報いを求めない人
和田一郎牧師 説教要約
マタイによる福音書6章1-4節
2025年4月13日
Ⅰ. 人間(ひと)とは妙な生きもの
私が好きな歴史小説に池波正太郎の「鬼平犯科帳」という小説があります。主人公の長谷川平蔵は「火付け盗賊改方」という、江戸の町を取り締まる役職でした。奉行所では扱え切れない凶悪犯を扱う長官で恐れられていたので「鬼平」と呼ばれていました。しかし、鬼平の青年時代は、家柄は良いのですが、ワル仲間とつるんで遊び呆けていた頃もあり、社会の底辺で生きる、ならず者や盗人の心情も知る火付け盗賊改方の長官でした。あるところに「明神の次郎吉」という男がいて、江戸に向かう途中の街道で人のうめき声がしたので、その方向に近寄っていくと、年老いた僧侶が倒れていました。瀕死の状態です。放っておくことができなくて僧侶の最後の頼み、自分の遺品(貴重な伝家の宝刀)を友人に渡して欲しいことを聞くと、息を引き取った。次郎吉は、その僧侶の遺体を背負って、近くの寺まで運び、供養のお金を置いて江戸へ向かったというのです。実はその次郎吉は盗賊でした。江戸に盗人の親分がいてその一味として盗みをしに来たのです。しかし、行き倒れになって死んだ僧侶の貴重な伝家の宝刀を、自分の物とすることなく、友人を探し当てて渡すのです。ところがその友人というのが火付け盗賊改方、鬼平の友人だったのです。結局、そのことから次郎吉は盗みに入った現場で取り押さえられてしまいます。
過去にも盗みを重ねてきた盗人一味でしたから、死罪になってもおかしくないのですが、潔くお縄にかかったことと、鬼平の温情によって死罪を免れたのです。人の家に押し入って盗みをはたらく悪人でも、日頃は善人になりきっている次郎吉を思って鬼平は言います。「人間(ひと)とは、妙な生きものよ。悪いことをしながら善いことをし、善いことをしながら悪事をはたらく。こころをゆるし合う友をだまして、そのこころを傷つけまいとする。(鬼平犯科帳『明神の次郎吉』)
善行というものは、善人だから行うとは限らない。逆に悪事というものは悪人だけが悪事を働くとは限らないわけです。人間は善人か悪人か、白か黒かに分けることはできない。人間は矛盾した生き物、人間(ひと)とは、妙な生きものだと、鬼平は言うのです。
Ⅱ. 善を行う動機
今日は歓迎礼拝です。今回の歓迎礼拝のテーマは「神さまからの呼びかけを聞く」としました。そして今日の神様からの呼びかけの言葉は6章1節の言葉です。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。」という呼びかけです。このマタイ書6章は山上の説教の中にある話ですが、「施し」と「祈り」と「断食」という3つの行いをする時にについて「見てもらおうとして、人の前でしないように注意しなさい。」と教えている箇所です。「施し」も「祈り」も「断食」も、信仰にもとづく正しい行いです。しかし、今日呼びかけられていることは「見てもらおうとして、人の前で」というところがポイントになります。家の周りの道の掃除をしたり、困っている人がいたら手助けするなど善を行うことは大切です。しかし、今日のポイントはその善を行う動機についてです。なぜ善を行うのか、その動機によって、まったく意味が違ってしまうという話です。
今日は歓迎礼拝ですから、ふだんは聖書に触れる機会が少ない方に向けたお話です。「善を行うことはいいことなんだから、動機なんてどうでもいいじゃないか?」そのように世の中では考えるかも知れません。しかし、聖書が教えている価値観は善を行う動機が大切だとしているのです。そして、その聖書が教えていることを通して、信仰の素晴らしさを感じていただきたいと思います。
私たちの思いの中には、クリスチャンであっても、そうでなくても、「自分はこんなに頑張っているのに、誰も褒めてくれない」という思いがあるのではないでしょうか。そんな時、私たちはがっかりします。一体何のために、正しいことをしているのか、人のためにあれこれ考えるのだろうか、分からなくなってしまいます。そのような時にこそ、本当は何のためにやっているのか、ということが問われてきます。
イエス様は「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いが受けられない。」つまり、人の目を気にして善い行いをしても、天の神様からの報いが受けられないというのです。
Ⅲ. 偽善者という仮面
続けてイエス様は、「偽善者たちが人から褒められようと・・・」してやっていることを真似してはいけないというのです。偽善者という言葉を使いました。イエス様はこの偽善者という言葉を何度も使います。イエス様は愛そのものといってよい優しい方ですが、一方で厳しい方です。偽善を見抜く方です。この偽善者という言葉の語源には「役者」という意味があります。役者はある人を演じるのです。善人でも悪人でも演じることができます。そして、その演技を評価してもらうので、観客の目を気にするのが役者です。評価されるということに生きるというのが偽善者の一つの本質なのです。それに、当時のギリシャ文化にあった演劇では、役者の多くが仮面をかぶって芝居をしていました。つまり、偽善者というのは、「仮面をかぶること」と言えます。仮面に隠された自分の顔を見せないということです。
