本当の自分らしさ
和田一郎牧師 説教要約
ヨハネによる福音書8章2-11節
2025年4月6日
Ⅰ. はじめに
ある休日の朝、妻が東京駅のギャラリーに行こうというので一緒に出かけました。そこでアップリケ作家・宮脇綾子さん(1905-1995)の作品を初めて見ました。生活の中で使い古されたボロの布、ひも、糸などを使って縫い合わせ、貼り付けて絵画のように作品にするのです。主婦として毎日見ているもの、例えば白菜の断面の美しさ、流しの下でうっかり芽を出してしまったサツマイモ、料理する前のエビやしゃこのゴツゴツした背を、ボロ布の色や柄を巧みに使ってアップリケで絵画のように描くのです。新鮮野菜にはない、枯れてしおれた野菜の花や、泥がついて傷のあるカブが生き生きしている。宮脇さんには、ボロ布が「私を使って」と聞こえるのだそうだ。使い捨てられたものが美しく生き返った。宮脇さんの言葉に「自然を見ていると、神様が作られる自然は素晴らしと思います。人智では作れない、神様が造られたもので美しくないものはないですね」とありました。
私はアップリケというのは、ワッペンのようなものを縫い付けていくものだと思って見に行った。宮脇さんはもともと専業主婦です。妻として夫を大切に支えることと、母として子どもたちを育てることに熱心でした。戦争中の暗い時代であっても良き妻でありたい、良き母でありたいと願って生きていたそうです。しかし、終戦によってやりきれなさを感じた宮脇さんは、「このままなにもせずに死んでしまってはつまらない」という思い、この辺りで少し自分のしたいことをやってみたいと、家にあった布を使ってアップリケを作ったのがきっかけでした。
今日のテーマは「本当の自分らしさ」としました。普段教会に来ていない方にとっても、聖書を通して「自分らしさ」を発見できることをお話ししたいと思いました。アップリケ作家の宮脇さんの作品を見ていて「本当の自分らしさ」は身近なところで発見するものではないか、と思ったのです。私たちの信じる神様は、はるか遠くにいる、近寄りがたい方ではなくて、聖書にインマヌエル(神は我とともにいる)とあるように、いつも身近に共にいてくださる神様なので、身近なところで神様の御業を見ることができると思います。そして、自分で自分のことを見つめていても、自分らしさは見つかりにくくて、神様と向き合うことで自分らしさが分かってくる、そのように思います。今日は姦淫の女の話を通して、みなさんと分かち合っていきたいと思います。
イエス様がエルサレムの神殿の境内にいました。周りには「イエス様の教えを聞きたい」と、大勢の群衆が集まっていました。そこに律法学者やファリサイ派という当時の宗教指導者たちがやって来ました。しかも姦淫の場で捕まえた女性を連れてきたのです。姦淫とは夫がいるのに他の男と浮気をしていた、その現場を見つけられて連れてこられたのです。ユダヤの立法では結婚している女性が夫以外の男性と性的関係をもつことは重大な罪とされていました。宗教指導者たちは「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」とイエス様に意地悪い質問をしたのです。(5節)
彼らがこの女性をここに連れてきたのは、実はイエス様を陥れるためでした。もしイエス様が「この女を赦せ」と言ったら、イエスは律法に反することを主張したと訴えることができます。もし逆にイエスが「この女を石で打ち殺すべきだ」と言ったら、ローマ帝国の総督の許可なしに死刑を主張したと訴える口実ができるし、これまで貧しい人や社会的に立場の弱い女性たちに寄り添ってきたイエス様ですから、そのイエス様の言葉によってこの女性が石打ちで殺されたら、民衆からの評判もがた落ちになるでしょう。だからどのように答えてもイエス様を陥れることができる、そういう状況に追い込むために、この女性を利用しているのです。姦淫の罪を見つかった女の弱さにつけ込んで、自らの欲望を満たそうとする人間の罪深さが表れているのです。ところが「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書いておられた。」イエス様が何と言うのか注目しているにも関わらず、かがみ込んで指で地面に何か書いている。人々の注目はさらに増したでしょう。この方はいったい何をしているのか? どのように受け答えをするのだろうか?と。そして、群衆たちは女に石を投げつけようと準備していたことでしょう。当時は律法違反をした者に対して、裁判もせずに石打ちをすることがあったようです。イエス様も何度も石を投げつけられそうになりました。この時も、そういった殺意が女に向けられていたのです。さあどう答えるのか。「彼らがしつこく問い続けるので」イエス様はついに口を開きました。
「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言われました。女性に石を投げつけようとしていた群衆たちは、イエス様の言葉を聞きました。「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と立ち去ってゆき、イエス独りと、真ん中にいた女が残った。」のです。神殿の境内は二人きりになりました。そこでイエスは、「女よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか」と問いかけると、女は「主よ、誰も」と答えました。そこでイエス様は、「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはいけない。」と言われたのです。
Ⅱ. 人のもつ罪
