることになります。それは自分たちのことを愛してくださるイエス様への信仰によって可能になるのです。
Ⅲ. 大きな叫び声
41節、そこで彼らが石を取りのけると、こう言われました。「父よ、私の願いを聞き入れてくださって感謝します。」という祈りです。その祈りはまず「私の願いを聞き入れてくださった」という感謝の祈りでした。イエスの「私の願い」とは何でしょうか。イエス様はこれまでも、さまざまな奇跡をおこされました。その一つ一つは、天の父なる神に祈って成された神のわざです。その時々の奇跡において祈ってきたが、その願いを聞き入れてくださったことに感謝しているのです。そして、今ラザロのために、そしてマルタやマリアのために祈るのです。その願いは祈る前から聞き入れられていると確信をもっているのです。そしてここで大きな声で祈るには、もう一つの理由がありました。42節「しかし、私がこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたが私をお遣わしになったことを、彼らが信じるようになるためです。」この出来事は、多くの人々が見ていました。ラザロが死んで四日も経ってからイエス様が来られたことを見ていました。しかし、今ここで起こる出来事は「彼らが信じるようになるため」と言うのです。
この『ヨハネによる福音書』の最後に、この書を書いた目的が書かれています。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じて、イエスの名によって命を得るためである。」(ヨハネ福音書20:31)とあります。この書を書いた目的でもあり、ラザロの復活の目的も、人々が信じて本当の命を得るためでした。
43節「こう言ってから、『ラザロ、出て来なさい』と大声で叫ばれた。」
なぜ大声で叫ばれたのでしょうか。それは、死の支配に対する怒りと、ラザロ、マルタ、マリアたちに対する大きな愛が込められていたからです。ご自身も涙された悲しみの中から発せられた声でした。
それはまるで、天地創造の出来事の中で「光あれ」という声によって、何もないところから命を創造された言葉と重なるのです。あらゆる命を創造された権威ある声です。天地創造の出来事の時におられたイエス・キリストの言葉を思わせる大きな叫び声でした。
44節「すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。」ラザロは蘇りました。しかも埋葬された時の姿で手足を布で巻かれたままでてきたのです。これは、同じ復活の出来事でもイエス様の復活の様子とは違います。イエス様も布に包まれて埋葬されましたが、そのままの姿で復活されたとは書かれていません。イエス様は「復活の体」という新しい体で復活されたのですが、ラザロの場合は「復活の体」ではなくて、以前の体のまま蘇生したのです。イエス様のような復活の体は特別な体です。私たちがそのイエス様と同じ復活の体を得るのは、来るべきキリストの再臨の時を待たなければなりません。その時には、私たちも朽ちることのない「復活の体」で集められることになります。
Ⅳ. 私たちの復活
ラザロの体は蘇生して復活しました。しかし肉体の復活より大切なのは霊的な復活です。イエス様は、手足を布で覆われたまま出て来たラザロを見て、44節「ほどいてやって、行かせなさい」と言われましたが、覆っていたのは復活したとはいえ、それでもまだ人間に残ってしまう死への恐れ、死の支配、そして不信仰という罪の性質です。それらが体中を覆っています。私たちの中にも霊的に死んでしまうということが起こります。さまざまな事情で教会から離れることがあります。生活の変化によって離れる、仕事の都合で離れる、コロナをきっかけとして、何となく他のことを優先し始めて、教会から離れる、霊的に病んでしまう、霊的に死んでしまうことがあります。しかし、そこにイエス様の大きな叫び声が聞こえるのです。「出てきなさい。霊的に死んでいる者よ、霊的に閉じこもっている人よ、出てきなさい。」
キリストの声によって私たちの中にある不信仰が蘇(よみがえ)ります。霊的な復活は、キリストと共に生きることによって成しえるのです。
「神は憐れみ深く、私たちを愛された大いなる愛によって、過ちのうちに死んでいた私たちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――、キリスト・イエスにおいて、共に復活させ、共に天上で座に着かせてくださいました。」(エフェソの信徒への手紙2章4-6節)
私たちの不信仰は、キリストと共に歩むことから離れることから始まります。マルタやマリアでさえ、あれだけ親しかったイエス様が「イエスは言われた。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。」(11:25)とおっしゃったのに、墓を前にして「もう四日もたっていますから」と信じ切ることができなかったように、私たちには霊的な弱さが付きまといます。しかし、イエス・キリストその方と歩みを共にすることによって、私たちの霊性は蘇ります。キリストは十字架の死と復活によって、すでに死の支配に打ち勝ったのです。そして、やがて再臨の時には、私たちも復活の体を得て、新天新地で永遠の命を生きる希望があります。そのキリストと共に歩むことによって、今も、これからも、復活の信仰を確かなものにしていきましょう。
お祈りいたします。