今日の聖書箇所には、「偽善者たちが人から褒められようと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。」とあります。当時の宗教指導者たちは自分たちが信仰深い者として善い行いをしている。「施し」という、貧しい人困っている人を助ける行為を、褒められようとして人通りの多いところでラッパを吹き鳴らしている。つまり目立つところで施しをしていることを、偽善者と言ったのです。その偽善者たちは「彼らはその報いをすでに受けている」というのは、人からの評価は受けている、人の評判を気にしている彼らは十分人から善行をしていることを認められていると。しかしイエス様が指摘しているのは、最初の1節で呼びかけられたように、それでは「父からの報いが受けられない」のだということです。天におらえれる神様の報い、そこに善行を行う意味があるのだというのです。
今、自然災害が世界中で起こっているので、多くの人々が被災地で困難にあっています。
日本でも能登半島をはじめとする被災地がありますが、その人たちに支援物資や義捐金を送ります。その施しに報いを求めていたとしたら、それは施しではありません。そんなことは当然だと思うかもしれません。
Ⅳ. 右の手のしていることを左の手に知らせない
ところが、イエス様が求めておられることは、3節「施しをするときは、右の手のしていることを左の手に知らせてはならない。」というのです。右手で善行をしたことが、左手に知られていないということは、自分の中でも、施しをしたことを知っていないということです。つまり、イエス様は、見てもらおうとして、人の前で善行をしない、相手に報いを求めないだけでなく、自分が善行をしたことを、自分で満足することにも注意しなさいと言っておられるのです。自分で自分のことを正しいと認めることを「自己義認」と言います。真の正しさとは神様から「正しい」と認められるというものです。神様から正しいとされることが神様からの報いです。そういう人の善行というのは、自分で行った善い行いを忘れてしまうほど自分の中でも意識しないということです。マタイ福音書25章に次の言葉があります。
「すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつ私たちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、喉が渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、見知らぬ方であられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『よく言っておく。この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。』」(マタイ福音書25章37-40節)
かつてテレビ番組で、黒柳徹子さんがお母さまに教えられた言葉を紹介していました。「してもらった事は忘れてはいけません。しかし、してあげた事は忘れなさい」と教えられたそうです。黒柳さんのお母様は鎌倉の教会に通っておられたそうですが、聖書に基づいて子育てをされたのではないでしょうか。
今回は「神さまからの呼びかけを聞く」という歓迎礼拝のテーマから、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。」という言葉を分かち合いました。
イエス様が指摘する善行を行う動機が、天におられる父なる神様の報いを受けるところにあると言われます。霊なる神様は人間の目で見ることはできません。しかし、いつでもどこでも私たちを見守ってくださる神様です。その神様からの報いというのは、神様と自分が関係をもつということです。そのことを教会では「神の子とされる」とか「永遠の命を得る」と言い表します。父なる神様と良い関係をもつことで「永遠の命」が約束されます。永遠の命というのは、死なないということではなく、生きている今も、死んだあとも、神様との良い関係が続くという命のことです。「死んだらお終い」ではないという報いです。
「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(ヨハネ福音書15章5節)
とあるように、神様に繋がっていれば、その人には豊かに実を結ぶ人生が待っています。
わたしたちは、神様なんて関係ない、自分が誉れを受ければそれでいいという生き方をしていましたが、イエス様を救い主と信じる信仰によって新しい命、永遠の命をいただいて、世間や他人からの報いを求めることのない、自分らしい生き方を歩むことができます。そのために、イエス様は十字架に掛かって死なれました。今日は棕櫚の主日です。イエス・キリストが十字架への道を歩まれたことを覚えて、この一週間を過ごしていきましょう。
お祈りをいたします。