この出来事の中では、人間のもっている罪が凝縮されているのです。宗教指導者たちの罪、それを見守る群衆たちの罪、そして姦淫の女の罪です。まず、宗教指導者たちは、彼らにとって不都合な存在になったイエス様を陥れようとした重い罪があります。イエス様の命を狙うために、女の命を利用するという悪質な罪です。ここにはイエス様の評判が高まって自分たちの権威が危うくなる。自分の立場を守るために人を排除しようとする人間の姿があるのです。人には何かに快感を感じることがありますが、人の弱点や欠点を指摘することに喜び、人を裁くことに酔うという「罪」があります。それが集団になったとき、その裁きはエスカレートします。人の失敗に寄り添うよりも、その人間の間違いを徹底的に追及するのです。姦淫の罪で捕まった女性を連れて来た律法学者たちは、「この女ほど悪い罪を犯していない」と、自分の罪を棚に上げて、人を裁くことに熱中したのです。
次に群衆たちの問題です。彼らはもともとイエス様の教えを聞こうとして集まってきた人々です。中には評判のイエスとはどんな人なのかと野次馬で来ていた人もいたでしょう。しかし、彼らは宗教指導者たちが、女性を連れてきたとき、あきらかな罪を犯していることを知って、この女性を蔑んだのです。その証拠にイエス様が「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われた時、自分を恥じてその場を去ったからです。宗教指導者たちも、そこにいた群衆も、当時のユダヤ人たちは自分たち人間は罪人であるという認識はあったと思います。しかし、他人より多く献金しているとか、長く祈っている、少なくとも、あの貧しい者たちに比べれば正しいことをしているのだから、あの人たちに比べれば自分の方が正しいといった思いがあったのです。そうであるからこそ、他人を、貧しい者たちを、イエス様を罪に定めて、彼らに比べれば自分たちは正しいという思いになっていたのです。そのような思いの中では、自分たちの中にある罪について考えることがありません。自分たちに与えられた賜物について見つめることができません。つまり、罪に囚われている者たちは、自分らしさを見失っているのです。他人と比べて劣っていないだろうか、優れているだろうか。または周りがやっていることから外れていないだろうか、周りの人たちがやっているなら大丈夫という同調圧力が安心になっていないだろうか。いつしか自分を見失っているのです。もしここでイエス様が「彼女よりも正しく生きている者は・・・」と言ったなら、石を投げる人はいたでしょう。しかし「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が・・・」と言われた時、女との比較ができない彼らは何もできませんでした。自分の中に罪がないとは言えない、すべての人に罪があることを認めざるを得ませんでした。
Ⅲ. 赦しは神にしかできない
そして、最後に姦淫の罪を犯した女性ですが、なぜそのような浮気をしてしまったのかは記されておりません。しかし、何の弁明もしていないところからも、自分の罪を認めていたのです。人々は立ち去っていき、女性だけが一人残りました。彼女は「ああ助かった」と逃げることもできたでしょう。しかし、彼女は一人残ったのです。イエス様は「私もあなたを罪に定めない」と言われました。それは明らかに姦淫の罪を犯した人に、その罪を曖昧にするということではありません。彼女は、この方は、自分を本当に罪に定め、赦すことのできる救い主、神の子「主」なのだ、ということに気づかされたのです。「主よ、誰も」と言ったのはそういう意味です。そして、彼女は「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはいけない。」というイエス様の声に従って、本来の自分らしい人生を歩んで行くことができます。
Ⅳ. 本当の自分らしさを見つける
本当の自分らしさは、人との比較では見つけられないと私は先程言いました。人と比べることは、自分を知るきっかけになることは確かだと思います。人より上手にできる、人より熱心になれる、それと逆なこともあることを通して、自分の得手、不得手を知るきっかけにはなります。しかし、人と比較することを超えて、いつか「自分はこれでいいんだ」と思える時があると思うのです。
最初に話をしたアップリケ作家・宮脇綾子さんの作品は、アップリケと言っても他人がやっていない独特な作風でした。日常の家事を営む中で目にするもの、手にするもので美しいものを造り「これが自分」というものを見つけたのだと思いました。「神様がお作りになったものは一つとして同じものはありません」という感動が原動力となって、気の遠くなりそうな細かい作業で作り続けたのは「自分はこれでいい」というものを見つけたからだと感じました。
「本当の自分らしさ」それは自己義認ではなくて神様から認められている、神様から愛されている自分を見つめて、「私は、これでいい」と思える時があると思うのです。イエス様は、今日の少し前の箇所で言いました。
「渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書が語ったとおり、その人の内から生ける水が川となって流れ出るようになる。」(7:37,38)
渇いている人とは、神様を知らないので、他人と比較して右往左往している人です。しかし、イエス・キリストを主と信じる者は「その人の内から生ける水が川となって流れ出るようになる。」と言うのです。罪赦された者は、自分の中から生き生きとした水が流れ出る。本当の自分らしさが、自分の内から流れでるようになるのです。
イエス様に罪を赦されたとき 本当の自分らしさを見つける、信仰生活という旅がはじまります。その旅は「私はあなたを罪に定めない。行きなさい。今日からは、罪を犯さない日々を歩みなさい」という言葉に送り出されて一週間を歩みます。そして、また次の日曜日の礼拝に来て同じことを繰り返すのです。その繰り返しの中から、本当の自分らしさを見つけていきます。今日の姦淫の女のように、イエス様と出会うことができるように願っております。
お祈りいたします。
